病院の中の喫茶店というと、不思議に思えるかもしれないが、これは、患者さんのひとり が経営している、れつきとした喫茶店なのである。 病院の廊下の一部につい立てをたて、そこに木のべンチや机をならべて、コーヒー ナーをやりたいという申し出が、患者さんのひとりからあったのだ。 唐木女史はそれに反対しなかった。そして、和親会病院に喫茶店〈アカプルコ〉が誕生し たのである。 喫茶店といっても、べつに、これといった設備はなにもない。ただ、電熱器にやかんがか けてあり、そこで紅茶やコーラを出したり、サイフォンでコーヒーを沸かして、訪れてくる 患者さんのお客に出すだけである。一杯五十円というのがコーヒーの値段だった。はたして それで採算がとれるのかどうかわからないが、すくなくとも、喫茶店〈アカプルコ〉は、一 日十人以上のお客さんが入っているらしい そのコーヒー・コーナーをやりだした朝田さんという患者さんは、コーヒー茶わんを洗っ たり、サイフォンでコーヒーを沸かしたりすることが楽しくてしかたがないらしかった。 客がまったくないときなど、朝田さんはばんやりして廊下をながめている。そして、誰か が通りかかると、 「おい、コーヒー飲んでいけや」 と、呼びかけるのである。 「お金がないもの」 などと、若い女の患者さんが答えると、
8 「でも、竜野さん、あたしはそんなふうに思われる資格がない女なんです」 それは」 「ど , つい , っ亠忌・味・だ 彼女は黙って答えなかった。ばくが何か話しかけようとすると、朝田さんがうやうやしく コーヒーのカップを捧げて持って来た。 「これは傑作です」 と、彼は一一 = ロった。 ゝよ、りました。ひとつ、ゆっくりあじわってください」 「会心のコーヒーが。し 「朝田さんは、昔、喫茶店でもやっていたのかい ? 」 と、ばくはたずねた。 「喫茶店という言い方はいやですね」 と、朝田さんは、ばくと阿里葉子のとなりに坐りこんで、言った。 。わたしはコーヒー店を二十年やってきた 「コーヒー店と一言ってください。そのほうがいし のです。うるさいお客さんがよくかよってくる店で、その日その日の気分で、いろんなコー ヒーをいろんないれ方で飲むという、そういう店でした」 ばくは朝田さんのいれてくれたコーヒーをひとロすすった。たしかに美味いコーヒーだっ た。これでこの値段では赤字になるのがあたりまえだろう。 「どうです ? 」 と、朝田さんは、い配そうに、ばくの顔をうかがって、聞いた。
「ま、金はええからーー・」 と、ひとのよさそうな笑顔をみせて、アルコール・ランプに火をつけるのだ。 そんなふうだったから、喫茶店〈アカプルコ〉が、月々、黒字どころか、赤字を出してい ることは確実だった。 力ならずしも、ますくはないので、ばくは一日に一ペんはそ 朝田さんの出すコーヒーは、ゝ こでコーヒーを飲むことにしていた。 たまたまその日、そこを通りかかったら、阿里葉子がひとりでばんやりと、コーヒーの茶 わんを前にして坐っているのを見かけたのである。 「阿里さん」 と、ばくは彼女に呼びかけた。 「ここに坐っても、 「ど , っぞ」 と、阿里葉子はばくを見て、小声で答えた。 ばくは朝田さんにコーヒーを頼んだ。そして、煙草に火をつけた。通りかかった女の患者 ばノ、は」刄に さんのひとりが、意味ありげな微笑をうかべて、小走りにかけだしていったが、 紙 事 / 、カ子 / の へ 「ごめいわくじゃありませんの ? 」 貴 兄 と、阿里葉子が目を伏せたままばくに一一 = ロった。 「なにが ? 」
と、ばくは答えた。 「こんなに美味いコーヒー ここの所、飲んだことがないよ」 「そうですか」 と、朝田さんは、ホッとため息をついた。それから、席を立っとつぶやくように、 「どうもこの所、うまいコーヒーがたてられないんです。そろそろまた、ぐあいが悪くなっ てきたような感じがしましてねえ」 「。こいじようぶだよ。気にすることはないよ」 ばくは、肩を落した朝田さんのうしろ姿に声をかけた。だが、最近、なんとなく朝田さん が元気がなくなってきていることは、ばくも気づいていた。 朝田さんがうつ状態になると、喫茶店〈アカプルコ〉は〈本日閉店〉の札がさがるのであ る。 「ところで、きみのほ , つはど , っ ? 」 と、ばくは阿里葉子にたすねた。 と、阿里葉子はうなすいて、 紙 手「あたしはいつもこうなんです」 貴彼女は、ばくがテープルの上に落した煙草の灰を、指でそっとぬぐった。 兄 「さっきの話のつづきだけれどーー」 と、ばくは一一 = ロった。
それから近くのビルの八階にある静かな喫茶店にいき、そこでコーヒーを飲んだ。前に先 輩につれられて来たことのある場所である。 阿里葉子はなんとなくおどおどした感じがあったが、やがて、それはすこしすっ消えてい った。彼女は病院にいるときとはまったく違った感じで生き生きした表清を見せた。 ばくらはコーヒーを飲み終えてその店を出ると、数奇屋橋の通りを新橋の方角へ歩いてい 交差点の角にある大きなビルの前に花壇ができていて、その花壇にこばれるように花が咲 していた。 「わあ、きれい ! 」 と、阿里葉子はいつになくはしゃいだ声で言った。 「こんな町の真ん中にあんなに花がーー」 「あれも商業主義の一策さ」 「でも、きれいなものはきれいだわ」 そんなふうに阿里葉子がさからうことはめったにないことだった。ばくはなんとなく嬉し くなって、阿里葉子の腕を自分の左腕でかかえ込んだ。 「心かしいわ」 と、彼女は言った。 「、かしいことなんかあるもんか」 ばくは強引に彼女と腕を組んだまま、電通通りを新橋の方へ向けて歩いていった。 つつ ) 0
はひろいあげた。そしてポケットからポールペンと、便箋をとりだした。 〈その麦、 彳しカかですか ? 〉 と、ばくは便箋の一行目に書いてみて、うんざりした気分でその紙をやぶりすてた。 その後もくそもないもんだ。兄貴はばくなんかが心配しなくたって、ちゃんと立派にやっ ているんだし、ばくだってそんなに北海道のことを気遣っているわけでもない。 ばくは少し考えて、 〈こっちは元気です〉 と、書、 したたが、なんとなく今の気持にふさわしくないような気がして、その文句を棒 でけした。 〈一昨日、患者さんのひとりが死にました〉 これならいい 。ばくはわれながら感心するほどへたくそな字で、兄貴への手紙を書きすす めていった。 〈それは朝田さんという男のひとです。以前、コーヒー店をやっていたとかいう温和な人物 で、この病院内でも″アカプルコ〃というコーヒー・コーナーをやっていました。その人物 が突然、自殺したのです。院長も、唐木女史も、ばくにとっても、それはかなり気の滅入る 事件でした。病院中がなんとなく沈んだ気配につつまれています。しかし、それはひょっと すると、この数日間の降りつづいている雨のせいかもしれません。ばくも何だか軽いうつ状 態にとらわれています。 こんなとき、あのきらめくように明るい支笏湖への道をオートバイで飛ばしたら、どんな
「竜野さんとあたしのこと、いろいろ噂になってるみたいですわ」 「そんなことか」 ばくは煙草のけむりを吐きだしながら、わざと、なんでもないような言い方をした。 「言いたい連中には言わせておくさ。べつに、正面切って、そのことで文句言われたことな んかないもの。平気だよ」 阿里葉子は白い指でコーヒー・カップの握りをもてあそびながら、つぶやくように言った。 「でも、蔔 目にいたあのひとはそのことでこの病院に、。 しつらくなったんです」 阿里葉子が〈あのひと〉という言い方をしたことが、 ばくの心に軽い痛みを感じさせた。 〈あのひと〉というのは、たぶん、以前この病院に勤めていて、阿里葉子とのあいだに何か があったと噂された若い医者のことだろう。ばくは彼女の言葉に反発するように言った。 「だって、医者と患者が恋愛したって、べつに、そのことでクビにするわナこま、 ろう。もっとも、ばくときみのあいだは恋愛とは言えないものかもしれないけれども 阿里葉子は目をそらせて窓の外をながめた。 店主の朝田さんは、一生懸命、サイフォンをにらんで、うまいコーヒーをいれるために夢 中になっている。 ばくは阿里葉子の横顔に、ちょっと名状しがたい、さびしさの翳のようなものを感じた。 〈なんとかできないのだろうか〉 と、ばくは胸の中から熱いものがこみあげてくるような気持になった。 このひとのためになにかをしてあげたい、などというのは甘っちょろい感傷にすぎない
かっていたし、唐木女史も、院長も、それなりに注意はしていたはずだったのである。 だが、朝田さんは、思いがけない形で死んでしまったのだ。発見した看護士の石金さんの 話では、最初、てつきり殺人事件たと思って、警察にもそんなふうに連絡したという。 朝田さんは、頭のうしろに太い釘を打ちこんで死んでいたらしい。自分でそんなことがで きるわけがないので、誰かに殺されたと判断したのだが、後で警察もまじえての慎重な検証 の結果、やはり自殺だったことがはっきりしたのだ。 朝田さんは自分の手で後頭部に釘をあてがっておき、エビがはねるみたいにコンクリート の壁に頭を叩きつけたのである。 唐木女史はその説明を石金さんから聞いたとき、気分が悪くなったらしく、小走りに洗面 尸し駆けこんでいった。それは無理もなかった。ばくでさえ、一瞬、めまいに似た気分をあ じわったほどだったから。 ばくには、朝田さんが一体どんな苦しみを生きていたかが、わからなかった。それは医者 だって同じことだ。他人の心の中をのそき見たり推察したりすることはできても、それを一 緒に背おいあうことはできはしな、 コーヒー ・コーナー〈アカプルコ〉は、明日になれば片付けられるだろう。あれほどうま 決 いコーヒーをいれることに熱中していた朝田さんの生きていたしるしは、単なる記憶だけに 感なってしま , つ。 そしてその記憶も、やがては薄れてゆき、一冊のカルテが残されるだけだ。そのカルテも、 月日がたてば処分されてなくなってしまう。〈本日閉店〉の札が床に落ちているのを、ばく
132 予感と決心 雨が降っている。 霧のような、こまかい雨だった。窓の外にアジサイの青黒い茂みが、風もないのに生きも ののように揺れている。なにか異様なものを感じさせる揺れかただった。 だれかが片付けるのを忘れたのだろう、テニスコートに汚れたネットがぐったりと疲れた 手のようにたるんだまま雨に濡れている。 ばくは病院の廊下の片隅にある喫茶店〈アカプルコ〉のべンチに腰かけて、さっきからば ひとけ んやり窓の外を眺めていた。〈アカプルコ〉は、がらんとして人気がなかった。 〈本日よりコーヒー十円値上げさせて頂きます。店主〉 と書いたビラが、壁からはがれかかって、たれさがっている。カウンターの中には、アル コールランプやコップなどが、どこか荒涼とした印象で並んでいた。白いクモの巣が、その 上にかかっている。〈アカプルコ〉は、閉店したのだ。〈本日閉店〉の札も、もう必要なくな った。この店をやっていた朝田さんという患者さんは、もう一一度とここへ現れることはない ばくにとっては、はじめての経験だが、朝田さんは一昨日、裏の倉庫で自殺したのだった。 この一週間あまり、うつ状態がこうじてひどく苦しんでいる様子だった。それはばくにもわ
ほとんどどういう人間かも知らずに、、きなり好きになってしまっているらしいオカ それがどんなに唐突でも、嘘ではなかった。ばくは阿里葉子に、いを強く惹かれている。 ばくは大きなため息をついて目を閉じた。 阿里葉子とばくとが、山下公園でキスをしていたという噂は、たちまち、病院のなかにひ ろがっていったようであった。看護婦たちも、べつに、悪意はないのだろうが、やはり、独 身の青年医師と若い女性の患者さんのロマンスめいた噂は、ちょっとしたセンセイションだ ったにちがいない。 しかしべつに、そのことで、いやな思いをしたことはなかった。だが、 廊下ですれちがった看護婦から、意味ありげな微笑とともに、 「先生、阿里さんは、、 しま、庭でバラの手入れをしていますよ」 といった挨拶を受けるのは、かならずしも、気持のいいことではなかった。 しかし、まわりがそんなふうにすればするほど、ばくのアマノジャク精神は、それに逆ら うように働いていく。ばくは自分のほうから、機会があれば、阿里葉子に近づいてゆき、で きるだけフランクに彼女に話しかけるようにしたのである。 阿里葉子も覚悟をきめたのか、かならずしも、ばくを避けるようなようすはなかった。 紙 手 こだ、ばくと話している彼女の表情には、当然のことながら、恋している女のいきいきし の 貴た反応はみられなかった。 兄 ある日、ばくは病院の喫茶店〈アカプルコ〉で、阿里葉子がコーヒーを飲んでいるところ 冖」「逋一りごか、刀子 /