わから - みる会図書館


検索対象: 兎の眼
138件見つかりました。

1. 兎の眼

「足立先生、いっしょに鉄三ちゃんのところへいってくださらない」 「なぜ」 「また、ひっかかれそうだもん」 足立先生はちょっと笑った。そして、教師が子どもをこわがっていてどうする、と小谷先 生を叱った。だって : : : と小谷先生は泣きべそをかいた。わかったわかった、あんたはまだ 若い先生やから、まけといてやると足立先生は立ちあがった。 足立先生が処理所に姿を見せると、子どもたちは全速力で走ってきて、バッタのようにと びついた。 踊 の純だけがなんだかばつの悪そうな顔をして小谷先生の手にぶらさがった。 工 「アダチやぞオ」 という声に、小谷先生のときには姿を見せなかったしげ子や恵子、みさえなども出てきた。 恵子は功の、みさえは純の妹である。 「徳治、キンタロウはどうや」 と足立先生がたずねた。なんでも知っているらしい 「いま、しつけとるさいちゅうや」 「くろうするやろ」 「くろうするワ」 「おまえのおかあちゃんも、そういうておまえを育てたんじゃ」

2. 兎の眼

キャッチボールをしていた。 四郎の投げたポールを、純がうけそこなって、ボールはどぶに落ちた。、 とぶといっても、 かなり大きな下水で、すぐ運河につながっている。純はあわてて、そこへもぐりこんでいっ た。まっ黒な顔をしてはい出てきた純の手に、ポールはしつかりにぎられていた。 ボールを投げかえして純はいっこ。 「どぶの中に、銀色の目をしたネズミがおるでえ」 「うそっけ」 ッと いいかえされて、純は腹を立てた。 と「うそやと思うのなら自分の眼で見てこい」 ズそれでみんな、どやどやとどぶの中へもぐりこんでいった。 はじめ四郎が出てきて、つぎに功が出てきた。そして顔を見合わせて、ため息をついた。 「ほんまやなあ。あれ、ネズミの親分やで」 キャッチボールどころではなくなった。なんとか生けどりにしたいと、みんな思った。子 じきちっていって、つぎにあつまってきたときには、 どもたちはしばらく相談していたが、 それぞれ、金網、ざる、針がね、ゴムひもなどをもってきていた。 いちばん後から、半分泣きべそをかいた四郎がかけてきた。手にチーズをもっているとこ ろをみると、家の者にしかられながら、むりにもち出したのだろう。ネズミのえさにするら

3. 兎の眼

の 兎 260 波紋 鉄三が学校を休んだ。一回の欠席もなかった子だったので小谷先生は心配した。休み時間 に小谷先生はなにげなく足立先生にそのことをしゃべった。 「あれ、ぼくとこのみさえも休んでいるで」と、おどろいた顔をした。 折橋先生のクラスの恵子も休んでいることがわかって、あわてて、処理所の子どもたちの 出欠を調べた。 教頭先生はろうばいした。いそいで校長室にはいっていった。 しばらくして、足立先生が呼ばれた。 「足立君、処理所の子どもたちが全員、欠席している」 「そのようですね」 「君、これは同盟休校だろうか」 足立先生は首をかしげた。足立先生にもよくわからない。処理所の親たちが学校になんの れんらくもしないで子どもたちを休ませるだろうか。足立先生ら心を許した教師にも伝言が ない。足立先生にはちょっと考えられないことだった。 「ともかく君、いますぐ処理所にいって事情をきいてきてくれんかね」 教頭先生がわたしもいきましようかといったが、足立君ひとりの方がことが荒立たんでよ

4. 兎の眼

の 兎 「そうです」 小谷先生はすましてこたえた。工場の人はいっそう、へんな顔をしている。ま、むりもな りつばな応接室で、お茶とケーキをごちそうになってから、小谷先生は鉄三といっしょ に工場をひとまわりした。たしかに清潔な工場である。どうして、こんなところにハエがい るのだろう。 「おかしいね、鉄三ちゃん」 鉄三もふしぎそうな顔をしている。小谷先生は鉄三といっしょに仕人れたハエの知識をフ ルに回転してみたが原因がわからない。 「どこにハエが多いのですか」 いちばんハエの多いといわれる工場につれていってもらった。なるほど、かなりのハエの 大群だ 「イエバエや」 と鉄三がさけんだ。そんなバカな、というようなひびきがあった。小ハ 合先生もすぐ気がっ いた。製肉工場だから、キンバエやニクバエがいるのなら話はわかるが、イエバエばかりと いうのは妙だ。 「へんねえ鉄三ちゃん」 鉄三はきゅうにハムエ場のへいをよじのばっていった。そうして大声でさけんだ。 「あれや」

5. 兎の眼

の 兎 足立先生はあっというまに鉄三をうしろ向きにだきかかえて、自分の足もとにすわらせて しまった。 「鉄ツン、この小さいハエはなんちゅうハエや」 鉄三はもそもそしている。 「先生、鉄ツンはハエの名まえを四つしか知っとらへん。ほかのことはなんでも知ってるけ ど、名まえだけは教えてもらわんとわからんから、ぜんぜんあかんのや」 功のおしゃべりを純がうけて、 「その四つも、功やおれが学校で調べてやって、やっとわかったんや。あんなボロ図鑑あか んで。もっとええのん買うとけ」といった。 「しゃあないから鉄ツンは自分でかってに名まえをつけとるんや。その小さいのはのみによ うにてるから、ノミバエということにしてるらしいで」 「足立先生」 小谷先生はおどろいていった。 「その名まえ、でたらめじゃないわ。学名ノミバエよ。ほら、羽根のないのがあるでしよう。 ノミバエは種類によっては雌に羽根のないのがあるのよ」 「へえ、鉄ツン、おまえ、あきれたやつやな。これほんとの名まえもノミバエというそうや で」

6. 兎の眼

功はこまって口ごもった。 「鉄ツンはハエをものすごくかわいがっとんや。みんなが文鳥を飼ったり金魚を飼ったりす るのとおなじやろ」 「小鳥や金魚は金がいるけど、ハエはタダやから」 と芳吉がいったので、まわりにいた先生たちは笑い出した。 「ハエって、すごくバイキンをもっているのでしよ。どうしてそんなふけつなものを飼うの かしら」 み顔をしかめて小谷先生はいった。 ひ 「そんなん知らんやん。鉄ツンにききいなア の こまりはてて、功はいった。 ) ったいに処理所の子どもたちは、先生の前でもことばを改めない。友だちと同じような ことば遣いをする。 功はまだ芳吉をうらんでいるらしく、ときどき芳吉をこづいた。そのたびに芳吉はかなし そうな顔をした。 鉄三がカエルをふみ殺したわけがいまはじめてわかった。ハエは鉄三のペットだったのだ。 それを、文治は知らないでカエルにやってしまった。カエルはそれをたべ、おこった鉄三は カエルに復讐をした。カエルが生きたえさしかたべなくなって、それ以後、鉄三はカエルの 世話をしなくなったということも、いまになるとよくわかる。しかし、と小谷先生は考えこ

7. 兎の眼

「もう一カ所、鳩のあつまっているところがあった」 徳治がいったので、みんなあわててとびおきた。 「近すぎてわすれとった。運河沿いで海に出ると、かどのところに製粉所があったやろ。あ そこは小麦を人れるサイロがあって、鳩がようあつまってくるんや。キンタロウは腹をへら しているはずや。ひょっとしたら、そこへいっとるかもわからへん」 なるはどと子どもたちは思った。そこへ行くとすぐにでもキンタロウに会えるような気が した。子どもたちはかけ出した。 海 運河に出るには、いちど処理所の門を出て、ぐるっとまわってこなくてはならなかった。 としかし、気のはやる子どもたちは下水を通って、ネズミの親分をつかまえたあのトンネルを くぐって、あっさり近道をした。 しやりよう 土管を出ると、車輛工場のへいによじのばった。そこをこえてしまうと検疫所の広つばに 出るので、後はらくだ。 子どもたちはやっと歩きはじめた。 「キンタロウのやっ、おれたちのこと、おこってるやろか」 「すねて家出したんやな」 「自殺するかわからへんで」 「アホ、鳩は自殺なんかするかい」 「大はするで。おれ見たんや。犬とりに引きずられて箱に入れられるとき舌をかみ切りよっ

8. 兎の眼

247 た。なかほどで車をとめると、オッサンは大声でしゃべりはじめた。 「せっしゃのオッサンがまいったぞ。クズを出されい、クズを出されい。せっしゃのオッサ ンがまいったぞ」 あちこちから子どもが出てきた。せっしゃのオッサンがきたアとかけてくる。たいへん人 気者だ 「遠からん者は耳をすましてよくきけよ。本日はせっしやがクズをちょうだいするのではご ざらん。せっしや一生一代の善行。ここにおられるのは、その名も高き姫君先生じゃ。クズ ばさっ サ 屋は世をしのぶかりの姿。先生は慈悲も大慈悲観音菩薩、小児マヒの教え子のために連日連 の夜、入院資金を調達してござる」 や し「オッサン、おれ、そんなこというてへんで」 せ純が眼をむいて文句をつけた。 「まかしとけ、まかしとけ」 オッサンはまるで平気だ。 「こんにち現代、かかる美談があったらお目にかかりたい。六根清浄六波羅蜜寺おぬしらに も美談のはしくれにぶらさがらせてやりたい。 さあさあいそいでクズをもってまいられい」 小谷先生はあっけにとられている。よくまあ口から出まかせにつぎからつぎへことばがで てくるものだ。ふてぶてしいところは足立先生ににている。 たちまち廃品があつまって、純たちはいそがしくなった。小ハ 合先生も目方をはかるのにて みつじ

9. 兎の眼

など二〇余種におよんでいる。また小児まひはクロキンバエなどによって伝ばされる疑 いが濃厚であり研究中である。 このことをわかりやすく鉄三に話してやらなくてはならない。 小谷先生が処理所にはいっていくと、いちはやくその姿をみつけて、功や芳吉が走ってき た。純や四郎も後からかけてきた。 「先生、鉄ツンをおこったらあかんで。あいつ大とハエしか友だちないねんから。な、たの むで」 功はひっしになっていった。 「叱りにきたんとちがうんよ。どうしてハエを飼ってるのか鉄三ちゃんやおじいさんにきき 三にきたの」 「そうか、そんならいいけど。あいつ、ほんまにハエしかなかのええ友だちおらへんから。 先生みたいな美人やったらハエなんかに縁はないやろけどな」 功はませたことをいった。 「おせじいって : : : 」と小谷先生が功のひたいを軽くつつくと、功はヘへへ : : : と笑って、 小谷先生の腕をもった。芳吉も純も笑って、小谷先生にすがりつくようにして歩いた。 なんと人なつつこい子どもたちだろうと、小谷先生は思った。処理所の子どもたちをひど く悪くいう先生がいるか、小谷先生にはわからない。 「ほかの先生方も、よくここにくるの」

10. 兎の眼

兎 の なかった。 とめにはいった教頭先生はなぐりかかられるし、それを制止した若い先生も、あついお茶 のはいったコップをぶつつけられた。 ともかく文治の父を、校長室におしこんで校長先生が話をしようとしたが、いちど、たけ りくるった文治の父はなかなか平静にならず、どうにかこうにか話がついたときには、かわ いそうに小谷先生は人相がかわるくらい泣きはらした顔をしていて、いまにもぶったおれそ うだった。 小谷先生がごく平凡な医者のひとり娘で、両親から大切に育てられて大きくなったことを 知っている校長先生は、彼女がそのショックにたえられるかどうか心配をした。 その夜、小谷先生は小さな子どものように校長先生に送られて家へ帰った。よく眠れない 夜をす ) 、した小谷先生は、その朝になって学校をやめたいと虫がうめくようにつぶやいた。 もちろん学校をやめたいという小谷先生の願いは、まわりの人たちにかんたんにつぶされ てしまった。そういうことをいちいちきいていたら、学校の先生は十年もたてばひとりもい なくなってしまう、と小谷先生をからかう同僚もいた。 小谷先生は学校で仕事をしていても、どこか心がひえている自分を感じた。はじめ、かわ しいと思っていた子どもたちも、ちょっとしたゆきちがいで自分に害を加えることもあるの だと思うと、かわいいとばかり思っていられないと身がまえるような気持になっていた。小 谷先生はまい日、うっとうしい気分で学校へきた。