250 暮れがたの公園には、会社の帰りらしい二人連れの男女や、子供をつれた主婦、犬に散歩 をさせているらしい初老の外人などの姿があちこちに見られ、海には停泊している貨物船が、 夕日をあびてくつきりと浮んでいる。 ばくは海にそった遊歩道を、阿里葉子と並んで黙って歩いていった。 「いっかは、すみませんでした」 不意にばつりと阿里葉子が言った。 「よこ、が ? ・」 ばくは立ちどまって、彼女をふり返った。 「院長さんのお宅の離れで、とっぜん変なお願いをしたりして」 と、彼女は言った。夕日が彼女の白いダスターコートに、かすかな赤い色をなげかけてい る。海からの風で、阿里葉子の髪がこきざみに揺れているのを、ばくは妙に沈んだ気持で眺 と , っしたことだろ , つ。 めた。さっきまでは浮き浮きした感じだったのに、・ 「無理に退院させないでほしいって、たのんだことかい ? 」 「ええ」 「そんなこと、気にする必要はないさ。ばくは一度、そのことできみとゆっくり話がしてみ たかったんだ」 ばくは海にむかって立ったまま、煙草に火をつけた。 「きみも吸 , っ ? 」 「煙草をですか ? 」
阿里葉子は、黙ったまま、まだばくの腰を両手でしつかりとしめつけている。ばくは彼女 の指を一本ずつ、ゆっくりほどいていった。 「さあ、降りるんだ。山下公園で海でも見ながらお喋りするか、それともこのホテルでコー ヒーでも飲むか、いずれにせよ降りなくちゃ話にならない」 彼女はなんにも言わすに、しばらくじっとしていた。それからばくの背中から静かにやわ らかな胸をひきはなした。阿里葉子はたよりなげな動作で片脚をのばし、地面に立った。 「ふらふらする」 阿里葉子は手をのばして、ばくの胸にすがろうとした。ばくは素早く彼女の体をささえた。 「気持が悪いのかい ? 」 遊「 , っ , っ , ん」 れ阿里葉子は首をふった。顔が紅潮して、あらい息をしていた。 じ「歩ける ? 」 禁 「ええ」 ばくは先に立って道路を渡り、ホテルと向いあった山下公園にはいっていった。 ニューグランド・ホテルの駐車場には、乗用車がぎっしり並んでいたが、をおくス ペースは充分にあった。ばくは道路から右折して、その駐車場にオートバイを乗り入れたの
「少し走ってみようか」 と、ばくは唐突に言った。ふっとそうしたい衝動にかられたのだった。 「うん、それがいし どうせおくれるんだから、ちょっと道草くってゆこう」 「だめよ ! 」 阿里葉子の悲鳴のような声が風の中に流れた。 「そんなことしたら、大変だわ」 「ど , っして ? ・」 「だいじようぶだって言ってるだろ。ばくがきみにすすめてるんだ。三十分や一時間、おく れたってかまわないさ。患者はドクターの一一一一口うことに逆らっちゃだめだ」 でも、とかなんとか背中のほうで身もだえしている阿里葉子を乗せて、ばくは力いつば、 加速した。のエンジン音が彼女の言葉をかき消し、彼女の腕が必死でばくの腰にしが みつく ばくは右に左に乗用車の群をかきわけながら、横浜駅前をすぎて、桜木町方面へ飛ばして いった。とてもいい気分だった。多分、なにかに酔っていたのだろう。 「ど , っした ? ・」 ばくは首を回して言った。エンジンを切ったオートバイは、さっきまでの荒々しさが嘘み たいにおとなしく静止している。
ばくは少しスピードをあげた。とろとろ走っている乗用車をぐんと追いぬいて、尻をふつ て左側へもどる。ひとりで走っている時と、かなりちがう走り方をしてるのが自分でもわか る。心のどこかで良いところを見せたいという子供つばい虚栄心が働いているのだ。 「一 )- わい、刀し ? ・」 「すこしなれました」 「そいつはい、 ばくはもう少しスロットルを開いた。 22T)< は忠実にドッドッと加速してゆく。 「お酒に酔ってるみたい」 と、うしろで阿里葉子が言った。 「なんだか、ふわーっとしちゃって」 「きみは本当はスピードが好きなんだよ」 「つでー」よ , つか」 「自分でそう思ったこと、ないかい ? 」 「そんなこと、考えてもみませんでした」 遊彼女はなにか言うたびに、首をのばして、ロをばくの耳もとに近づけるのだ。そのたんび にに、ばくの背中に微妙な重みがくわわってくる。 じ「看護婦さんに、門限におくれること伝えていただきました ? 」 禁 「だ、じようぶ。説明しておいたよ。それに担当医のばくが一緒なんだから心配はないさ」 「でも
「だって、スカートなんです」 「ミニじゃないから平気、平気」 「こわいわ」 「さあ、いそいで」 ばくは彼女に考えるひまをあたえぬように、わざとせきたてた。 阿里葉子は、おどおどした動作でオートバイのうしろにまたがった。 「両手をばくの腰に回して、しつかりつかまえる」 。し」 こちこちになった彼女の体が、ばくによりそった。 ばくはゆっくりスタートした。 彼女の胸のふくらみが背中によりそっているのは、たしかに悪い気持じゃなかった。 ばくは広い国道に出ると、おとなしく左側の車線を走っていった。 「オートバイに乗るの、はじめてかい」 「ええ」 「 1 刄〈刀はど , っ ? ・」 「目が回りそう。心臟がドキドキして」 「あんまり左右をキョロキョロ見ないほうがいいよ」 「。し」 彼女は額をばくの背中に押しつけた。きっと両目をつぶっているのだろう。
「いや、退屈しのぎに、ひと走りオートバイで走ってこようかと思ってた所なんだ。うしろ に女のひとを乗っけて走るのも、また悪くないからね」 「美人ならなおさら、でしよ」 「それ、皮肉かい ? 」 「そんな。軽い冗談です。ごめんなさい」 相手は素直にあやまった。ばくは気にしないことにして、事務室をでると、自転車置場に おいてあるオートバイの所へ駆け足で走っていった。 ヾーよス (T)<< をおして、病院の先の坂へでると、エンジンを押しがけし、ちょっとオー ピードで国道をつつ走ってゆく。 東口が消火作業でごった返しているとすれば、迂回していったほうがいし。 ーを警戒しながら、ひさかたぶりに思いきった速度ですっ飛んでいった。 遠回りして国道一号線へで、そこを曲って東神奈川の駅へつきあたる。タクシーを待つ人 ハリのダスターコートを着た阿里葉子の姿が見えた。 たちの行列の横に、白っぱ、バー ばくはをぐっと傾けて回りこみ、彼女の前に急停車した。 遊「乗れよ」 れと、ばくは彼女の風呂敷包みに手を出しながら言った。 じ「荷物はこっちへよこして、うしろにまたがるんだ。両手でばくをしつかりつかまえて」 「またがるんですか ? 」 「挈よっと、も」
「そうだろうな」 ばくはちょっと考えてから、煙草を灰皿におしつけて言った。 「ばくがオートバイでむかえにいってあげよう。駅の東口に降りて、タクシー乗り場の横あ たりに立って待っててくれないか。十分以内でゆくよ」 「でも と、受話器のむこうで阿里葉子が小さな声で言った。 「わるいわ。わざわざ迎えにきていただくなんて」 「場所はわかったね。十分後に東ロのタクシー乗り場の横だぜ。じゃあ」 「あ」 かすかに叫ぶような阿里葉子の声を無視して、ばくは受話器をおいた。 「なにかあったんですか ? 」 事務の女のひとがきいた。 「いや、大したことじゃない。西病棟の阿里葉子さんが、東神奈川駅で立ち往生してるらし しばくが迎えにいってくるけど、満田さんに阿里さん いんだ。火事でバスが動かないらし、 から電話で門限におくれる旨、連絡があったと伝えといてくれないか」 「わかり - 寺 ( した」 事務の女のひとは、うなずくと、 「でも、ドクターがわざわざ迎えにいくこともないんじゃありませんか。しばらくしたらバ スも動きますよ。タクシーだってひろえるでしように」
ばくは受話器を肩と耳の間にはさんで、片手でライターを点火した。煙草に火をつけると、 「満田さんに、なにか用 ? いま、どこからかけてるんだい」 「 ~ めの、どちらさまでしょ , つか」 「ばくだよ。竜野努」 あ、と、かすかな声が受話器から伝わってきた。ばくは話している相手が阿里葉子だとい う勘があたったことで少し気をよくして、愛想のいい 口調で一言った。 「満田さんには、ばくから伝えといてあげるよ。用件を言ってごらん。きみはたしか今日は 外出したんだっけ」 「ええ。そうなんです。いま横浜駅から電車で東神奈川駅まできたところなんですけど」 「わかった。門限までにこっちへ帰り着けそうにないから、電話で連絡してきたんだろ ? 」 阿里葉子が外出願いをだして今日、横浜の街へでかけていることは知っていた。めったに ないことなので、おや、と思ったのだ。 「いま、この近くで火事があったんです。消防車が沢山きて、消火作業がつづいているもん ですから、付近の交通がストップして、バスが : 遊「わかった。すぐに看護婦さんのほうへも伝えておくよ」 に「すみません」 じ「で、きみはど , っする ? 」 禁 「こまってるんですけど。東ロのタクシーもすごく行列をつくってて、すぐにはのれそうも 幻ないし」
242 その日の五時半ごろだったと思う。 ばくは外来の受付のある事務室でテレビを見ていた。一応、勤務の時間は終ったし、べっ に帰ってどうするというあてもなかったので、ばんやり歌手のものまね番組を眺めていたの だ。夕食後に気分がむいたら、オートバイで東京まで出かけてみようか、とも考えていた。 仲間たちにも、すっかりごぶさたしているし、じれつ亭へもこのところ顔をだしていない ひさしぶりに自烈亭で一杯やるか、などと思いながら煙草に火をつけようとしたとき、近く の電話がなりだした。 。し。し、和親会病院でございます」 ばくは煙草をくわえたまま受話器をつかんで答えた。そばに事務員の女のひともいたのだ が、軽い気持で電話にでたのである。 「あの、もしもし 電話の声は、ちょっと聞きとりにくい女の声だった。 「あの、和親会病院ですか」 「そうです」 「看護婦さんの満田さんをお願いできますか」 「そちらき、まは ? 」 と、ばくはたすねた。ふとその電話の声に聞きおばえがあるような気がしたからである。 「阿里葉子です。西病棟のー。ー」 「ああ、きみか」
「でも、事実なの。かなしいわ」 早野友子が言った。彳 皮女は眼鏡をかけていて、それがよく似合う文学少女みたいな娘であ 「竜野さんは今夜、宿直じゃないんでしよう ? 」 「、つ′ル」 「お仕事が終ったら、どうなさるお積りなんですか」 「えーと、今夜はーーー」 ばくはちょっと考えて、もったいぶった口調で言った。 「今夜は、大学の医局の先輩に会って、ちょっと学問的な問題について教えを乞うつもりで いるんだがね」 「あら、まあ」 井原民枝が目を見張って、 「竜野ドクターって、あんがいまじめなんですね。あたし、いつもバンはいてオートバイ なんか乗ってらっしやるから、うちのヒッピー医者、なんて友達と話してたんです。ごめん 遊なさい」 に「いや、かまわんさ。でも、やはり多少は勉強もしないとね」 ら じ「じゃあ、亜いからこの・次にします。ど , つも失礼しました」 禁 三人はペこんとおじぎをして、離れていった。 る。