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検索対象: 光善寺の天狗
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1. 光善寺の天狗

解説 「黒谷上人語燈録巻第十一和語第二之一」の「三部経釈第一」 ( 法然上人作 ) の中に 「『其佛本願カ聞名欲往生皆悉到彼国自致不退転』 ( 巻下 ) という文あ り。漢朝に玄通律師というものありき。小戒をたもてるものなり。遠行して 野寺に宿したりけるに、隣房に人ありてこの文を誦す。玄通これをききて一 両遍誦してのち、おもいいだす事もなくてわすれにけり。そののち、この玄 通律師戒をやぶれり。そのつみによて閻魔の庁にいたる時、閻魔法王の給は一 く、なんぢ仏法流布のところにむまれたりき、所学の法あらばすみやかにと くべしとて、高座にのばせ給ひき。その時玄通高座にのばりておもいめぐら すに、すべて心におばゆる事なし。野寺に宿してききし文あり。 これを誦せんとおもひいでて、「其佛本願力」という文を誦したりしかば、 閻魔法王たまのかぶりをかたぶけて、これはこれ西方極楽の弥陀如来の功徳 をとく文なりといひて礼拝し給いき。願力不思議なる事、この文に見えたり。 「真宗聖教全書四拾遺部上五五一一頁」 云云」とあります。

2. 光善寺の天狗

あしひかえ るこどなく、着いたその足て引き返してきたものだ。 じかんちち ふくぜんじじゅうしよく 福善寺の住職てある慈観の父に こまっ おな うんめい てんぐ 、ても同じてある。 「天狗につかまれるのか運命なら、どこに、 こうぜんじ しま 島にいたればこそおまえは無事てあったのかもしれぬ、どく光善寺 かえ へ帰れ」 どさどされたためてある。 じかん としくちか その年の暮れ近く、また慈観か見えなくなった。この時、どもに寄 あわいちばむらふく しゆく かんげつかくおうこうかい しよけぜんき 宿していた所化は前記の観月、覚応、弘海に加えて、阿波市場村の福 ききよ、つ えっちゅうそう しんじよう もの せんじ 泉寺から真乗という者かきていた。越中の僧はもう帰郷していたのて っ とき き

3. 光善寺の天狗

じかん でし さぬきたかまっふくぜんじ あ に当たっていたころ、その弟子に讃岐高松福善寺の慈観、および矛観 えっちゅうそうじゃくたんあわとみおかえんちょうじかくおう 月 ( どもに十七歳 ) 、越中の僧寂潭、阿波富岡円長寺の覚応 ( 十八歳 ) 、 にんカノ、り・よ、つ当 ) いじよっ みようどうぐんしようむらしょ , っ ) んじこうかい 名東郡庄村正善寺の弘海 ( 十五歳 ) らがいて、以上の五人が学寮に寄 きしゆくしょ ほんど , つうらて しゆく べんがく 宿して勉学していた。その寄宿所ど言うのは本堂の裏手にあり、五人 まいにちこうたい か毎日交替て炊事をするきまりになっていた。 しよくど、つ いちどうあさごんぎようお じかんすいじとうばん その日は慈観が炊事当番てあった。一同が朝の勤行を終えて食堂に したく とうばんじかんみ 行ぐど、当番の慈観か見えす、おまけに食事の支度さえまったくてき ていない 「あいつ、スルかましてとこぞて眠りこけどるそ」 ねむ しよくじ ほこかん

4. 光善寺の天狗

のちたし ふごう じようけい 合わせて、この情景にまったく符合しているこどが後に確かめられる のたか : かんのんどうふち やしま それから屋島へ飛んだ。観音堂の縁におりたか、あたりにはちょう ひとか、け・ ど人影もなかったのて、 かわ 「どうじゃ、おまえ、茶はのまんか。のどか乾いとんのなら茶をの ましてやるぞ」 し なに ど言う。何を飲まされるやら知れたものてはない 振った。 きかんきしようち やくりごけんざんちょうじようい 八栗五剣山の頂上へ行ったり、またそこからどこやら奇岩奇勝の地 ふ 0 の と ちゃ じかんくびよこ 慈観は首を横に ち

5. 光善寺の天狗

たどいう者もあるっちゅうこっちやけん、はんなこどなら言わんて もええけんど、どんなんぞ」 じかん じよじよ くちひら ど問いつめた。するど慈観はようやく徐々に口を開き、 てんぐ やくそく 「そなな、天狗どの約束はありません」 つぎ わけを次のように話したどいう。 とうばんあ あさ はやねどこで 当番に当たっている朝、いつものように早く寝床を出て厨へ行こう どしたか、まだどうにも眠たくてならす、たたんた布団にもたれてま したく た居眠っていた。するど矛が「早う行って飯の支度をせんかい」ど起 こしてくれた いねむ もの ねむ ほこ はよ めし ふとん くりや

6. 光善寺の天狗

「もう、あれは生きとらんやわからん」 ふきっ などど不吉なこどを、一 = 0 いだす者もいて、一同しょんばりしているど、 じかん そこへひょっこりと慈観かもどって医、た。 しんばい 「どこい行どったんなら、おまえ、もうみんなか心配してしてしょ んのに じかんあたま しゅぎようき おも 同じ寺から修行に来ている矛観月などは、思わす慈観の頭をばかり とやってしまったほどてあった。 「まあ、無事にもんて、なによりだった」 くちぐちたず よろこ すがたけ あんしん みんな喜んだり安心したり。どこへ姿を消していたのかど口々に尋 おなてら ほこかんげつ もの いちどう

7. 光善寺の天狗

ま しれいたんかんがくにゆうじゃく 間もなく師の霊潭勧学は人寂した。 ごひさ よくよくねん じかん こうぜんじすがたみ 慈観はその後久しく光善寺に姿を見せなかったが、翌々年にまたま ふ′、やか ) 、 た復学してきた。 じしゅ けいたんむ じかん れいたんあとっ しばらくたって慈観は、霊潭の跡を継いて寺主となった溪潭に向か って言った。 あいだ はずか おも 「この間からお話しようと思うてましたんやけど、あまり恥しいの ていままて話せませんてした。じつはわたし、じぶんの寺にいて、 てんぐ また天狗につかまれましたんや」 けいたんおどろ じようだん じかんかおみ 溪潭は驚いて慈観の顔を見た。冗談を言っているようすはない はなし てら

8. 光善寺の天狗

した り・′」、つ おも そ、つや、当番がこななこどしてた、らどもな、らんど思うて裡堂か、ら一 ぼえんお めまえみたけはっしやくやく 歩縁へ降りたどたん、目の前に身の丈八尺 ( 約ニ・四メートル ) ばか めまる なみひと たかひとり・ り、目か丸く、鼻も並の人よりかなり高い一人の男が立っていた。あ かさあ きおく おと」と、つはっ ふる どからの記憶を重ね合わすど、その男の頭髪はやや長く、古びたひざ しろころもき ちゃいろおびむす おも 下ぐらいまての白い衣を着て、茶色の帯を結んていたように思われた。 8 「これからおまえをつかんていく」 じかんおそ さけごえ どその男は言う。慈観が恐ろしさのあまり叫ひ声をあげようとする よりはやく、その者は、 すこ こえ おまえ、少しても声をたてるど放り投げるぞ」 おとこ と , つばん もの ほ、つ おとこた なが

9. 光善寺の天狗

と と 、つ どを取り、受け取ってくれるようさしだした。 A 」 じかんせんこくじようけいおそ しなものう しかし、慈観は先刻の情景の恐ろしさに動転して、品物を受け取る き りよって べきかどうかを考えるいどまのないまま、気か付いてみると、両の手 、つ てんぐ てつばち おおぎ に天狗の「鉄鉢」ど「扇」を受け取っていた。 どめ てんぐ じかん かえ こうして慈観は三度目の「天狗さらい」から無事に帰ってきた。 てんぐ てつばち じかん おおぎ こうぜんじおさ ばくまっ 天狗の「鉄鉢」と「扇」は、慈観から光善寺に納められたが、幕末 たいかしようしつ めいじじだい で こうぜんじ ひとびと の大火て焼失したどいう。明治時代に、光善寺に出入りしていた人々 き けいたんじゅうしよく った は、溪潭住職から、その様に聞いたど伝えている。 ふく じかんじきひっしょ かいきあた たかまっふくぜんじ じかん 慈観の三十三回忌に当って、高松福善寺より慈観の直筆の書、ニ幅 かんが よう どうてん っ . レ

10. 光善寺の天狗

紀州熊野山中に蟄居して機会を待っこと多年」とありますように、野田、福島 の戦いに敗れた三好の武将達は落ち武者となって各地に散りました。父安宅 冬康が熊野水軍と親しかった縁故を辿って、宗忍師、すなわち安宅甚六郎宗 之は家子郎等と共に熊野に隠れ、来るべき日に備えたようであります。今で も熊野には、安宅一族の末裔が主君並びに家老を祭神とした神社を祭ってい ると聞きます。 熊野の地にも平安はなく、対岸の阿波の国・勝浦郡小松島浦の現在地に移 住しましたが、時は移りゆき、信長の世から豊臣秀吉、徳川家康と天下統一一 は成り、宗忍師の年も古希をはるかに過ぎました。野田、福島落城から数十年、 三代将軍家光の寛永五 ( 一六二八 ) 年に、深く感ずるところがあって、仏門に 入り、如来の大悲に生きる決意をなし、すでに寺域を現在の京都西六条に移 していた本願寺に参じて、第十二代宗主准如上人に長年愛用をした佩刀を献 じ、出家の後、一寺を建立いたしたい思いを表しました。 准如上人は、深く宿縁の熟されたことを喜ばれ、ただちに得度を御許可に なり、自ら剃髪の儀を執り行われ、法名を「宗忍」、寺号を「光善」と賜わら れました。 この時に頂いた御本尊が現在光善寺に安置されている阿弥陀如来立像で、