「大丈夫 ? 」 「、、こ、じよ , つぶ , ・」 はず 唐木女史の声が弾んでかえってきた。 ばくは車体をわずかに傾けてカーブを曲った。最初のときは穏やかに、そして二度目はや や大きく車体を傾けて。 背中で彼女の体がかたくなり、ばくの動きに抵抗した。やがておすおずとこちらの動きに 合せてきて、三度目にはすっかり身をまかせた。 彼女は悪くない同乗者だ。すごく勘がいい 。もう一度カープを回る。こんどはびったりと 合せてついてきた。楽器を演奏していて、気持よく音があったときの、あの感じだ。 しいそ、ネ工ちゃん ! 」 「失礼ね ! 」 ばくが大声でたずねる。 「どっちへ行ナ、よ、、 / しししんですか ? 」 美「そこを右へ ! 」 革 ばくは広い道路を右へ曲る。そしてしばらく走り、さらに彼女の指示で右折した。ちょう 行ど広い道路に並行した野つばらの一本道だ。道はさっききた方向と反対のほうへのびている。
「きまってるじゃないの。人間を疎外する、あらゆるものとよ。古い医学界の権威主義や、 精神障害に対する偏見や、患者さんへの差別や、それに自分自身の中の古い意識や、つまり そんなもの全部をひっくるめた敵と、もし本気でたたかう気があなたにあるんなら、ぜひこ こで働いてちょうだい。でも、その気がないのなら、あなたにきてもらわなくてもいいわ」 ばくは黙って (..5 バンの膝のほころびを指でもてあそんでいる。 「医局長に一応のことは聞いてきたんでしようね」 彼女はばくの顔をのぞきこむようにして言った。 「聞きましたよ」 「どんなふうに ? 「えらく変った病院だって」 「挈 : つ」 「なかなか誰もここへは来たがらないって」 「でしようね」 唐木女史はうなすいて、ばくに言った。 「で、あなたはなぜその気になったの ? 」 しいじゃないですか」 美「そんなこと、どうでも、 的 ばくはちょっと早ロで言った。 革 「あなたが何とたたかうつもりなのかはわかったけど、ばくはあなたの兵隊としてここへく るんじゃないです。ばくはばくなりにがんばるつもりだけど、でも、かならすそちらの期待
阿里葉子は、ときどき目をあげて譜面を見ながら、熱心に弾いていた。なかなかうまい伴 奏だった。 「てんとう虫がしやしやりでて と、山崎議長がうたった。 サンバに合せて踊りだす と、〈九段の母〉を提案して却下されたおばあさんも手を叩きながらうなっている。 なかにはロだけ動かしているが、気がなさそうにわき見をしている青年もいた。小声でひ そひそお喋りしている女の患者さんもいる。 歌が終ると、全員が拍手をした。 「ところでーー」 と、山崎議長が拍手を手で制して、 「皆さんにご挨拶の意味で、竜野ドクターにも、なにか一曲うたっていただきたいと思いま す。皆さん、いかがでしようか」 「冗談じゃないよ」 ばくはあわてて、看護婦をふり返った。 権「そんな話、きいてないもの」 み「でも、院長さんや唐木副院長さんは、よくおうたいになりますよ」 と、看護婦さんは平気な顔で、 「院長は、三橋美智也の〈古城〉と、ペギー葉山の〈南国土佐〉がお得意なんです。副院長
「去年の春、フロリダで学会に出席したんだけど、コーヒーはお砂糖ぬき、室内では場所を とわす禁煙というのが、どの国からきた医師たちにも共通の姿勢だったわ。煙草の心理的効 用なんてことを言う人もいるけど、それは公害のせいで市民の意識や、住民運動が高まった のだから、公害にもある効用はあるのだ、という言いかたと一緒よ。あたしは三年前から喫 煙の習慣をすてたの。あなたも、この病院で働く気なら、そうするように努力してほしいと 思うんです」 「あなたの考えはわかりました」 と、ばノ、は一一 = ロった。 「医局長から一応きいてましたから、そう驚きもしませんけど」 「あたしのこと、コータローがなんて言ってたの」 「気になりますか」 「気になんかなるもんですか。ただ誤った清報がったえられることがいやなだけ」 彼女はそう一一一一口うと、いきなりばくの手から煙草をつまんで、自分のばってりと赤い唇の門 にさしこんだ。 それがあんまり自然で、すんなりした態度だったものだから、ばくは一瞬、ポケットから 美マッチをとりだそうとしかかったほどである。 的 革 と、彼女が顎をしやくってばくに言った。ばくは呆れかえって彼女を眺めた。 「あたしの顔になにかついてる ? 」 あき
い出つばりがせり出している。浅黒い顔の濃い眉と、やや厚ばったい唇が、ぐいとこちらに 接近してきて、ばくを点検するようにきびしい目つきでみつめた。 「サングラスを、はすしなさい」 と、彼女は命令口調で言った。ばくは、あわてて言われたとおりにした。 「大学病院の井手さんから連絡があったのは、あなた ? 」 「ええ」 ばくにもどうやら相手が誰だか見当がっきかけてきた。これが例の唐木道子女史にちがい しばってりした感じの中年女だっ ない。早田晴美の話で想像してたのは、もっといやらし、 とちらかというと、オリンピックの水泳の選手といったタイプじゃな たので、意外だった。。 いか。もっとも、この胸じゃ、水の抵抗でそう速くは泳げまいが。 「あきれた」 と、彼女は男のように舌うちしてばくを眺めた。 「あなたは、この病院のなかでああいう反社会的な音をたてて平気なの」 オートバイのからぶかしのことなら、こっちの不注意だ。ばくはちょっと恐縮した態度で 頭をさげてから、たずねた。 美「副院長の唐木センセイでしようか」 「この病院では、そういう呼びかたはしないの。副院長とか、唐木さんとか、好きなように 革 呼んだらいいわ」 彼女は重量感のある腰に両手をあてて、顎をしやくった。 あご
彼女はびしりとたしなめるように言った。 「なんとなく呼びづらいなあ」 「すぐに慣れるわ」 唐木副院長は、大股で廊下を受付のほうにむかって歩いて行く。均整のとれた長身で、や やバギー気味のパンタロンが、とてもよくにあうのだ。 一メートル六十五センチ、五十八キロ、というところか。オリンピックで活躍した水泳の 木原美知子選手に似ているな、と、ばくは思いながら彼女のあとをついていった。 「副院壕ーーー」 事務室から中年の、しつかりした顔立ちの婦人がでてきて声をかけた。どうもこの病院は、 たのもしい女が多すぎるんじゃなかろうか。 ばくはいささか不安をおばえながら唐木女史と、 その婦人を眺めた。 「あ、ちょうど、 しいから紹介しとくわ。こちら婦長の武田元江さん」 「 "A 」 , っ 7 も」 ばくはあわてておじぎをした。これが婦長さんか。アメリカ映画にでてくる海兵隊なら、 さしずめバート・ランカスター扮するところの百戦練磨の兵曹長といったところだ。 美「彼がこんどうちへ来てくれることになった竜野くん。えーと、竜野、なんてったつけ」 命唐木女史は武田婦長の前にばくを押しやりながらきいた。 革 「ツトムです。努力のドという字」 「そう、そう。竜野ットムくん」
「この病院がつぶれたら、責任は百。ハーセント国家にあるわ。いまの医療制度のもとで、ど うやって医師の良心を守ってゆけばいいのか、あなたにはわかっているとでも言うの ? 」 「あたしたちは、この病院の経営を医療労働者や医師の個人的犠牲のうえに成りたたせてい るのよ。ここの院長がどれだけの月給をとっているのか、あなた、知ってる ? 」 「医局長から聞きました。」 「っ」 唐木女史は、大きなため息をついて煙草を灰皿に押しつけた。 「資本主義社会における医療の営利性と医療の実態とは、個人的な良心の問題をこえてるん だわ。どんなにあたしたちが良心的にやっていこうと思っても、いまの制度の中じや私立病 院を採算とれるようにやってゆくことさえ極めて困難なのよ。この病院の入院患者さんたち に出す一日三回の食事の費用が一体いくら認められてると思うの ? 社会保険のワク内だと 基準給食費は五五〇円よ。この値上りの嵐の中でどうしてこれで本当に栄養のある食事がだ せて ? うちじゃ差額ベッドをうんと取ることは、実際には不可能だし : 「ばくはここで働かせてもらえるんでしようか」 女 と、彼女の言葉をさえぎってばくは言った。 美 命「そっちでさしつかえなければ、あすからでもきますが」 革 「きてちょうだい。あたしのほうからお願いするわ」 唐木女史は、光る目でじっとばくをみつめた。
プ るた なな でと いだ らは あいのね わ医 つ人 う店 せ局 でらな院はど しし て ゃな の知 女・つ そほ にも う史でい た んし よる つん いただに のす引ろ 大がはよ て やて にな わき 気かれて つなだ少 ど雑 戸斤々 り口 い・そ・ 噂て ちあ でにはた 毛息らたるろ ょん をを った どし、 と オよ、 き医 のり コ療 ラ革 がる ム新 わ間 わて みの に絶 用対 名し、 の見 や目リ 病沢 なの るけ つの のは つ院かル い毛 れ先れな なを た生たり はり しおすみ たと き と の の っ任女 いみく 、なれ て よ っかん じ 、な責 に る の喋あ く よ と をばわらな つかよ で 。は 若 連 中 と て 気 な る 存 在 で あ る 彼 女 軽 シ ヤ い も ら るなな ら し し、 ド完 が ぶ と も も っ 彼ば女 の っ押有なか し名ん 、ま人だ し言大と新 う変き ん て、 つ き て書ダ も な つ彼よ の 、の長 、しんな題田 か息副美は 、の つ しがと接ど 。に近 く し ン ヌ ク い問早そろ は晴一 く っ 。とけ し ーコ つ の 言舌 つ で い っ そ へ ば く が 最 近 ち ょ く ち ょ く 顔 を す と っ 情 報 を 彼 女 は た い 誰 か 仕 入 れ た ん の る 。噂の の 主 で そ そ の ま 日 よ り て み 婦 いそと 若 い ノ、 れとけ っ 牛寺のカ : けれて ま し て は つ ま す、 き ひ り た 名 目リ っ いるを 、や し、 ったるれあ い ひが住 行 の 、主を先ちて : 走 り . る っ し し店小 。どな しこ 本黄 文 じ な く つ 、ん彼 取で女 近いが はるな 六麻ん 一布て と つ ん やにお き ス 、ナれ ツ ク 字のと てだ仲 ん妙の ななひ ふ名と 目リ なだが 58 だ つ と い た じ つ り
の巨大な鉄のけもので、その二筋の火の流れが、そのけものの眼かなにかのように思えてく るのだった。 そして、こまったことにばくはこのグロテスクな公害の原風景ともいうべき夜景の中にい ると、妙に心がやわらぐのである。どこかがおかしいのだろうか ばくはエンジンを切ると、さっき兄貴からあずかってきた院長の娘の密告書を、照明灯の 光のしたにひろげた。 高校生にもなって、花模様の封筒なんかっかってるんだから困ったもんだ。そのくせ、ペ ンの字だけは妙に達者にくすしてある。 かなり分厚い手紙だった。ばくは中身をひつばりだして、最初から読みはじめた。
とだけのために、なんども往復するのがばくの誰にも内緒の道楽なのである。 制限六十キロの道を、あえてそれ以上のスピードでとばすこともせずに、ただトコトコと のんびりいったり来たりしてすごす真夜中の時間、他人から見ればガソリンと体力の浪費に すぎない、そんな時間がばくには大切なのだ。 どういうわけでそんな物好きな走り方をしてるのか、自分でもよくわからない。ただ、そ うしていると気持がおちついてきて、いろんなことを考えたり、感じたりするのが楽しくな ってくる。その感じをあじわいたいばかりに、日曜の夜は、かならすここを何時間も走って し、台風がきたり、おそろしく冷えこんだりする夜 いるのだ。雨の晩はまたそれなりにいい も、それはそれでまた楽しかった。医者のくせに排気ガスをまき散らすなんて、と、いつも あの小らしい院長の娘、高見沢ナッキに皮肉を言われるのだが、それでもこの自動車道の 両側にどこまでも続く京浜工業地帯の不気味な夜景を眺めていると、オートバイ一台ぐらい なんだ、という気分になってくる。 ばくはゆっくりと。フレーキをかけ、左側の退避コーナーにをとめた。 黒い溶鉱炉の影がふたっ並んで、この一帯にどこまでも続くエ場群の指令塔のように見え る。海のほうに赤い動物の舌のような焔をふきあげている煙突が何本かあり、空が赤くそま っていた。右手の石油コンビナート群はそれと対照的に冷たく白い灯火につつまれて、ちょ 貴っと死者の都市といった感じだ。 兄 ときどき、深夜の二時か三時ごろ、溶鉱炉から二筋の真赤な火の河が流れだすことがあっ た。夜の中にその赤いどろどろした鉄の流れがあふれだすのを見ていると、この一帯が一匹 ほのお