光代さんの貸間の二階にいる立花カオルさんは、この四月に私立 0 女子大学の三年生に なった。大学に人学した時にその部屋に人ったから、足かけ三年いることになる。春休み には神戸の親の家へ帰っていたが、新学年が始まったので戻ってきた。やはり実家へ帰っ ていた他の学生は挨拶に来たがカオルさんは戻ってきても何の挨拶にもこない。 裏庭に洗濯物が乾してあるので、帰ってきたことに気がついた。そこで光代さんはカオ ルさんの部屋へ上って行った。 「こんにちは、立花さん : : : 米山です」 何の返事もないままドアが開いて、 「はあ ? 」 カオルさんが顔を出した。 「帰ってらしたのね」 「はあ」 てきがいしん 光代さんが間借人たちに敵愾心を燃やすようになったのは、その時からだといってもい いかもしれない。
当の間崎さんは食べているのかいないのか。一度、隣家の向田さんの大が、門の内側でゴ マ煎餅を齧っているのを目撃したが、もしゃあれは間崎さんが与えたものではないかと、 それ以来、光代さんは疑心暗鬼でいる。 間崎さんが犯人 ( ! ) か ? もしかしたら立花カオルさんかもしれない、と光代さんは 考えた。だがカオルさんは大に煎餅を与えることすらも思いっかないような、自分のこと だけで頭が占められている娘であるから、やはり間崎さんにちがいないと思う。 光代さんの間借人は、二階にいる立花カオルさんと島頼子さんのほかに、階下の二間を 一人で借りている三十一歳の新聞記者がいるが、この五木忠夫さんにも当然ゴマ煎餅は配 っている。だが深夜に帰ってきて昼まで寝ている五木忠夫さんが、大に煎餅を与えるわけ がない。お中元にもらった煎餅が湿ってカビが生えてそのままになっているのを、暮の大 掃除の時に光代さんは忠夫さんの部屋に人って発見した。そのカビ煎餅の横には、お歳暮 で送ってきた新しいゴマ煎餅がほうり出してあったのだ。 性島頼子さんがゴマ煎餅を喜んで食べているのが光代さんには嬉しい。もしかしたら喜ん な で食べているわけではなく、仕方なく食べているのかもしれないが、それでもいい。とに 果 因かく食物を大事にするという精神をあの人は持ってるわ、きっとご家庭のお躾がいいんで % しよう : かじ しつけ
「そうですよウ、そいで・ハッチシ、聞いちゃいました : 。ハニエルですよウ : : : 」 「ワハ 間崎氏は豪傑笑いを吹き上げる。 「笑ってごま化そうたってダメですウ」 みずみず カオルさんの声は瑞々しく甘ったるい。 「君、どこの大学 ? 」 「 0 女子大です」 「米山さんの二階を借りてるの ? 」 「ハイ。立花カオルといいます」 「そう、カオルさん。名前のように芳香を放ってる娘さんだね。そのうち遊びにいらっし ゃい」 「いいでしようか ? わたし、ジャアナリスト志望なんです」 「いいですよ。夜ならたいていいます」 「じゃそのうち、とっちめてあげに行きます : : : 」 、怖いなア」 : どうせ、わたしたちはコッカス
草である。 ートが飛んでいるネグリジェの、大きな襟ぐりから片 カオルさんはピンク地に緑色のハ のぞ 方の肩を覗かせ、何くわぬ顔でべッドに腰をかけている。 「何でしよう ? 」 とカオルさんはいった。 正座の膝にきちんと両手を重ね合せた間崎夫人の後ろに光代さんは坐り、緊張して二人 を見守った。 「突然ですけど、ちょっとお伺いしたいんです : : : 」 間崎夫人の声は慄えている。 「立花さん、率直に申しますけど、あなたはうちの主人とどんな関係になっていらっしゃ いますの ? 」 「どんなカンケイって ? 」 代真白な顔の中で、クルクルと黒目が動いた。 倫「それは一口にはいえませんわ。わたしは先生を尊敬してます。やがてはジャアナリスト 不 として生きようと思ってますから、いろいろ勉強になるんです。それで先生の弟子にして Ⅲもらったんです。だから、お食事したりお酒飲んだりすることもありますし、講演会のお ふる
因果な性 米山光代さんの貸間の二階には、立花カオルさんのほかにもう一人、女子学生がいる。 ようや この人は島頼子といって、三浪の果に漸く大学に人学出来、今は四年だから今年で二十 五歳になる長野県の人だ。三浪までして大学の法科にいると聞くと、人はがんばり屋だと いちず 思うだろう。実際、彼女は一途にまっしぐらに進む情熱家だ。大学の法科を出て法曹界 に人るのが中学生の頃からの夢だったのである。 ・ーー社会正義を守る人間として生きたいと思います : 中学生の時、「将来の夢」という作文にそう書いて以来、何が何でもその夢を実現させ 性なければならないと固く心に決めているのである。 な だから、島頼子さんははじめのうち光代さんの気に人りだった。 果 因「今どき珍らしい向学心に燃えてる娘さんなのよ」 と光代さんはよくいっていた。 よりこ
174 そんなこと、わたしが知るわけないでしよう、と怒鳴りたいのを我慢して光代さんは、 「ねえ、お食事終ったら応接間へ来て下さいな。お願いするわ。あなたに会いたくてわざ わざ、松江から出て来られたんだから」 そういうと応接間へ戻った。はてさてカオルさんと勝子さんと、どっちの味方をすれば もなか いいのか、光代さんは決めかねる。お茶の支度をして貰いものの最中と一緒に運んで行く と、カオルさんがやってきた。 「わたし、立花カオルですけどオ・ 胸もとにヒラヒラのついたプラウスに着替え、あの自信たつぶりの、 ( カオルさんが一 番チャーミングだと信じている ) 目をクルクルさせるあどけない表情で可愛らしくいった。 そのカオルさんに、勝子さんは落ちついて気品あるおとなの徴笑をさし向け、 「はじめまして、野々宮でございます。突然、お呼びたていたしまして申しわけございま せん」 丁重に挨拶をする。 「ではわたしはあちらにおりますから」 本当はこの場に立ち会いたいのだが、年輩者の礼儀常識としてはそういうべきであろう。 光代さんは心残りながら会釈をして応接間を出た。
の「黒鬼の微笑」に魅了された一人なのである。 「ご精が出ますなあ、奥さんはほんとうに働き者でいらっしやる」 「あら、恐れ人ります。家が古いものですから、せめて周りだけでもきれいにしておきま せんと : : : 」 「家内にもいっているんですよ。つまらないおしゃべりばかりしてないで、少しは米山さ んの奥さんを見習いなさいって」 「あらまあ、どうしましよう : : : 先生にそんなにいっていただくなんて : : : 」 そういいつつ、胸の中では「これネ、これなのネ」と思っている。 「とにかく口のうまいことったら、若い娘を見たら、やあ、きれいだね、とかすばらしい、 チャーミングだ、とか必ずなにか嬉しがらせることをいうのよ。中年には中年なりに落ち ついた魅力があってすてきだとか。いうことがなくてもなにかかにか絞り出すんですよ」 あげく 「働き者」といわれたのは「なにかかにか絞り出し」た揚句のお世辞なのかと思うと、光 代さんはあまり嬉しくない。 立花カオルさんと間崎鉄平氏はそんなふうにして親しくなった。いっかの五月の朝の約 束通り、間崎氏を訪ねたカオルさんは、それ以来・ハス停前の喫茶店で会ったり、この頃は 夜遅くスナックの片隅で水ワリのグラスを重ねたりするようになっている。
203 解説 大生、立花カオルさんは、何をしてやってもお礼を言うことを知らない。誕生。ハーティを 開く時には当り前のような顔をして、光代さんの台所にある冷蔵庫から氷を、食器棚から グラスや皿、箸、スプーン、栓抜きまで持ってゆく。そのくせ、学生最後の一年は、何も のにも煩わされず、自己を確立したいといって光代さんの家を出て行くのである。 これでは光代さんが、 「斬って斬って斬りまくれ あいつもこいつも斬りまくれ」 ではじまる『メッタ斬りの歌』を作詞したくなるのは当然だろう。 だが、光代さんの真意は『メッタ斬り』にあるのではない。身勝手なャングをハッタと ねめつける気など毛頭ないのである。 光代さんは、世話をしたいのだ。身勝手な娘だとわかっていながら、カオルさんの留守 に洗濯物をとりこんでアイロンをかけてやり、誕生。ハーティに鶏のからあげや四種類もの サンドイッチをつくってやるのは、世話をしてやって感謝されたいのだ。 世話をしてもらって有難いと思い、有難うと言ってもらっていい気持になる、それが人 間のつきあいであり、人生のマナーだと光代さんは思うのだが、おしゃれや食事のマナー にはくわしいにちがいないカオルさんは、それがわからない。いったいいっからそうなっ
いよいよ 「日本も愈々、女性時代の幕が開けた : : : 島さんはそんなことを思わせる人ね」 「だからわたし、応援してたのに、『メンズモロア』なんて、男のおしゃれの雑誌の月ぎ め購読者だなんて、がっかりしたわ」 頼子さんとても人間、しかもうら若き女性である。うら若いがまだ恋人はおろか、ポー イフレンドと名づくものさえいない。中学、高校、そして四年目に人った大学生活の中で 頼子さんに近づいた男性は一人もいなかった。頼子さんはその頑張りを尊敬されこそすれ、 憧れられたりいとしがられたりしたことはなかったのである。 だから頼子さんは『メンズモロア』の美青年の写真を見て、せめてもの青春の血のたぎ り、甘い夢を消化しているのだ。 いっきく そう考えると筆者は一掬の涙を頼子さんに注ぎたくなるのだが、光代さんにはその頼子 さんの孤独はわからないから、 「三浪したのも、そんな雑誌ばっかり見てたからじゃなかったの ! 」 と痛烈になった。 立花カオルさんのところへは、しよっちゅう女や男の友達が賑やかに遊びに来ている。 女の子たちはどの子も可愛らしく明るいが、光代さんの目にはみんな同じ顔に見える。男 の学生の方も似通った顔、風態で、どれがどの人だか、前に見かけたことがあるような気