「ええ」 阿里葉子は、一度はちいさく、それから自分に言いきかせるように、二度目は大きくうな すいた。 「あたし、竜野さんのこと、好きです。でも、好きだからって、それがどうしたって言う の ? 竜野さんがあたしに好意をもってくださる、あたしも竜野さんに好意をもってる。で も、だからって、どうなるって一一 = ロうの ? 」 そうきかれると、ばくはたちまち自信がなくなってしまった。お互いに好きな同士が向き 合って、 〈さあ、好きだからどうするんだ〉 と、問いつめられるような、そんな場面は想像もしていなかったのである。 〈ふつう、お互いに愛情を表現しあった男と女は、次にいったい何をするのだろうか。キス ならもうしてる。どこかホテルへでもいくのか。ーー・・そんなばかなことはない〉 ばくは混乱して阿里葉子の顔を見つめた。 「ばくたち、どうすればいいんだろう」 「どうすることもできないのよ」 と、阿里葉子は言った。 「だからあたしは、無駄だって言ったんだわ。あたしのことを好きになってくれたって意味 がないのよ。あたしがあなたを好きだからと言って、どうにもならないのよ。だって、そこ でゆき止って、それから先どうしようもないんだったら、好きだってこと無意味じゃない」
280 ばくは覚悟をきめて、阿里葉子の肩に手をのせた。彼女は目を閉じて、わずかに顔をそら せた。 ばくは彼女の唇にキスをした。ひんやりと冷たい唇だった。 「拍王。 , ・」 と、ナッキが叫んだ。皆は笑いながら手を叩いた。 「これで終りね」 唐木女史が言った。そしてばくの肩をばんと叩くと、 「がんばらなくちゃだめよ」 と、素早くささやいた。 「やります」 「わたしも、いずれは結婚してみせるわ」 「世の中、そう甘くはないですよ」 「言ったわね」 唐木女史はばくをにらんだ。ばくは急に彼女にもキスをしたい気持に駆られた。変な話だ が、本当だから仕方がない。ばくは、彼女のことも好きだったのである。 ばくは皆に送られて病院の玄関を出た。もちろん阿里葉子も一緒だった。 玄関の前には、オートバイがおいてあった。わが愛しのおんばろバイクは、コーラのあき かんかなにかテープでくくりつけられて、ちょっと照れくさそうに立っている。
「あたしを抱くのよ。好きなようにするのよ。あたしの破滅への第一歩は、そこからはじめ なければならないのよ。さあ」 ばくはばかばかしくなって首をふった。するとナッキは、パジャマの上衣をそのままにし て、いきなり下のほうを脱ぎだした。バンテイも一緒に、すっかり脱いでしまったのだ 「なにをするんだ、きみは」 ばくは呆れてその白いきれいな下半身から目をそらせた。 「逃げるのね」 「あたりまえだ」 「なぜよ」 「ばくは子供に興味はないのさ」 ちょっとひどい言いかたたったが、しかたがない。そうでも言わなければ、おさまりがっ かなかっただろう。それとも、こっちのほうもやや混乱していたのだろうか。 突然、ナッキが両手を顔にあてて、子供のように泣きだしたのでばくは仰天した。夜中 にこんな場面で大声で泣かれたのでは大変だ。 よせ」 ばくが、彼女の肩に手をかけると、ナッキはますます大声をあげて涙をこばしながら泣き 叫ぶのである。上だけパジャマを着た少女に、両手で顔をおおって泣きわめかれたのではた まらない。 あき ぎようてん
146 ろう。だが、 ばくは黙っていた。 唐木女史にはそれがひどく頑固に、むくれているように思えたに違いない。 「おこらないでよ、タッノくん」 と、彼女は続けた。 「あたし、ほんとうのこと一言うと、いつも〈結婚〉てことを考えてるのよ。あなたたちから はそうは見えないでしようけど。だから、今、あなたの口から〈あの阿里葉子さんと結婚し たい〉なんて言われると、凄いショックを受けてしまうの。あたしは率直に認めるけど、き っと結婚に凄いあこがれを抱いているんだと思うわ。でも、こんなことを一言うのは、タッノ くん、あなたにだけよ。院長や、高橋さんたちには絶対に内緒にしていてね」 ばくは唐木女史のそんな態度をとても可愛らしいと思った。 きようじん この、堂々たる体驅と、強靱な意志と、そして素晴らしい責任感を持った女性が、心の 中で十七、八の小娘のように結婚を意識し続けあこがれていた、なんて 「ばくはあなたのことが大好きですよ、唐木さん」 と、ばくは言った。それはほんとの気持だった。ばくはこの唐木女史にとても好ましい感 じを持ったし、友人として尊敬できるあたたかいものを感じたのだ。だからそういうふうに 言ってしまったのだった。 すると、意外なことに、唐木女史は、あっけにとられたような目つきでばくをながめ、 「何ですって ? 」 「ばくはあなたを好きだ、と言ったのです」
たのである。 「知ってますよ」 と、僕は答えた。 唐木女史は、しばらく黙っていた。 ばくもそれ以上、なにも言わなかった。しばらくして唐木女史のほうからロをきった。 「あなた、本当に阿里さんのこと、好きなの ? 」 「さあーーーー」 ばくは首をひねった。 「困るわね、そんなことじゃあ」 と、唐木女史は言った。 「看護婦たちがいろいろ噂をしているけど、あたしはそのこと自体には、べつに批判はない わ。医師が患者を好きになっても、患者が医師を好きになっても、そんなことは当然のこと ですもの。ただ、そのために、病院の運営に支障さえ起きなければね」 「ばくのことで何か病院の運営にさしさわりがあるんですか ? 」 と、ばくはたずねた。 「、いえ」 と、唐木女史は首を振った。 「まだ、、 しまの所はあなたたちのことで、病院のヒューマン・リレイションがうまくいかな いとか、秩序が保てないとか、そんなことはないわ。前に、あの阿里葉子さんに夢中になっ
241 夏の旅 阿里葉子は、しばらく首をかしげて考えこんでいたが、やがてめずらしく明るい声で言っ 「あたしが誰の子だかわからない赤ちゃんを身ごもってると知った上で、それでも結婚しょ うって一一 = ロってくださるのね」 「ばくがど , つかしてるよ , つな気がするのかい ? 」 いし ' ん」 「ばくは自分で不思議でしかたがなかったんだ。。 とうしてこんなふうに突然にきみのことを 好きになったりしちまったか、本当に奇妙な気がしてた。しかし、今になってみてようやく 判ってきたみたいだ。ばくはきみのそんな所に惹かれてしまったんだろう、そんなふうに、 あらゆる人間たちを許してしまう不思議な優しさに」 「それだけ ? 「見かけも好きだよ」 と、ばくは一 = ロった。 「でも、もし、他人の赤ちゃんが生まれても不愉快じゃない ? 」 「不愉快なタイプの赤ん坊だったら、そりや不愉快さ。可愛いければ、気に入るだろう。そ んなこと、わからないじゃな、か 「一生のことなのよ」 「ばくも何かひとつぐらい自分の手に持って生きてゆきたいんだ」 「、つ、れしい、わ」
と、ばくは言った。それは嘘じゃなかった。 「あなたは自分が言ってることのほんとうの意味がわかっているの ? 」 と、唐木女史は震える声で言った。 「ついさっきまで、阿里葉子さんと結婚したい、なんて言ってたくせに 「それとこれとは問題が別ですよ」 と、ばくはドてて弁解した。 唐木女史は何か誤解をしているのだ。結婚の話をしていてばうっとなっていたために、ば くが〈好きだ〉と言った一言葉を求愛の意味にでもとったのだろうか。とすれば、とんでもな 、間、、だ。 唐木女史の顔を見ていると、ばくのほうが変になってきた。頭が混乱してきた。ひょっと すると、ばくがほんとうに好きなのは阿里葉子ではなくて、この唐木女史なのではなかろう 「何だか変な気持になってきました。この話はもう打ち切りましよう」 と、ば / 、は一一一口った。 「今さら無責任じゃないの」 海唐木女史はばくを指さして大きな声で言った。 感「何が無責任なんですか ? 」 「だって、そ , つじゃよ、 ちょうど折よくか、折あしくかそこに高橋医師が通りかかって、ばくと唐木女史が、お互 丿ルわ
「話は聞いただろう」 「でも 彼女はちょっとロごもると、 しいわ。じゃあ第二の質問。ットムくんは本気であのひとを愛してしまったの ? 」 「わからない」 「ずるいわ、そんな答」 「だってそうだもの、仕方がないさ。彼女のことを好きになってることは間違いないんだ。 でも、本当に愛してるのかと言われると、よくわからない。大体、これまで遊び半分の恋愛 は何度もしたけど、本当に女のひとを愛したという経験がないんだよ。だから、今の自分の 気持がこうだと、はっきり自分でつかめてないのさ」 「何度も恋愛ごっこをしたの ? フケッね」 「阿里さんを見てると、なんだか黙ってそばにいて、いつまでも肩を抱いていてあげたいよ うな気持に自然となってくるんだ。もっとも向こうがいやと一言わなければの話だけど」 「あのひとは絶対に逆らわないひとよ」 ナッキは目をほそくして、ばくの顔をみつめた。 紙 手「ツトムくん、この病院にやってきてまだそんなに日もたってないし、阿里さんとも深くっ キ きあってるわけじゃないのに、。 とうしてそんな気持になってしまったんですか」 ナ 「わからない。でも、長くつきあう必要はないだろ、人を好きになるためには」 「ええ、最初にひと目みて、なにかパッとひらめくこともあるでしようね。それはわかる
「ここまでくれば、なんだって平気ですよ」 「ここまでくれば、とい , つのはど , っ亠思・味・ ? 」 「いろいろとね」 ばくは実際、自分のしていることがとても自然なことのようにも思われる反面、不思議で ならないところもあった。そうではないか。他人の子供を生むことになっている娘と結婚す る、というのも、かなり変ったことではある。 しかし、もっと不思議なことは、ばくにとってそんな常識的なさまざまな問題が、ほとん ど気にならないという点だった。 〈それがどうした〉 と、いう感じなのだ。 , 彼女が誰の子供を生もうと、そんなことは知ったことじゃな、。 ( ま くは彼女が好きなのだし、その好きな女の人の生む子供を、それほど毛嫌いすることもない はすだ。後から出てくるだろう問題は、後で解決すればいいではないか。 ばくは窓の外の空を眺めた。まっ白な積乱雲が、夏空にいやらしいほど精力的に盛りあが っている。 内庭のひまわりの花が、金色に燃えていた。くつきりとして、鮮かな風景だった。 ばくはそんな外の景色を眺めながら、ばくたちの生きている時代というものを考えた。 高見沢院長が、青年医師として眺めた大陸の風景は、果してどんなものだったのだろうか。 彼が若い頃に見た自然と、今、小柄な老人として眺める外の様子と、どんなふうに違うの だろう。そこにはただ人の一生、といって済ますわけには、かよい、何かがある。
「そんなこと、思ったこともないわ」 ばくはグラスをあげて、乾杯、と呟いた。彼女はたしかに、ばくのことを好きだと言った のだ。 「あたしのことを、竜野さんみたいにわかってくれた人は、これまでいないでしようね」 阿里葉子は、じっとグラスの底をみつめながら独り言のように言った。 「あたしの病気は、本当は病気っていうんじゃないわ。自分でもよくわかってるの。病気だ った時期も、たしかにあったのよ。それは事実だわ。そして入院して、それから退院して、 また再入院して、今は前とちがったかたちの心の状態で和親会病院にお世話になってるんだ わ。それを病気って言えば、そうかもしれない。世間とちがった感じ方や、考え方をする人 間をそういうのならね。でも、あたしは本当は自分が病気だなんて思ってはいないの。ただ、 世間や、人間の生き方に適合できないだけよ。できないというより、したくないの。つまり 「つまり、君は病気なんかじゃなくって、思想が他とことなってるだけなんだ」 「そうも言えるかもしれない」 と、阿里葉子は考えぶかそうな表情でうなすいた。とても素敵な横顔だった。ばくは、ま すます彼女のことが好きになったような気がした。ばくは喋りだした。 「つまり、きみは闘って生きることがいやなんだな。他人を押しのけて前へ出る生き方、強 い者が弱い者をしたがえて生きる社会、すぐれた人間が劣った人間を踏み台にして生きるよ うな、生存競争といわれる世界のあり方に反対なだけだ。そうだろう ? 」