好き - みる会図書館


検索対象: 凍河 下
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1. 凍河 下

「ちきしよう ! 馬鹿にしやがって」 と、彼は言った。 「あんたたち、あんまりすかすんじゃないよ。おれたちは、今夜あたまにきてるんだ。あん まりひとを馬鹿にした目つきなんかすると、ぶっ飛ばすぜ」 ばくは黙っていた。すると、三人組の中の一番若い少年が、真ん中の席から手を伸ばして、 阿里葉子のグラスにビールを注いだ。まだウイスキーが残っていたところへ、ビールをごば ごばと注ぎ込んだのだ。 「さあ、おねえさん、飲んでくれよ。ほんの気持だけだけどさ」 阿里葉子は、一瞬、ちら、と、彼らのほうを見たが、それからばくを見つめ、黙って、そ のウイスキーとビールのカクテルを口に運んだ。 , 彼女はひとロ飲んで、唇を拭き、グラスを テープルの上に置いた。 「もっと飲めよ。まだ残ってるぜ」 Ⅱと、少年が言った。阿里葉子はもうひとロ飲んだ。 紙「全部あけちゃいなよ、え」 のと、プーツの青年が言った。 貴「あんまりむちゃなすすめ方をするなよ」 と、ばくが一一 = ロった。 「おたくには関係ないだろ」 つ ) 。

2. 凍河 下

希望していると判ったんでね」 「ふーん」 あんなにはっきり一一 = ロわれると、やはりショックだっ 「いや、それも判っていた事さ。だが、 た。中にはわたしたちの仕事に共鳴してくれる人もいるが、大半の付近の住民は心の中で、 できることなら精神病院なんか、この町にないほうがいいと考えているんだろう。オンポロ ーマーケットやモダーン 精神病院のかわりに、洒落たマンションでも建てば、そしてスー なオフィスが建ち並べば、この辺の土地の値段もうんと上がるし、いろいろ町の発展にもっ ながると、そういうわけだな。はっきり言われて、わたしも決心がついたよ」 「この病院を売って、どこかへ移転するんですか」 「そうするつもりだカ 。 : はたしてどんな所へかわりの場所が見つかるか : : : ね」 ショッ。フは、 ) , っ 「駅前でやってらっしやるフラワー 「あれはもともと借りてやってる商売だしね」 「ばくはど , っしたらいいと思われますか」 とこかへ行くんだ」 「阿里くんと一緒に、、、 高見沢氏は、意外なほど強い口調で言った。彼はばくの肩に両手をかけて、うなすきなが ら一一一一口った。 「あの人をよろしく頼む。彼女にはきみが必要だ。あの人のやさしさを守ってあげる人間が、 いっかは出てくると思ってたけど、きみなら安心だ」 「ちがいますね」

3. 凍河 下

180 〈おれだって、その気になればーー・〉 と、ばくは自分に = = ロいきかせた。 〈阿里葉子と二人で病院をとび出し、新しい生活をはじめることだって出来るのだ〉 ナッキの行為が、ばくをはげますなんて、おかしな話だ。だが奇妙なことに、ばくはあの 世間知らすの小娘が、本当に家出したまま、思いっきり体当りで自分をめちやめちゃにして しまいかねない旅を続けていってほしいような気分になっていたのである。 〈命さえなくさなければ、人間なんて何をしたってかまうもんか〉 ナッキがソープランドの売れっ子ナンバーワンになっても、それが彼女を堕落させること だなどとは、ばくは全然おもわなかった。むしろ拍手して応援してやりたいくらいのものな のだ。 素直に高校を卒業して、まともに進学して、なんとなく卒業して、どこかのになって、 そして平凡な結婚をして、子供をつくって、それでナッキという娘が充実した一生を送った、 というふうに考えられるだろうか。せめてあの子ぐらいは、人とちがった生き方をためして みるのも悪くはないだろう。 ばくはそんなことを考えながら、墓地を順々に点検して回った。そのうち、恐ろしさも感 じなくなった。どこか遠くのほうで、かすかなロックの音楽がきこえた。 〈墓地にはロックがよく似八ロ , っ〉 などと、ばくはくだらないことを心の中でつぶやきながら、歩いていった。そのうち、や っと高見沢家の墓所が見つかった。

4. 凍河 下

「そういう意味じゃないのよ」 阿里葉子は首をふって、ばくが握りしめている彼女の掌を、そっと引っ込めた。 「竜野さんて可愛いわ」 「それが患者が医者に言うせりふか」 ばくは目を三角にして彼女をにらみつけてみせた。だが、彼女はちょっと色つばい目つき で微笑しただけだった。 そのとき、ドアが荒つばくあいて、三人の客が入ってきた。 ジーンズをはいて、革のジャンバーを着た、威勢のいし 、若い連中だった。 さっきから表で、オートバイの音がしていたのは、きっと、連中が車を止めるときに、エ ンジンをふかしていたのだろう。三人とも、この店ではあまり見かけない顔だった。 マスターは、一瞬、ちょっとけげんそうな顔をして、 「いらっしや、 と、ばくらのほうを、ちらと見ながら、三人の客に言った。 「何だい。やけにシケてるな、この店」 紙と、三人組の一人が言った。髪をリーゼントふうになでつけ、革のプーツをはいた、ニキ のビだらけの青年だった。 貴「アベックがひと組か。よう ! おれたちもその辺に坐っていいかい ? 」 ばくは黙って、テープルの上のグラスを少し引き寄せた。カウンターがあいているのに、 何もわざわざ、ばくらのそばに坐ることはないのだ。それにもかかわらず、その三人組は、

5. 凍河 下

兄貴への手紙Ⅱ ばくは、その晩、ナッキの部屋から帰って、しばらく眠れずにいた。 ウイスキーを飲んでみたが同じことだった。。 とうやらばくはナッキの話を聞いて、すっか り混乱してしまっていたらしい ナッキの話は本当だろうか、と、ばくはポンヤリした頭で考えた。あの温厚でいかにも誠 実そうな高見沢院長が、戦争中、関東軍の細菌戦略部隊ではたらいていたとは , そのナッキの話が本当かどうかは、ばくにはわからない。 しかし、全くのつくり話ではな さそうだった。ばくは頭の中で、軍服を着、中国人の捕虜や囚人たちを、人体実験の材料に 使って研究を進めている、若い青年医師の姿を思い描いた。 だがそれは、あの小柄でいかにもパッとしない高見沢院長の、好人物そうな表清とは、ど うしてもむすびつかなかった。 紙 手ばくは、ふと、高見沢院長からきいた話を思いだした。無断で病棟をぬけだしたアル中の 貴患者さんが、人質を閉じこめて山小屋に立てこもったときの話だ。そのとき、高見沢院長は 兄 命がけで、ナタを構えた男の前にうしろむきに立ったという。 ばくはその話を聞いたとき、ある種のコンプレックスにおそわれたものだった。とても自

6. 凍河 下

は、人間が人間と闘って生きてゆくという大原則によって成り立っているものなんですね。 憎悪はもちろん、愛という心の動きさえも、ある意味では一つの闘いなのです。つまり、緊 張を失ったら、そこには人間のつながりというものは存在しません。自己本位の愛も、自己 犠牲の愛も、いずれにしても強い人間的な心の闘いと、緊張の関係ではないでしようか。友 情や、奉仕もひとつの闘いです。生きるということのすべてが、そんなふうな条件を背おっ ているんです。しかし、もし、そういった闘って生きることや、緊張した人間関係が苦手な 少数の人々がいたとしたら、その人はどうなります ? 」 兄貴は、阿里葉子の顔をじっとみつめた。 「そんな、いの弱い、 しや、優しい人間は、。 とうすればいいんですか」 と、兄貴はくり返した。阿里葉子は、目を伏せて、しばらく何も答えなかった。それから、 白い指先で、自分の膝頭をくり返し押すようなしぐさをした。 「努さんのお兄さんはどういうタイプでいらしたんですの ? 」 と、阿里葉子が目をあげて言った。兄貴は一瞬、虚をつかれたように目を丸くし、やがて 苦笑しながら喋りだした。 「わたしは闘うほうの人間でした。それも大変に能力のあるね。と一一 = ロうことは、、 しつも闘え ば勝っ側に回ってしまう人間だということですが」 「それが と、阿里葉子は小さくうなずいて、後の言葉をのみこんだ。兄貴はうなずいた。ばくも兄 貴の言わんとするところは、わかったような気がした。

7. 凍河 下

た。さし当ってそれ位しか当てはなかった。ナッキはたぶん、家出をするに当って武田とい と思ったのだ。もしかして、 う死んだアル中患者のことを強く意識しているにちがいない、 その武田氏の墓のようなものがこの近所にあったとすれば、彼女はその旅立ちに当って、そ こへ立ち寄っていくんじゃなかろうかと考えたのである。 それは全く何の裏づけもない推理だった。だ ほかにどこを探せ、ま、 と、うのだ。ば くは、しばらくぶりでオートバイのエンジンを始動させ、院長宅から外へ走り出た。 〈ーー彼は、と、院長は言ったな〉 その武田某氏を、高見沢氏が〈彼〉と呼んだことをばくは思いだした。 〈やはりナッキの言った通り、古い仲間だったらしい〉 とすれば、彼女の話も、まんざらフィクションでもなさそうだ。ばくはあたりを警戒しな がら、少しスピードをあげた。ひさしぶりに走るので、スムーズにマシンをあやつれるよう になるまで、ちょっと時間がかカった しばらく走って、ばくは教えてもらった目標を発見した。 C 寺はすぐにわかった。こちん まりした目立たない寺である。裏手が墓地になっているらしく、木立ちが暗い影をつくって ばくはオートバイを、そのお寺の裏口のわきにとめた。そして、それほど高くない柵を乗 りこえて、墓地の中へはいっていった。 墓石が白くうかびあがっていて気味がわるかった。 〈どうして日本のお墓はこんなに陰気なのだろう〉

8. 凍河 下

て、指し示されているようで、そしてたまらなくなって、そのために彼女の存在そのものを、 むしろ暴力的に犯してしまいたくなるんだ。ばくは、今ようやくわかった つまり、単 なる素朴なセックスの欲望ということだけではなくって、ばくらの心の中にある見たくない まっさっ ものを彼女が見せてくれる。そのために彼女の存在そのものを抹殺したいという、そういう 動きが性的衝動の形で表われてくる。ばくは、今まで、彼女に欲望を抱くたびに自分を責め 続けてきたが、今はすこし心が軽くなったような気がするんだ。竜野くんがそこで、〈結婚〉 という一一 = ロ葉をもちだした時、やはりばくは大きなショックを受けた。きみはばくと違って、 ばくらの闘う人間の側から、逆に、犯される側の人間の立場に手をつなごうとしているんだ からね」 高橋医師は思いがけす雄弁に喋りつづけた。 しんし その話し方は、すこし、熱にうかされたようでもあり、また、とても真摯な告白のようで もあった。 ばくは高橋医師の言っていることが全部わかったわけではなかったが、何となく彼が考え ていることが理解できるような気もした。 それは、自分の心の中にあるものをやわらかい光で照らされるような感じをばくにあたえ 海たのだ。 と 感〈そうなんだーー、ー、〉 と、ばくは田 5 った。 〈ばくは、今、社会的人間のグループの中で、ごく少数の負の部分を背負ったものの側に仲

9. 凍河 下

むしろ、そういう生き方に対して、どこか嫌悪の気持を持ちながら、しかし、社会生活を続 けてゆく上には、しかたなしにそういう競争に参加しているような感じがしていたのだ。 だからばくが、あの阿里葉子という娘に惹かれた心の奥には、ただ、男が魅力的な女に惹 かれる、というだけのことではない、 もっと不思議な、同類意識があったのではなかろうか 彼女のほうでも無意識のうちにばくのそういうところを感じとっていてくれそうな気がす る。それはばくのひとりよがりだったかもしれない。だが、そうとでも言わなければ、この、 しばらくのあいだのばくの心理状態は説明のしようがなかった。 そして、人間が知りあって、そしてその人間と結婚を考えるまでのプロセスが、あまりに とっぴ も飛躍し、あまりにも突飛で、そして、あまりにも喜劇的であることは、こんなふうにでも 考えなければ、ばく自身、納得のゆかないところなのだ。 ばくと高橋医師はしばらく黙って向きあっていた。 やがて、高橋医師がばつんと言った。 「あの娘はやはり魔女なのかもしれないな 「魔女ですって ? 」 「うん。しかし、それはわれわれに不幸をもたらす存在と言うのではなくって、人間が社会 生活を営んでゆく上で必要悪として背負わなければならない、い ろんなものの翳を人よりく 感つきりとしよい込んでいるという意味で そういう意味での表現です。正直言って、こ れは恥かしいことだがばくは彼女を見るたびに、強く、男としての欲望をそそられます。何 か自分の体の中の狂暴なものが目覚めて、いきなりカずくで彼女を押し倒し、彼女を犯して

10. 凍河 下

219 夏の旅 代ってフラワー ショップで働いていた。そっちのほうが暇な時には、病院へやって来て患 者さんの世話をしたり、事務長の仕事を手伝ったりしていた。院長夫人の話では、彼女はな ぜか大学に進学することをやめたと一一 = ロうことだった。 高校を卒業したら、病院の仕事を手伝うと言いだしたのだそうである。院長夫妻はナッキ しかし、それに反対はしなかったのだろう。ばく の突然の申し出にかなり驚いたらしい ナッキに、そのことを聞くと、彼女は一一 = ロ葉少なに勉強は大学に行かなくても出来ますから、 と答えたのだ。父親に代って不幸になることを選ぶかわりに、ナッキは別の道を発見したの かも知れない。い ずれにせよ、彼女ははたの人間が心配するほどひたむきに頑張っていた。 何かを思いつめているような働きぶりだった。 だが頑張っていたのは彼女だけではなかった。ばくもようやく唐木女史の助けを借りずに 患者さんたちに接することが出来るようになっていた。ばくはばくなりに努力したつもりだ った。麻雀もオートバイも何となく関心がなくなって、ほとんどの時間をばくは病院内で過 していた。暇な時には病院のテニスコートの手入れをしたり、患者さんと卓球をやったり、 看護婦たちの音楽サークルに加わってギターを弾いたりもした。 阿里葉子はそんなばくに対して、やや距離をおいて何となくよそよそしく振舞っていた。 彼女とばくとのことは、既に病院中の話題になっており、時どきそのことでからかわれたり 冷やかされたりするらしかった。 「竜野さんは阿里葉子さんに振られたんですか」 などとくすくす笑いながらばくに聞く看護婦もいた。