「ツトムき、ーん ! 」 若い娘の声だ。ばくはびつくりしてとびおきた。夢の中の少女ファンが押しよせてきたの 「ツトム」ーん ! 」 娘の声がまたきこえた。ばくはようやく目を覚した。七時十五分すぎだ。 「時間ですよー」 下からきこえる声が階段をあがってきた。 「そろそろ朝ご飯ですけど」 ばくはべッドをとびだして、プリーフ一枚の格好でドアをあけた。いつも上半身は裸でね るくせがついているのだ。 「きやっ , 階段の中ほどに、院長の娘のナッキが、両手で顔をおおって立ちすくんでいる。指の間か らこわごわばくの格好をのぞいているのがわかった。 権「ひどいわ。ひどいわ」 みナッキは、いやいやをするように首を左右にふると、泣きそうな声をだした。 「そんなかっこうで、出てこないでください」 彼女は身をひるがえして階段をかけおりると、庭のほうへ走っていった。
と、そのとき、すぐ近くで女の声がした。 ばくは反射的に顔をあげた。そして、ばくらのそばを足早やにたち去ってゆく若い娘のう しろ姿を発見した。 「あれは井原さんみたいだな」 「 , んつ」 ばくの胸に顔をあずけていた阿里葉子の体が、びくっとふるえた。 「ほら、あそこを歩いてゆく二人づれのーー」 阿里葉子は、バネ仕掛けの人形のように、ばくから体をひきはなした。そしておびえた声 で、 「看護婦さんの井原さんと、薬剤師の早野友子さんだわ。たしかにそうよ」 「彼女たち、なぜばくらをみつけて声をかけなかったんだろうな」 ばくはロにだしてから、つまらない事を言った、と自分で思った。彼女たちに今日の夕方、 誘われたことを思いだしたのである。そのときばくは、今夜は大学の先輩に学問的な問題で 教えを乞、こ、 しししくからと言って断ったのだ。 「まずいなあ」 いかなる理由があるにせよ、やはり弱ったことになってしまった。 「ど , っしましょ , っ ? きっと病院中の噂になるわ」 阿里葉子は、子供のように両手を口のあたりに押しつけて叫ぶような声をあげた。胸が大
242 その日の五時半ごろだったと思う。 ばくは外来の受付のある事務室でテレビを見ていた。一応、勤務の時間は終ったし、べっ に帰ってどうするというあてもなかったので、ばんやり歌手のものまね番組を眺めていたの だ。夕食後に気分がむいたら、オートバイで東京まで出かけてみようか、とも考えていた。 仲間たちにも、すっかりごぶさたしているし、じれつ亭へもこのところ顔をだしていない ひさしぶりに自烈亭で一杯やるか、などと思いながら煙草に火をつけようとしたとき、近く の電話がなりだした。 。し。し、和親会病院でございます」 ばくは煙草をくわえたまま受話器をつかんで答えた。そばに事務員の女のひともいたのだ が、軽い気持で電話にでたのである。 「あの、もしもし 電話の声は、ちょっと聞きとりにくい女の声だった。 「あの、和親会病院ですか」 「そうです」 「看護婦さんの満田さんをお願いできますか」 「そちらき、まは ? 」 と、ばくはたすねた。ふとその電話の声に聞きおばえがあるような気がしたからである。 「阿里葉子です。西病棟のー。ー」 「ああ、きみか」
と、医局長は少し声をひくくして言い、ぎごちなく片手を振ってみせた。 「ことわられたんですか」 「最近はむかしみたいに教授のひと声でというぐあいにはいきましえんし、それにみなさん もなかなかチャッカリしておられるから」 なるほど、とばくは思った。そういうことなら納得がいく。風変りな病院には、変り者を 回せま、 、と、う考えかたか。するとばくのそんな顔色を見ぬいたように、 「あんたが今度のことをどう受けとられるかは自由だが 医局長はやや体をのりだして、ばくの目の奥をのそきこむようにして言った。 と思ってるぐらい 「本当のところを言いますと、わたしは自分があの病院にいってもいし でね」 ばくは黙って彼の喋りだすのを待った。手の中の湯のみに、茶柱が横になってうかんでい る。どこかで女の叫び声がかすかにしていた。叫んでいるのか、それとも歌でもうたってい るのだろうか。ながく尾をひいた犬の遠ばえのようなその声は、やがてきこえなくなり、医 局長の声がばくの耳にったわってきた。 「あんたがわたしの話を引きうけてくださったことは、それは正直いってうれしいことです。 提しかしわたしが厄介ばらいをしてよろこんでいるだけかというと、それだけじゃないですよ。 局わたしは実はひそかにあの和親会病院の思いきったやり方に共鳴してるんですから。医療の 医 あるべき姿ともいうものを、わたしはわたしなりにすっと考え続けてきた。自分が医局の中 ではたしている役割りについても考えた。本来、人間のためにあるべき医療の意味が、逆に
「なんて曲だい」 「精神病棟、っていう曲」 「へえ」 ばくは歌に耳をかたむけた。叫ぶような、祈るような、体の奥からしばりだす声がばくを 圧倒した。 「セット・ミ と、その声はうたった。 ライク・ア・スレイブ 「ユー・アー・トリーティング・ミー 「おかわり」 と、松井が言った。ばくも空のグラスをさしだした。 「さて、そろそろ引揚げるとするか」 松井が手で首のうしろを叩きながらたちあがると、 「おれは帰るぞ。竜野とちがって仕事のある身だからな」 いや味を言ってやがる、とばくはむっとした。だが、こちとらもこれまでみたいにぶらぶ らしてる身じゃない。和親会病院という、れつきとした職場の一員なのだ。そんなばくの表 情に素早く気づいて、早田晴美が歌うように言った。
は岸洋子の〈希望〉とか〈ドナ・ドナ〉を、とってもお上手に」 「しかしですね」 ばくはギター片手に鼻歌をうたったりするのは大好きだが、こんな大勢の前で突然そんな ことを言われても困るのだ。 「伴奏はなんでもできますけど」 と、細いがよくとおる声で阿里葉子が言った。彼女は顔をあげて、ばくをみつめている。 「ひどいなあ」 ばくは仕方がないので覚悟をきめた。 「じゃあ、〈花はどこへ行った〉を」 阿里葉子はうなずいて、一小節弾くと、 「この歌ですね。キーは ? 「適当でいいです」 皆が拍手した。ばくはすこし固くなって前奏を待った。すぐに阿里葉子が弾きだした。ち らと目をあげて、出の合図をする。ばくはうたいだした。声がかすれて、音程もふらっき気 味だ。われながらますい歌だった。 一番だけうたい終って、ばくはペこりとおじぎをした。 「これでかんべんしてください」 「アンコール ,
に重なるのである。 「ウサギがどうしたの ? 」 唐木女史が不思議そうにばくの顔を見てたずねた。 「いや、べつに」 「竜野さんは と、そのとき不意に顔をあげてナッキが言った。歌うような、あどけない無邪気な声だっ 「あたしがウサギみたいだ、って思ったんです。でしよう ? 」 ばくはびつくりして相手の顔をみつめた。なんて勘のいい子なんだろう。 「あら、そういえばナッキくんの食べ方、ウサギに似てるわ。ほら、白菜を前歯で忙しそう に噛みながら食べてるところなんて、そっくりじゃない 唐本女史が感心したように言った。ナッキは赤くなって、 「あたし、ちょっと反っ歯なんですもの」 「この子は、前歯が二本だけ大きくって、すこしとびだしてるんですよ。子供のころは、そ こがとっても可愛らしかったんだけど」 院長夫人がおっとりした声でロをはさんだ。 「今だって可愛いさ」 変 と、院長がとりなすように言った。 「なんだか今夜はめずらしいじゃよ、ゝ。、 オし力しつも無ロなナッキが、初対面の男のひとに自分
190 唐木女史は、そんなばくの心の動きをじっと観察するように黙っていたが、やがて歩きだ しながら事務的な口調で一 = ロった。 「あの阿里葉子さんは、今日から竜野さんに受持っていただくことにするわ。 しいわね ? 」 そのときばくの背後で、ひかえ目な男の声がきこえた。 「ごめんなさい」 静かな声だった。 ばくがふり返ると、そこに、ひとりの中年の男のひとが立っていた。ジャン。ハーを着た四 十五、六歳くらいに見える痩せた人物で、くばんだ小さな目をしている。 彼は右手を拝むように顔の前にさしだすと、 「失礼ですが と、丁重な口調で言った。 「よ、、なんですか」 ばくは、相手を観察しながら答えた。男のひとは軽く会釈をすると、あいかわらず静かな 口調で、 「申し訳ありませんが、そこをあけていただけませんでしようか」 「そこって ? 」 「私が歩いております通路をです」 「。は ~ め」 ばくは一瞬なんのことかわからず、唐木女史の顔を眺めた。彼女は微笑をうかべてばくに
「よろしく」 「竜野さんは音楽はお好きでしようか」 ひとりの若い娘が、ちょっと唐木女史に遠慮しながらきいた。 「ええ、まあ、好きですけど」 「ギター、弾けます ? 」 別な女の子が質問した。 「コードをおさえる位なら」 「ちょ , つどよかったわ」 、 ' とうやら、この子たちが作っているフォ 彼女たちはお互いに早ロで何か喋りあってした。。 ーク・ソングかなにかのグループに加入させたいらしいのだ。 「さあ、まず仕事、仕事」 唐木女史は、よろしくね、と彼女らに声を残すと、ばくを廊下にひつばりだした。 「ギターもし 、いけど、脳波ぐらいちゃんと読めるように勉強してくださいね」 「ええ」 ばくはうなずいた。そのとき、背後から四十歳前後と思われる血色のいい背広姿の男が笑 顔で声をかけた。 「唐木副院長、ばくにも紹介していただきたいですな」 「あ、こちら事務長の林さん。竜野努さんです」 「私、林と申します。よろしくお願いします」
122 と、ばくは掃除にとりかかりながらきいた。 「ときどきですこ 彼女は小さな声で答えた。 「いつもじゃありません」 白いスウェーターの袖を肘のところまでまくりあげて、彼女はしずかに雑巾を洗いはじめ た。雑巾をしすかに洗う、という言いかたは何だか変だが、実際にそうなのだ。 歩くときにも、周囲の空気を乱さないように気をつけているみたいな歩きかたをする。 ば / がしかけ・ると、 しいえ、とか、そうです、とか答えはするのだが、すぐに話がとぎ れてしまう。 ばくは諦めて、もつばら部屋をきれいにすることに熱中した。 三十分もすると、どうにか人間がすめる程度の部屋になった。彼女は、ゆっくり動いてい るわりに、仕事は驚くほどスムーズに片づけてゆく。 阿里葉子は、床の上にひざますいて、何かの汚れを熱心に拭きとろうとしていた。白い首 筋に汗が光っている。 「そんなの、 。し。しレま」 と、ばくは一一 = ロった。 「どうせ、じゅうたんを敷くんだから」 ばくの声がきこえなかったように、彼女はゆっくりと床の汚れをふきつづけている のだ。