矢花啓介が一一十四年勤めた市役所を退職し、キャパレーナツツの経営者になったのは、ナ ツツを経営していた伯父が急死したためである。伯父には子供はなく、七十に近い伯母が一 人残された。啓介は伯母に頼まれて、ナツツを経営することを決心したのだった。 まゆ 妻の春子はそれに反対だった。だが春子は ( いつもそうなのだが ) それを薄い眉と受けロ の浮かぬ顔に現しただけで、とりたてて反対を唱えるということはなかったから、啓介は伯 彼よ市役所の仕事にもう飽き飽きしていたのだ。 母の頼みを一一つ返事で引き受けた。 , ー キャパレーナツツはこの町の一番街といわれる飲食店街の西の外れにある。後ろは廃車処 理場で右隣りは空地だ。屋台のそば屋が夜になると出ている。一番街の中では一番、場所が 悪いというところである。このへんが田冊だった頃、ここは沼だったのだと、賄いの安藤は 社ナツツの従業員はホステス十四人、ポーイ二人、マネエジャアとキャッシャアと、調理場 の ート掃除係の二十一人だったが、それは伯父が生きている頃のことで、伯父の死と 苦 同時にナンバー 1 からナンバー 3 までの三人のホステスとポーイ一人とマネエジャアがやめ、 啓介が経営者になると決った時点でキャッシャアと調理人と残りのホステス五人がやめた。 ころ
210 原島からマイクを受け取った若いパンチパーマが目を閉し、首を傾け、片っ方の眉を下げ、 気分を出して歌い出した。 「日蔭そだちのこの俺が 見つけた道は遠すぎた 疲れた足をきすって 昨日につづく雨の道 : ・ 「チェッ、古くさい歌、歌いよってからに」 伊藤が小さく舌打ちをしたが、それは単に演歌嫌いであるためで、歌い手にケチをつける つもりではなかった。しかしひとしきりマイクが廻り、ホステスが歌ってカラオケが終ると、 「なんや、あのけったいな絵は」 という聞えよがしの声が聞えてきた。 「この店はいつもおもろない絵、懸けとるな。この前来た時はけったいな大の絵やったで」 「大やない、猫やわ・ : ・ : 」 ホステスの押えた笑い声が上り、 おも すずめ 「馬のクソかと思たら雀やったこともあるな」 とパンチパーマの男がいった。 : こりやオレでもわかる。女や」 「今日のこの絵は :
啓介は残った六人のホステスと賄いの安藤ャスを相手にナツツを営業しなければならなくな ったのだ。 休業をあまり長くつづけていると客に忘れられるというので、啓介はホステスをかき集め 無理をして店を開けた。マネエジャア、キャッシャアは適当な人物が見つかるまで啓介が一 人でこなすことにした。頼りになるのは賄いの安藤ャス一人だった。安藤は前にいた調理師 の下働きをさせられていた五十女だが、とにもかくにも経験者である。耳が遠いせいか声が 大きい 「社長大丈夫ですよ、がんばりますよ。みんなでがんばります ! 委せて下さい ! 」 と啓介を励ますその声か啓介には唯一の慰めになるという今日この頃なのであ 0 た。 ふろ 啓介は毎日、朝の四時頃にヘトへトになって自宅に帰って来た。ものもいわずに風呂に入 おっくう ふとん って寝てしまう。風呂へ入るのさえも億劫で、黒スーツを脱ぎ捨てるやいなや、布団にもぐ り込んでしまうことも珍しくなくなった。朝は安藤が魚市場へ行って刺身用の魚を買ってお いてくれるが、野菜や果物、おつまみの乾きものなどは自分で見に行って買ってくる。 「先代社長はそうしておられました」 と安藤にいわれると、疲れているからあんた行ってくれないか、とはいえないのだった。 買物を提げて店に出るのが午後四時頃である。啓介が行くと安藤は新入りの掃除係を指図 して、お絞りを洗って巻かせたり、ミネラルウォーターの瓶に水道の水を詰めたり、見映え のいいポトルに、何やら混ぜ合せた酒を入れたりしている。
57 苦難の社長 安藤は必死の形 秋が深まるにつれて啓介は時々、激しい頭痛に見舞われるようになった。 相で塩を撒き線香を立てた。そんなある日、春子が学校で倒れて帰って来た。春子は突然、 理由もなく目まいがしたのである。それを知るとお題目を唱える啓介の声からは力が抜けた。 啓介はどうしたらいいのかわからない。それでも秋祭の呼び込みに声を嗄らした。もう冬 だった。年末に向ってしなければならないことが次々出て来た。ホステスが待遇改善を要求 していた。借金の返済期限も来ていた。 頭痛と戦いながら啓介は空ッ風の中を走り廻った。 題目を唱えた。 春子の様子を見て、やめたり、唱えたりしていた。 いつまでこんな日がつづくのか、啓介にはわからない。どうなるんだ、どうすればいいん だ、と思いながらつづいていく。春子の受けロはこの頃ますます大きく前に出て来て、鼻の まがまカ わき 脇のイボホクロに生えた毛は、黒く凶々しく伸びているのだった。
夏のはじめ、啓介は東京行きの電車に乗 0 ていた。桜の時節にかの黒字を見て喜んだの も束の間、ホステスの引き抜きに遭い、至急その代りを見つけねばならなくなったのだった。 安藤のってでフィリピンから来た娘を世話するという女のところへ行こうとしていたのだ。 昼下りのことで電車は比較的空いていて、四人掛のポックスには向い側に鶴のように痩せ た老婆が一人っているだけだった。その老婆が啓介の顔に目を当てたまま、何かいいたけ 社にましまじと見つめている。そのうち、たまりかねたように老婆はいった。 だんな 難「旦那さん、えらい失礼ですけどねえ : : : 」 かわい 関西のアクセントでゆっくりいった。年に似合わぬ高い可愛らしいといってもいい声だっ 春子よ ) 、、 ( しし啓介が嫌いな ( いつの間にかたまらなく嫌いになっている ) あの薄笑いのよ うな皺を唇の端に刻んだ。 「わかってることをごま化そうとする人は、もっとアタマ使って上手にするわよ」 : まさかオレが浮気でもしてると思ってるんしゃないだろう 「何をいいたいんだ、お前は : 笑うような笑わぬようなその受け口を見て、啓介は春子が生徒に人気がない理由がわかる ような気がした。 つかま
そのうちにホステスたちが姿を見せはじめる、啓介は髭を当り、髪を整え黒いスーツに着 ちょう 替えて蝶ネクタイを締める。表に塩を撤きながら通りかかる人にす早く視線を走らせ、顔馴 。それがマネエジャアの仕 染みが通りかかると話しかけて何となく店に入る気にさせる 事のひとつであると安藤はいった。 じゃ〔通ら 「社長は役所で市民相手に威張って来た人だからね、だからオレには出来ない ないんですよ、社長ーーー」 社長が客の呼び込みをするのかね・ : 啓介は思わすそういいそうになって、怺えた。安藤の機嫌を損しないようにしたいという 気持が、啓介を抑えたのだった。 春子はそんな啓介を黙って見ている。「ご苦労さまでした」「行っていらっしゃい」と決っ た一言葉を口にするだけである。それでもはしめのうちは、「たいへんねえ」とか「無理なん しゃないの」などといっていた。 「身体を壊すとつまりませんよ」 「やめたほうがいいんじゃないの」 や、後悔をする 社ともいっていた。啓介は市役所をやめたことを後悔したわけではない。い 難暇もなかった。春子が「たいへんねえ」とも「やめた方がいいんしゃないの」ともいわなく なったことにも気がっかなかった。春子は何もいわない。啓介がこばす愚痴にただ、 「そうなの : : : 」 こら
117 隣りの男 ん : : : すまんな : : : ありがとう・・ : と伸吉は答える。こんな会話が鈍痛のもとかもしれない と思いながら。 隣りの男はロックが好きで、時間かまわすロックの音響が壁を揺るがさんばかりに伝わっ てくる。それは早朝のこともあり、昼間、夕刻、深夜のこともある。準夜勤を終えて帰って まくら きた時のみどりは、その音にヒステリイを起して壁に枕を投げつけることがある。階下に住 んでいる中学教師とホステスは、かわるがわる電話をかけたり、直接抗議に出かけたりした。 抗議をすると音楽はすぐにやむ。だが翌日になると、昨日の抗議は忘れたようにはじまる。 抗議をする。音はやむ。翌日はまたはじまる。 抗議を受けるのは常に隣りの女である。女は心からすまなそうに、 「すみません」 と謝った。 女は心からすまないと思っている。だが男はすまないとは毛頭思わないらしい。みどりは 、つ , 」 0 「芸術家は気分のままに音楽を聞く権利があるとでも思ってるんでしようよ」 今では伸吉は殪ど讃嘆に近い気持で、その音響の洪水の中にっている。 家主の妻は夫の代りに隣りへやってきた。彼女は病的なほどに綺畆好きで、ゴミ集積所の きれゝ
のは気がひけた。しかし満江がせがむので「ミッチャン」と呼んだ。 すっと前、 ( いっ頃のことか忘れたが ) 「ミッチャン」と呼んだ女の子がいた。十八か十九 なまり の見習看護婦だった。山形訛のあるカワイコチャンだったから、捨てた後、時々思い出して 一口にいうと飽きたのだ。 は胸が痛んだ。どこがイヤ、というところがあったわけではない。 公平は飽き性である。女に対してばかりでない。仕事が転々と変ったのもそのためだ。十 六も年上の満江を相手にしてしまったのも、カワイコチャンやホステスやに飽きたため かもしれない。 ほ - つよう 満江を抱擁する時、公平は「肉布団」という言葉を思い出した。満江は大女である。公平 よりも五センチ背が高く、体重は十一一キロ多い。三人の子供を産んだ四十五という年にふさ わしく、身体がたるんでいて柔らかい。騎乗位の好きな満江が感極まって公平の上に倒れて くるとその柔らかな肉は公平の身体をひたひたと包み、かな隙間も埋め尽そうとするかの ように密着してくるのである。 「こうしていると雲か綿に包まれてるみたいだ」 はしめの頃、公平はよくいったものだ。しかし今は「雲」だなんて思わない。どろどろに もち 溶けたセメントか搗きたての餅のように感しる。やたら重い。そのままにしていると、令た く固まってのしかかり、身動き出来なくなりそうな気がしてくるのである。 公平は間もなく三十歳になるという左官職である。東京で修業し、流れ流れて大阪まで行 った。その間に消火器のセールスマンをしたこともあれば不動産屋に勤めたこともある。 ごろ にくぶとん
を借り、それで一一月の急場をあいだのだ。一一月はどこの店でも客が落ち込む。ナツツでは閑 古鳥が鳴いた。ホステスはポックス席でだらしなく壁にもたれて、ヤケクソでカラオケを歌 っている。それを聞きながら啓介は台帳を見て、未払いを払ってくれそうな客はどれかと考 えている。客を増やしたい一心から、貸金のわくを広げたことが盟「て来たのだ。請求書を らち 出し、電話をかけ、それでも埒が明かすに訪ねて行く。相手に逃げられるとそれ以上、追う 気がなくなる。ャケクソで威しにかかる客もいる。払う払うといってその日になると払わな いのもいる。啓介が怖いのは、お前んとこへはもう行かねえといわれることだ。それで大抵 の場合、手ぶらで帰って来た。一一月は借金で乗り越えたものの、次の月からはその借金の分 も稼がなければならないのである。 啓介は春子にいっこ。 「なあ春ちゃん、カネ、何とかならないかなあ : : : 」 春子は結婚前、中学校の家庭科の教師をしていた。啓介とは小学校の頃からの近所友達だ ったが、啓介は好きでも嫌いでもなかった。春ちゃんは学校の先生になるといって一所懸命 に勉強しているのに、お前は何だ、とよく父にいわれていたので、どちらかといえば敬遠し 社たい方だった。その春ちゃんと結婚することになったのは、啓介の失恋が原因だった。啓介 難は市役所のアルバイトの娘と恋をして、結婚を申し込んだ段階であっさり断られた。アルヾ イトの娘とは二泊一二日のスキーに出かけたこともあり、たった一度だが身体の関係もあった のだ。 おど
「ソープランドでも行ってこいや」と五万円やる。そのへんの事情を親分は何も知らない。 この町を廻る山々の紅葉も終り、秋も史けたある夜、隆は親分のお供でプラックパンサー へ行った。この店で親分の坐る子は特別製の金糸入り新子で、奧の模造大理石のマントル ピースの脇に、普段は化いをかけて置いてある。小男の親分にはそのソフアはいささか大き すぎるのだが、大きすぎるソフアの中の親分は、って小男であるための貫禄が強調されて 威圧感を人に与えるのである。 親分を真中に伊藤と恩田が両脇を固め、伊藤の次に隆、その次にマサオ、三人のホステス か男たちの間に入って酒が運ばれこ。ごゞ オオカ親分は今はママの手製のトマトジュースを飲むだ けである。 その時の客はほかに三人連れが一一組いるだけで、一組の方がカラオケのマイクを廻し合っ て歌っていた。 ホ「今、歌うてるのは、南部ィーグルスにいた原島でっせ」 馬 とマサオが隆に耳うちした。原島は三年前に八百長試合がバレてプロ野球を引退したピッ お のチャーである。 ラ「そしたら、東組のもんやな」 ン と隆はいった。東組はこの地方では古い組織である吉村組系の末端組織で、キックボクサ くずれが若頭になってからは、急に勢がついてきているという評判である。しかし、市川 組がとりしきっているこの町ではまだそれほど勢力を伸ばしていない。