ハエ博士の研究 鉄三と小谷先生はさきほどから、三つのビーカーをにらみつづけている。ふたりとも、ひ どくしんけんな顔をしている。「ハエの研究」をすすめてから、はじめて鉄三と小谷先生の 意見がくいちがったのだ。 鉄三の「ハエの研究」はご ) 、、 力しぶすすんでいた。ずっと前からいろいろなハエをあつめて飼 研っていたのだから、 ハエの種類と分類はすでにすませていることになる。鉄三のかいたたく 士さんのハエの絵が、その仕事にあたる。「ハエのたべもの」から研究をはじめて「ハエの一 工生」にとりかかり、それから、産卵の研究をした。これは同時に、、 ノエの発生場所を知るこ とにもなって、なかなか貴重な研究資料である。 ハエのたべものは鉄三の飼っているすべての種類で実験をして、一つ一つのハエのたべも のの好みを表にしてある。クロバエやキンバエ、ニクバエなどは動物質のたべものを好み、 イエバエは植物質を好むようである。鉄三の作ったこの表の中から、おもしろい事実を一つ 二つひろってみると、ニクバエは名のとおり動物質のたべものにたかるが、一方では木の汁 をエサにしたりする。チーズバエという名のハエがいたので、じっさいにチーズが好きなの かどうか実験してみると、もちろんチーズにもたかるが、魚の干物にも同じようにたかるの で、とくべっチーズが好きというわけでもないことがわかった。 191
273 しをしなければならなくなったの。みんなだって、お家がかわったら学校もかわるでしよ。 こまっていることはね、処理所の人たちがおひっこしをしたいわけじゃなくて、お役所のつ ごうでおひっこしをしなければならなくなったの。お役所のつごうということは、このへん に住んでいる人たちのつ ) 、うという「とになるから、それで、たいへんこまっているの」 子どもたちはわかったようなわからないような顔をした。 「がっこ , つに、よ、ゞ、 ししカるからいけないんでしよ」 道子がいった。 「そうよ」 「おかしいなあ」と道子は首をかしげた。 「一「それだったら、しよりじよだけおひっこしをして、てっそうちゃんたちはわたしらみたい にこのへんにすんだらいいんでしよう。わたしのおとうさんだって、おしごとはでんしやに のっていくのよ」 そのとおりだ、こんな一年生の子どもでもわかっていることを、役所の人たちはどうして 本気で考えてくれないのだろう、と小谷先生は思った。 「てつぞうちゃんはこのごろいいことばっかりしているのにね」 しつのまにきていたのか、たけしがばつんといった。 しししことをするのは、なかなかた 「ぼくのおかあさんはいってたよ。しんぶんにのるくら ) ) ) しへんだって。あんたもしんぶんにのるくら ) 、 ) ししし「とをしなさいって」
22 波 271 男はなんの抵抗もなしにわびた。まるで打ち合わせてきたようであった。 ハクじいさんはだれにともなく、いやいやをするように首をふった。 「すこしもわかっておらん」 ハクじいさんはかなしそうだった。
159 きということがはっきりしてるね」 「ん」 「イエバエは果物やアメが好きなようだけれど、この記録を見るとなににでもたかるようね。 人間のふんをたべるって、鉄三ちゃんが前にいっていたから、 ハエの中ではいちばんくいし んばうというところかナ」 「ん」 「どのハエも油がきらいね。ラードにはほとんどたかっていないわ」 晴「ん」 の「この記録を見て、先生ちょっとおもしろいことに気がついたんだけれど、アメ玉には、ま もい日、同じ数だけたかっているのに、魚のアラとか牛肉、果物のようにくさるものは、日に よってたかる数がちがうでしよ。ほら魚のアラは三日めがいちばん多いでしよう。果物は五 日め、ね」 小谷先生はちょっと興奮したようだ。 「鉄三ちゃん、これは大発見よ。おさかなの場合、あまり新しくてもふるくても、ハエはた からないわけよ。これで魚の鮮度がわかるじゃない。 これからハエがたかっている魚など買 わないでおきましよう」 小谷先生はとんでもないところで、主婦の顔になった。 鉄三はたいしたことないという顔をしている。
139 かなくてはならない。それでも成功するときはまれである。たいていは、とちゅうでもらし てしま , つ。オシッコジャアーというよりはやく、その場でもらしているときもある。 「やったアと、子どもたちはいっせいにいう。子どもたちはおもしろそうに見ているが、 たいへんなのは小谷先生だ。後始末にどうしても五、六分はかかってしまう。そのあいだ授 業はおるすになっているのだから、小谷先生はいらいらする。 みな子のおばあさんは毎朝、新しい ハンツを三枚、小谷先生にわたしている。三枚も使う ことはめったにないのだが、 それくらいもらっておかないと安心できないのだ。 子 「ほんとうに、もうしわけありません」 っ げおばあさんはかわいそうなくらい小さくなって、小谷先生にわびている。 ) え、ちっとも」 と小谷先生は明るく笑う。子どもでもそういう小谷先生の顔はとてもいいと思うのか、 谷先生といっしょに頭をさげて笑っている子がいる。 しかし、小谷先生も人間だ。給食前のいそがしいときに、オシッコジャアーの半分くらい でもらされてしまうと、思わず乱暴なことばでどなりつけたくなるときがある。 「このションべンタレのくらげ野郎め」 でも、小谷先生はしからない。笑顔もたやさない。 小谷先生はみな子をあずかるとき自分 にちかったことがある。かならすおしまいまでめんどうをみること、だれにもぜったいぐち をこばさないことのふたつだ。泣かないということもいれたかったのだけれど、泣虫の小谷
の 兎 眼 256 「いま、みんなの気持、どんなですか」と、小谷先生はたずねた。 「どきどきしてる」 「きぜっしそう」 「オシッコしたいきもち」 子どもたちはいろいろいっている。 「いまの気持をしつかりおばえておいてね」 小谷先生はカッターで封のセロテープを切ってやった。 さんであけていいわ。 、さん」 子どもたちは眼もくらむ思いで宝の箱をあけた。い っせいにかん声があがった。まっ赤で 元気のよさそうなアメリカザリガニが、子どもたちの眼の中にとびこんできたのだ。 小谷先生は、しばらく子どもたちをさわがせていた。 「みんなに一匹ずつあげます。大切に飼ってやってね」 「ヤッホー」と、たけしが思いきり大きな声でさけんだ。 どうやら小谷先生は子どもたちのリンチを受けずにすみそうだ。 「さあ、こちらを見て」と、小谷先生はいった。 「さいごをがんばってね。いままでみんなの心がいちばんさわいだのは、箱の中を見る前と、 箱の中のものがなにだったのかわかったときですね。みなさんのつづり方のさいごに、その ときの心のようすをしつかりかいておきましよう」
さよならだけが人生だ みな子は絵をかいている。みなこ当番が、みな子の指の先に赤、青、黄などの絵の具をつ けてやる。みな子は大きな画用紙の上に、その指を好きなように走らせる。カづよい線が美 しい色といっしょに生まれてくる。 アクションペインテングとかドローイングとか呼ばれているその絵は、約束ごとがないの 生 圦で、みな子のような子どもにはうってつけの教材だ。みな子もその絵をかいているときは、 いきいきしている。 よかったね、みな子ちゃんと小谷先生はかたりかけた。職員会議で足立先生が発言してく されていなかったら、いまごろどうなっていたかわからない。みな子ちゃん、いま、あなたは わたしの学級になくてはならないひとなのよ。 みな子がきてから、この学級はだいぶかわったと小谷先生は思う。一学期のときは、告げ 口が多かった。いまはそれがほとんどない。なんとなく学級に活気が出てきた、なにかしな ければ子どもはかわらないんだとっくづく思う、もちろんわたしもと、小谷先生はちょっと てれて思った。 でも、もうすぐみな子ともわかれなくてはならない、それがかなし ) し。かなしいだけでな しにこれからどうすればいいのだろう、 いつまでもいてほしいのにと小谷先生はさびしく思
の 兎 192 ハエの一生は鉄三にとってごくかんたんな研究だったようである。卵から成虫になるまで 。ハエは種類によって、 の期間がおよそ二十日くらいだったので、観察しやすかったのだろう さなぎ 成長の日数に差があるが、およそ卵は一日でうじになり蛹になるまでに、二回皮をぬぐ。そ の期間はイエバエが六日から十日、ニクバエ、クロバエは七日から九日、キンバエは十二日 ぐらいということが、鉄三の観察からわかった。 蛹は土の中にもぐる、土がなければなんでももぐれるところにもぐる。鉄三はビンの中で ハエを飼っていたので、蛹が土の中にもぐることを知らないと、はじめ小谷先生は思ってい たのだが、 鉄三がハエを採集するときに成虫をとるより蛹の方を多くとってきていたので、 この考えはあらためなくてはならなかった。 鉄三の観察によると、蛹の期間はイエバエで四日から十一日、ニクバエ、クロバエ、ヒメ イエバエで十二日から十五日、キンバエで十日前後であった。 ショウジョウバエは卵から成虫になるまでの期間が十日ぐらいで、ほかのハエの半分ぐら いの時間しかかからない ハエはいつまで生きるかということであるが、ざんねんながら、これは鉄三の実験結果は ばらばらでよくわからない きんじし 文治に、カエルのえさにされてしまった金獅子のかわりに、鉄三がいま大事にしている二 代目の金獅子は、飼ってから二カ月たっているか、いっこうにくたばりそうにない。二カ月 もたっとたいていのハエは死んでいる。
「ほんまや」と、みんなびつくりした。 箱をもらってすぐゆすっていたので、いままで気がっかなかったのだ。 「虫や」と、子どもたちは眼を光らせた。 「かぶと虫やで、きっと」 かぶと虫ならおかしよりずっといい。 子どもたちはすっかり興奮してしまった。 エンピッをもっているあいだも、子どもたちは箱をにらみつけている。かたいものがぶつ たかるような音がする。子どもたちの血はおどった。 と生きものだということがわかってから鉄三の眼は箱にくぎづけになってしまった。 「弘道くん、読んでください」 「かぶとむしや、ぜったいや。ばくはいまかみさまにおがんでいます。かぶとむしに ばまちがいありませんようにといっておがんでいます。先生、ぜったいばくにちょうだいね」 「やれやれこまったナ」と小谷先生はいった。 「さっき、ぜったいおかしといって、ちがってたでしよ。こんどもちがうかもしれない」 子どもたちは不安そうな顔つきになった。 「でもね。先生はみんなをいじめてよろこんでいるわけじゃないから、このへんでタネあか しをしましよう」 子どもたちは、わあっといってよろこんだ。 255
201 はしごをもってきてもらって、小谷先生と工場の人はヘいの向こうを見た。そこはまだ田 んぽが残っていて、道のはしに大きなたい肥の山が六つもあるのだった。 小谷先生はすべてがわかった。 「あのたい肥が原因ですわ。イエバエはたい肥の中に卵をうむんです。おたくの工場にいる ハエはみなイエバエですから、あのたい肥が原因であることはまちがいありませんわ」 一週間ほどして、ハムエ場からお礼がとどいた。その日の給食に、献立表にないソーセー ジがひとりひとりの子どもについていた。やがてその理由が校内放送で伝えられた。 研鉄三はいちゃく英雄になってしまった。もっとも鉄一一一自身は人ごとのように、知らん顔を 士していたが : 博 工 芸は身をたすける、小谷先生はそのことばをかみしめた。知らず知らすのうちに笑いがこ ぼれてくるのをおさえることができなかった。 鉄三がはじめて大声でおしゃべりをしてくれた、そのことがなによりも小谷先生にはうれ しかった。