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検索対象: 凍河 下
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1. 凍河 下

唐木女史は一一 = ロ葉を切った。そして、重い口調で言った。 「もし、そうだとすれば、阿里さんは逃げた男とおんなじことね。迷信に負けて、迷信にお びえて、逃げた男を軽べっするだけではすますに、自分がその迷信を背負った人間だ、とい うことで、恐しく打ちのめされたとすればね」 「そんな言い方ってあるもんか」 ばくは唐木女史の憎たらしい言い方に腹を立てた。 「まあ、その辺で議論はよしましよう」 唐木女史は煙草を灰皿に押しつぶして、立ちあがった。 「これからさきは、あなたが直接、阿里さんから話を聞くといいわ。要するに、彼女が失恋 した理由は、彼女が現代に生きている迷信や偏見の影を背負ったひとだ、ということよ。あ たしたちは迷信や偏見から自由になっているつもりでいて、きっと、まだまだ心のどこかを、 それによって縛られているんだわ。だけど、あたしはやつばり、その男の母親も、その青年 も許せないの。本当に愛してたら、そんな迷信を踏みこえてゆけるんじゃあなくって ? そ れが愛ってものじゃないの ? でなければ、〈愛〉なんて一一一口葉、この世の中に必要ではない んじゃない 紙 手 竜野くん、あなたは自分自身で彼女とそのことについて話し合ってみる必要があるわ。そ の 貴して、そのことで、あなたの気持が一ミリでも違わなかったとすれば、あなたは本当に、阿 兄 里さんを愛しているのよ。そうなったら、あたしも考えるわ。あたしは前から、阿里葉子さ んは病院を出て、社会で生きてゆくべきだと、主張しつづけてきている人間ですからね。で

2. 凍河 下

日本の陸軍省は、太平洋戦争の戦局が悪化してくると、七三一部隊で研究開発した細菌兵 器の増産命令を出したが、間にあわなかった。戦後、これに強い関心をもったアメリカ軍は、 この七三一部隊の関係者を起用して細菌戦の研究を続け、その一部は朝鮮戦争に使用された といわれている。アメリカではこれを生物戦部隊とスマートに呼んでいるらしい ばくはこれまで、漠然とそういう話を耳にして、戦争というものは凄いことをやるもんだ な、とちょっと恐しくなったりしたことがあるだけだった。 しかし、ナッキの話はそんな悪夢のような話を、遠い昔の伝説としてではなく、ひどくな まなましい現実としてばくの前につきつけたのだ。 しかし、ばくはまだ夢を見ているような気分でいた。 あの高見沢院長の実直そうで誠実そのものの人柄と、恐しい人体実験とは、とうてい結び つきようがない。 これはやはり妄想へきのある少女の、フィクションではなかろうか、と、 ばくは思った。 そんなばくの心情を敏感に見てとって、ナッキは唇をかみしめながら顔をそむけた。 「いまの話だけど しやペ と、ばくはおずおすと喋りだした。 「関東軍の細菌戦略部隊が実在したことは、ばくも知っている。でも、その武田さんとかい うアル中の患者さんの話というのは、はたして信用できるのかなあ」 「武田さんがアル中患者だから信用できないというのね。わかったわ。ットムくんの心の中 には、患者さんたちに対する根本的な不信感があるんだわ。そうじゃない」 すご

3. 凍河 下

いとっとめていた。 「ともかくそんなところに父と武田さんはいたの。青年医師としてね。身分は研究員とか、 そんなものだったらしいけど」 「ばくもその辺のことに関していえば、先輩にすこし聞いたことがある。関東軍の七三一部 隊といえば、いわゆる細菌戦略部隊としていろいろ話題になったからね。しかし、院長は本 当にその部隊にいたんだろうか」 ばくは腕組みして考えこんだ。 関東軍といえば、日本の敗戦まで中国東北地区、すなわち旧満州にあって " 泣く子も黙る 関東軍〃といわれたという話を昔なにかの本で読んだことがある。 七三一部隊というのは、昭和十一年に日本陸軍が編成した細菌兵器研究開発のための医学 部隊だと先輩に聞いていた。表むきは関東軍の各部隊に対する防疫と給水が主な任務となっ ていたらしい だが実際には、中国人の捕虜や労働者、住民などに対して、ベスト菌その他の細菌の人体 感染実験がおこなわれたのだそうである。この部隊には、日本でもトップクラスの細菌学者 の指導をうける技術者、研究員などが多数参加していた。その数は約三千名といわれている。 で この部隊で行われた実験は、ただ細菌の感染実験だけではなかったようだ。はっきりはお の 霧 とばえていないナど、。 レカス壊疽菌の爆弾による実験や毒薬実験、また人体冷凍実験や高空での 夜 人体耐久力の研究などもやったらしい 。もちろん生きた人間を材料にしての人体実験である。 飛行機から中国人居住区に細菌を投下するような実験もたびたび行われている。

4. 凍河 下

136 ふだんはとても元気なひとで、朝から夜おそくまで、いつも皆を元気づけるような生き生 きした表情をくすさない人物ですが、なにか病院の問題で困ったことでもあるのでしよう。 そもそも、この和親会病院というのは、薬をできるだけ使わない方針でやっている病院な パーなど - も、ロ不 ので、経営的には成り立つわけはないのです。よく顔を出す製薬会社のプロ れ返って、最近では商売気ぬきで雑談だけにやってくる始末です。 変ってますな、ここは、と、そのプロバー氏は言います。彼としては本来ならもっと薬を 沢山使用するようにハッパをかけたいところなんでしようが、もはやその気もなくなり、今 ではむしろ院長のやり方にある共鳴をおばえているような具合なのです。 実は、そのプロバー氏から聞いたのですが、和親会病院の経営状態は、どうやら来るとこ ろまで来てしまっているらしいのです。そしてそれを切り抜ける道は、この住宅地に近い病 院を不動産会社に売りはらって、もっと地価の安いへんびな場所へ移転することしかないと いうのです。 院長が悩んでいるのは、たぶんそのことでしよう。もしもそんな田舎に引っ込んでしまう と、院外作業に出ている患者さんたちの仕事もできなくなりますし、ますます社会からかけ 離れた孤立状態におかれることになるのです。 この病院にわりと好意的な町会長の考えかたも、患者のためには美しい空気と恵まれた自 然が必要だ、こんな市街地に病院をおくより山間の静かな場所に理想郷をつくったほうがい という意見で、院長にしきりと移転をすすめているようです。しかし実際には、精神病 院を遠い美しい過疎村にでもおこうという考え方には、どこか臭いものにはふた、といった