しか ・ほ、つもう 「キズ坊ど申す」 ぼう キスイ坊と言ったのかもしれない わたしじかんもう かいさん しんらんしようにん 「私は慈観ど申して、ご開山さま ( 親鸞聖人 ) の弟子てす。しばし し かいさん ばこのようなこどかありましては、わか師どもどもご開山さまのお めいわく 叱りをこうむります。迷惑てす」 かいさんでし 、つ かいさん 「開山の弟子ど称するか、てはおまえ、開山から教えを受けたこど かあるのか」 じわる きかえ しかんがくおし 意地悪そうに聞き返してくる。師の勧学か教えてくれたのは、ここ かん のどころだな、ど感じ人って、 しよう おし
のた」 ど、それを教えてくれた。 し じかんぶじ こうぜんじ じかん かんカ′、 こうして慈観は無事に光善寺にもどったのだか、師の勧学は慈観を きようりたかまっ いつばく じかんふくぜんじ 郷里高松へいったん返すこどにした。どころが慈観は福善寺て一泊す あいだ じかんけんめい とねんぶっとな 飛んている間じゅ、つ、慈観は縣 ~ 命に目を閉じ念仏を唱えていたど、 あ め あいだ げ ひろびろ う。その間にどきおり目を開けてみるど、下界はただただ広々ど、ま ぼうばく あおあお せかい た青々としているばかり、茫漠の世界てあった。 じかんはなしき よくじっしれいたんかんがく 翌日、師の霊潭勧学は慈観の話を聞き、 ほどこぶつぼう 「もし、もう一度このようなことがあれば、相手に施す仏法もある と おし かえ 力し あいて
紀州熊野山中に蟄居して機会を待っこと多年」とありますように、野田、福島 の戦いに敗れた三好の武将達は落ち武者となって各地に散りました。父安宅 冬康が熊野水軍と親しかった縁故を辿って、宗忍師、すなわち安宅甚六郎宗 之は家子郎等と共に熊野に隠れ、来るべき日に備えたようであります。今で も熊野には、安宅一族の末裔が主君並びに家老を祭神とした神社を祭ってい ると聞きます。 熊野の地にも平安はなく、対岸の阿波の国・勝浦郡小松島浦の現在地に移 住しましたが、時は移りゆき、信長の世から豊臣秀吉、徳川家康と天下統一一 は成り、宗忍師の年も古希をはるかに過ぎました。野田、福島落城から数十年、 三代将軍家光の寛永五 ( 一六二八 ) 年に、深く感ずるところがあって、仏門に 入り、如来の大悲に生きる決意をなし、すでに寺域を現在の京都西六条に移 していた本願寺に参じて、第十二代宗主准如上人に長年愛用をした佩刀を献 じ、出家の後、一寺を建立いたしたい思いを表しました。 准如上人は、深く宿縁の熟されたことを喜ばれ、ただちに得度を御許可に なり、自ら剃髪の儀を執り行われ、法名を「宗忍」、寺号を「光善」と賜わら れました。 この時に頂いた御本尊が現在光善寺に安置されている阿弥陀如来立像で、
帰命山光善寺の縁起 浄土真宗本願寺派「帰命山光善寺」は、今を去る三百六十年前、すなわ ち寛永年間に開基「宗忍法師」によって創建された寺院であります。 宗忍師は、俗名を安宅甚六郎宗之といし 、阿波の豪族三好筑前守元長の孫 であり、淡路島「由良城主安宅摂津守冬康」の息男で、驍勇絶倫の武将で ありました。 時代は戦国の世で、織田信長が天下統一のため、今の大阪城の場所にあっ た南無六字の城「石山本願寺」を拠点とする念仏教団「本願寺」と覇権を争一 った、いわゆる「石山合戦」の時でありました。 一兀亀年とゝ 尸しいますから西暦一五七〇年から七二年にかけて、すなわち現 在から約四百二十年程前、三好の一族と共に本願寺第十一代宗主顕如上人と 盟約を結び、「石山本願寺」に入城し、織田信長と相抗したのであります。 宗忍師は寺伝に「寛永十九年病なくして寂す、享年壱百壱歳」とありますか ら、この頃三十歳前後の血気の武将であったことでしよう。 「摂津の国、野田、福島の嶮によって、織田信長と相抗す、両城陥没の後、
佛師渡辺康雲の作であります。 こうした、尊い佛縁によって、光善寺は創建され、おそらくは草深かった であろう小松島浦に念仏の灯火がかかげられました。時に寛永七年と伝えら れます。 爾来、三百六十年の間、連綿として、十三代の住職、門信徒の護持のもと 勝浦郡 ( 現在は小松島市となる、勝浦郡には真宗寺院なし ) 唯一ヶ寺の浄土 真宗本願寺派の寺院として法灯を伝えてまいりました。 古い時代の住職方の事歴は不明ですが、近くの住職には、 第九代住職、淨曜院霊潭は仏教学全般に明るく、浄土真宗本願寺派の最高 の学階「勧学」に任じられ、現在の経堂の黄檗版の大蔵経を閲読し、後進の一 教育のため私塾を設け、次代の僧侶育成に尽力されました。 第十代住職、功曜院溪潭は漢学者として業成り、漢詩、和歌に造詣深く、 門弟二百余人の教育に尽くしました。 第十一代住職、一乗院達朗は監獄教誨師の後、徳島県の社会事業の先駆者 として、部落改善、勤倹貯蓄、衛生思想普及等に尽力し、大正五年内務大臣 より地方改善の功績に対し表彰を受けました。 第十一一代住職、興徳院釈崇仁法師は麻植郡山川町、西福寺住職藤野井得忍
の次男で、先住達朗師の請いにより遺鉢を継ぎ、小学校の教鞭をとりつつ佛 法興隆、光善寺の護持に生涯を捧げました。 幕末の大火によって寺域は狭小にはなりましたが、弓ド 尓它の本願を渇仰する 多くの人々に支えられ、念仏の道場として今日に至っているのであります。 また、「光善寺の天狗」伝説があり、阿波の伝説として有名であります。 昭和六十二年十二月 徳島県小松島市松島町十三の四十三 浄土真宗本願寺派帰命山光善寺 一夋青 第十三世住職能仁イ
はらだ じかんすがた 腹立ちまぎれに捜し歩いたか、慈観の姿はどこにも見えない こ , れは しれいたん まわ ほうぼうたず おかしいどいうのて師の霊潭にも告げ、互いに方々尋ねて回ったが、 じかんみ やつばり慈観は見つからない し しゅうじかんさがある てらそとひと こうぜんじ 光善寺の衆が慈観を捜し歩いているどいうこどか寺の外の人にも知 ひとたちたずある じかんゆくえ られて大騒ぎになり、その人達も尋ね歩いてくれたか、慈観の行方は 4 かいもくし 皆目知れないのてあった。 みよ、つ 「こんな妙なこどって、あるて」 み ふしぎ きみわる ひ 皆んな不思議がったり気味悪がったりしているうちに日の暮れかき おおさわ さが - ある っ み
ま しれいたんかんがくにゆうじゃく 間もなく師の霊潭勧学は人寂した。 ごひさ よくよくねん じかん こうぜんじすがたみ 慈観はその後久しく光善寺に姿を見せなかったが、翌々年にまたま ふ′、やか ) 、 た復学してきた。 じしゅ けいたんむ じかん れいたんあとっ しばらくたって慈観は、霊潭の跡を継いて寺主となった溪潭に向か って言った。 あいだ はずか おも 「この間からお話しようと思うてましたんやけど、あまり恥しいの ていままて話せませんてした。じつはわたし、じぶんの寺にいて、 てんぐ また天狗につかまれましたんや」 けいたんおどろ じようだん じかんかおみ 溪潭は驚いて慈観の顔を見た。冗談を言っているようすはない はなし てら
めて 『其佛本願カ聞名欲往生皆悉到彼国自致不退転』 と声高らかに誦しました。 すると、これを聞いた閻魔法王は、驚きと賛嘆の色をあらわし、玉の冠を とって、 『これはこれは、西方浄土にまします阿弥陀如来さまの功徳を説いた尊い 経文である』 と、両手を合わせ、うやうやしく礼拝をしました。 このように、阿弥陀如来の本願力は、まことに私たちの思惟を越えた、大 いなるもの、即ち不可思議としか言えないものであって、『其佛本願カ』の経文一 のおむま、ゝゝ し力なる者も必ず救うという阿弥陀如来の誓願であり、この私の ために、今、私を包んで働いて下さっているのだと頂きましよう」と法然上 人は、おさとし下さいます。 伝説「光善寺の天狗」を支える教えは、右の法然上人 ( 浄土宗の開祖、浄 土真宗の開山・親鸞聖人の師 ) の「和語燈録」によるものであると考えられ ます。 浄土真宗の所依の経典であります浄土三部経の一つ、佛説無量寿経、巻下
光善寺の天狗 昭和六十三年一月一日発行 発行者皀一 ム月仁俊晴 発行所光善寺 小松島市松島町十三ー四三 谷 ( 〇八八五三 ) 二ー 印刷所第一出版株式会社 徳島市北出来島町一丁目十七 ( 〇八八六 ) 二五ー六七六五 ヒにしロ