「そんなこと、思ったこともないわ」 ばくはグラスをあげて、乾杯、と呟いた。彼女はたしかに、ばくのことを好きだと言った のだ。 「あたしのことを、竜野さんみたいにわかってくれた人は、これまでいないでしようね」 阿里葉子は、じっとグラスの底をみつめながら独り言のように言った。 「あたしの病気は、本当は病気っていうんじゃないわ。自分でもよくわかってるの。病気だ った時期も、たしかにあったのよ。それは事実だわ。そして入院して、それから退院して、 また再入院して、今は前とちがったかたちの心の状態で和親会病院にお世話になってるんだ わ。それを病気って言えば、そうかもしれない。世間とちがった感じ方や、考え方をする人 間をそういうのならね。でも、あたしは本当は自分が病気だなんて思ってはいないの。ただ、 世間や、人間の生き方に適合できないだけよ。できないというより、したくないの。つまり 「つまり、君は病気なんかじゃなくって、思想が他とことなってるだけなんだ」 「そうも言えるかもしれない」 と、阿里葉子は考えぶかそうな表情でうなすいた。とても素敵な横顔だった。ばくは、ま すます彼女のことが好きになったような気がした。ばくは喋りだした。 「つまり、きみは闘って生きることがいやなんだな。他人を押しのけて前へ出る生き方、強 い者が弱い者をしたがえて生きる社会、すぐれた人間が劣った人間を踏み台にして生きるよ うな、生存競争といわれる世界のあり方に反対なだけだ。そうだろう ? 」
阿里葉子は黙っていた。ばくはつづけた。 「人間って奴は、闘って生きている。それが社会っていうものさ。ばくはいいファイターで と自分では思っている。まがりなりにも、こうして生きていけるのは、ばくが医師 という、ひとつの職業をもっているからだ。もし、その武器をもっていなかったならば、ば くはこの世の中から落伍して、ヒッピーかなにかの群にまじって、世の中からはみだして、 生きていたかもしれない。兄貴は闘って生きている。闘うことが無意味だ、と知っていなが ら、りつばに闘って生きているんだ。だけど、ばくはきみが無抵抗だった、という話をきい たときに、ひどくびつくりしたんだ。だが、疑問も感じた。やつばり兄貴の一 = ロうように、世 の中は弱肉強食の世界かもしれない。そういう中で、無抵抗で生きていくってことは、ひょ と一一 = ロってい っとすると不可能なことかもしれない。きみが和親会病院から退院したくない、 るのは、きみ自身が、もし社会に出て、まともに生きていくとしたならば、きみが考えてい る、その無抵抗の生き方を変えなければならないことに、気がついているからじゃないだろ うか。あの病院の中でなら、きみは無抵抗のままでも生きられる。だけど、もし一歩、きみ が病院を出て、社会に復帰したとするならば、無抵抗では生きていけない。そうだろう ? 」 阿里葉子は答えなかった。彼女は黙ってグラスを口にはこんだ。 「ばくは、きみが退院すべきだという、唐木さんや、ほかのひとたちの意見にかならずしも 賛成じゃない。あのひとたちは、きみがすでに病気が治っているから退院すべきだ、と言っ くは、きみがやは ている。だけど、ばくは反対なんだ。いや、反対と一言うのはおかしい。レ り病院を出るべきだ、と思っている。思っているけれども、それはきみがすでに治療を必要
んです。そしてその結果、阿里葉子くんは、彼女に乱暴しようとした男に対して抵抗しなか った。そしてその後もいろんな局面で、彼女は絶対に相手に逆らうことをしないで、そして 被害を受けてきたと、院長はそう一一 = ロうんです。彼女をそんなふうに追い込んだのは自分の話 に責任がある、だから彼女がそういった人生観を持ち続けているあいだは、弱肉強食の現実 の社会に投げだすことはできない、それはか弱い仔ウサギをオオカミの群のまん中に放りだ すようなものだ、そんなふうに院長は心ひそかに考えているらしいです」 「それは初耳です」 と、高橋医師は腕組みして言った。 「なるほど、そういうことでしたか」 「ばくは必ずしも院長の話だけが阿里くんに強い影響を与えてるとは思っていません。むし ろ、あのひとの中にそういった、争って生きる、強いものが弱いものを蹴落して生きる、そ して闘って生きていく、自由競争という名のもとでの弱肉強食に対する根源的な嫌悪感があ るんじゃないかと思うんです。あのひとは昔からそういうひとだった。そして、そういう闘 いの場からいつも逃れて生きていこうとした。もし、やむをえず相手に逆らわなければいけ ないような時には、抵抗を放棄して、相手のするままになって、被害を受けるほうを選んだ。 海そういった生き方を彼女は昔つから心の中で選んでいたと思うんです。それがたまたま、高 感見沢院長の話を聞いて、いっそう、意識された強いものになっただけであって、院長は責任 を負うことはないと、ばくは思います」 「竜野くんもなかなかいい ところを見てるようですね」
「父は戦後、中国側に捕われて裁判を受けたのよ」 「へえ」 「そして、自分のやったことのおそろしさに目覚め、すべてを正直に告白したの。その率直 で徹底的な自己批判と反省ぶりは、中国の人たちさえ感心させたほどだったんですって」 「ふーん」 ばくは大きなため息をついた。ばく自身に、ある自己嫌悪の感情をおばえたのである。 〈おれよりこの娘のほうが、よほど真剣に生きることの意味を考えてるーーー〉 ナッキは、うなだれて言葉をつづけた。 「うちの父は、裁判で刑の判決をうけたあと、戦犯として中国にいたらしいの。そしてその 間に、本当に自分たちがやった事について反省し、自己批判をし、その罪をつぐなうような 生き方をする決意をかためたらしいわ。その気持が本当のものであることが中国の人たちに もわかったために、父は刑期の半分で自由の身になり、日本へ引揚げてこられたんだわ。そ して今のあたしの母と結婚し、病院をはじめ、やがてあたしが生まれたのよ」 「ふーん」 「そしてットムくんも見てるとおりに、献身的に医療に打ちこんで生きているんだわ」 で 奥「それが悪いというのか、きみは」 霧 ばくはナッキをみつめて言った。 夜 「そのことを、きみはなぜ責めるんだ。自分の罪に目覚めて、それのつぐないに後半生をさ さげる決心をした、そしてそれを実行している、そのことがどうして気に食わないんだ」
ば、一生後悔しつづけることになるんじゃないだろうか。ばくはふと、高見沢院長が阿里葉 子に話して聞かせたと一一一一口うエピソードを思い出した。 院長は、ナタを構えた男の前に、素手で、うしろ向きに立ったのだ。その時、院長はどん な気持だっただろう。ばくはその話を聞いた時、とても自分にはできないことだ、と思った のだった。 それと同じような場面が、今、ばくの目の前にある。ロの中がからからになった。、い臓は 破裂せんばかりにどきどきしている。 その時ばくの頭の中に阿里葉子のことが浮んできた。彼女は絶対に抵抗しない生き方を選 ばうとしている。それに対してばくは、闘って生きるのが人間だ、と、偉そうにお説教をし たのではなかったか。 ばくは自分の言ったことに責任をもっ義務がある。阿里葉子に、無抵抗主義を捨てて、闘 って生きていくようにすすめた以上、自分もそうしなければいけな、 その時、ばくに決心をさせたのは、良心でもなく、ナッキへの友情でもなかった。何とな くそうしなければ、阿里葉子に対して恥かしいような気がしたのだ。おそらくばくはその時、 一種の自己陶酔的なヒロイズムに酔っていたにちがいない。そうででもなければあんなふう にはできなかっただろう。 ばくは、乗用車のまわりをぐるぐる回っているオートバイの間を抜けて、車に近づいてい つつ ) 0 そして、いきなりドアを開けると、女の子の上にのしかかっているリーゼントの青年を突
しまいたいという気持にかられたことが何度もありました」 高橋医師はごくりと唾をのみこんだ。そして言葉を続けた。 「いわば、彼女はそういう負の存在、ばくらの荒々しい力をそそり立てて、それを吸い込む ような、そういう奇妙なものを持った女性なんです。ばくはそのことで、自分をとても厭な 人間だと思ったこともあった。医師として彼女に接しながら、心の中でそういうよこしまな 欲望を感じることを、恥かしいとも思った。だから、とても彼女のことが気になっていたん 。こ。ばくの俳句を見て、竜野くんがひと目で、これは彼女のことを詠んだ句ですね、と指摘 した時、ばくは自分でもはっきり気づいていなかった心の中のそういう衝動を、目の前に突 きつけられたような気がして、ほんとは飛びあがらんばかりだったんだよ。でも、今は、な ぜ自分がそんなふうに彼女に暴力的な衝動を感じるか、ということがすこしずつわかりはじ めてきた。それは、つまり、ばくら生存競争の中で闘って生きてる人間のやましさ、なんだ。 その〈やましさ〉を心の底に押し込めて、ばくらは生きている。ロではいろんなことを言い いろんな表現もとるが、たとえば平和運動一つにしても、運動と名がつけば、それは対立と 闘争のるつばだ。〈愛〉とか、〈平和〉とか、〈優しさ〉とか、そういうものを社会的に拡げ てゆくだけでも、それはひとつの闘いの形をとらざるをえない。そういうところで、ばくら は、ほんとは心の中でひどくやましいものを感じ続けているんです。そしてそれを見て見ぬ ふりをしてるんです。ところが、あの阿里葉子という女のひとは、そういうばくらが無意識 のうちに認めまいとしてきている翳の部分を全部しよい込んで、ばくらの目の前に現れてく るんです。彼女を見るたびに、ばくらはそういった自分たちの生き方の負の部分を拡大され
かっていたし、唐木女史も、院長も、それなりに注意はしていたはずだったのである。 だが、朝田さんは、思いがけない形で死んでしまったのだ。発見した看護士の石金さんの 話では、最初、てつきり殺人事件たと思って、警察にもそんなふうに連絡したという。 朝田さんは、頭のうしろに太い釘を打ちこんで死んでいたらしい。自分でそんなことがで きるわけがないので、誰かに殺されたと判断したのだが、後で警察もまじえての慎重な検証 の結果、やはり自殺だったことがはっきりしたのだ。 朝田さんは自分の手で後頭部に釘をあてがっておき、エビがはねるみたいにコンクリート の壁に頭を叩きつけたのである。 唐木女史はその説明を石金さんから聞いたとき、気分が悪くなったらしく、小走りに洗面 尸し駆けこんでいった。それは無理もなかった。ばくでさえ、一瞬、めまいに似た気分をあ じわったほどだったから。 ばくには、朝田さんが一体どんな苦しみを生きていたかが、わからなかった。それは医者 だって同じことだ。他人の心の中をのそき見たり推察したりすることはできても、それを一 緒に背おいあうことはできはしな、 コーヒー ・コーナー〈アカプルコ〉は、明日になれば片付けられるだろう。あれほどうま 決 いコーヒーをいれることに熱中していた朝田さんの生きていたしるしは、単なる記憶だけに 感なってしま , つ。 そしてその記憶も、やがては薄れてゆき、一冊のカルテが残されるだけだ。そのカルテも、 月日がたてば処分されてなくなってしまう。〈本日閉店〉の札が床に落ちているのを、ばく
う話、オートバイや女達やギャンプルの話、今の時代がどこへ向かおうとしているかという とんなふう ような話は、時折聞かせてもらったことがある。だが、そうした話のなかには、、、 一度も出てこないのである。まあ、こ に小説を書いたらいいのかといった類の話は、ついに と思われているのかもしれない。そう一言 んな反抗的な奴にはなにを言ってもしようがない、 えば一度、銀座の定食屋みたいなところで五木氏に、しみじみとこんなふうに言われたこと があった。 唯こでも生意気 「山川君、二十代で反抗的なのは、生意気な奴だってことですむからいい。言し な時代というものはあるからね。しかし、三十代で反抗的なのは傲慢だと思われるから、君 も気をつけなさい」 たが、こんなばくでも五木さんの一一一一口葉にだけは素直に耳を傾けているつもりなのだ。小説 を書く時にはね : : : というような話がはじまれば、ばくはノートを広げかねない。だが、そ んな話にはなった試しがないのである。 新しい小説をひとっ書くということ。それはとりも直さす、新しい世界をひとっ生きると いうことに他ならない。新しい小説を書こうとする時、作家は誰もが手探りで深い闇のなか を歩いていかなければならないのだ。そうした歩行、生き方を誰かに伝えるなんて、所詮無 説理な話なのである。あるいは逆に言うと、そのようにして切り取ってこられた小説的な世界 こそが、リアルなのだということになる。あっけない話だが、本当にそうなのだから仕方が 解 。ばくとしては、五木寛之が六十年代、七十年代、八十年代にわたり旺盛な創作活動を 放棄しなかったという事実だけでも充分であるような気がする。彼はきっと、九十年代にも
悩みに悩んだ末、子供を置きざりにしたかたちでの離婚 をし、実家に戻った波留子。妹、布由子の自殺未遂がきっ かけとなり、沢木医師との愛がふかまってゆく いかに生きるか、揺れ惑いながらも、波留子は見知らぬ 内側の自分を探す心の旅に立つ。 奈津子はロサンゼルスで、亜紀子は拘置所で、それぞれ 波留子 ( 上 ) の人生を見つめている 。「四季・奈津子」に続く、四人 文 姉妹のバロック・ロマンの第二楽章のスタート。 の 之 五四季・ 四季・ 人びとの営みを優しく見守りながら、季節は移りかわっ てゆく 。沢木医師から、正式にプロポーズされた波留 子。布由子の心の病いも快方に向かっているという。 そんな折、心のささえだった詩人、金子貞生の突然の自 波留子 ( 下 ) 殺。報がもたらされた。 深い不安と動揺の時代に流されまいと、ひとりの女の生 解説中田耕治き方を見つめる波留子。四人姉妹の愛の遍歴を描く、心の ・ロマン大作。 アドベンチャー
なんです。すっと以前から、あの病院の敷地に目をつけている大手の不動産会社があって、 病院がもっと神奈川県の奥のほうへ移転するならお金を出すとしつこく言ってきてるんです もの。 きっとその不動産会社は、病院をよそに移して、そのあとに高級マンションでも建てる計 画でしよう。付近の住民のかたがたも、どうやらそれに賛成らしく、市会議員の e さんや、 地一兀の名士のさんなどもよくそのことで父を説得に見えてます。 とい , つ、挈、 住宅地としてこれから発展する土地に、精神病院があるというのはどうも の人々の気持が手にとるようにわかるのでとても腹が立ちます。ットムくんは、。 とう思われ ます・か ? そろそろ時間がなくなりました。でも、もう少し書きます。 そんなふうに苦労している父が、どうして罰を受けなければならないのかと、ツトムくん は不思議に思われるでしよう。 でも、あたしにはそう感じられるのです。父はいま、いろんな外界の条件が困難であるに もかかわらず、幸福すぎるほど幸福です。幸せすぎるほど幸せです。だって、自分の信念に 紙したがって、日々を祈りと感謝の気持で充実して生きているのですから。 手 お金のことで苦労はあるでしよう。病院のことで心配ごともあるでしよう。 の キ でも、父は絶対に幸せです。それは父が今の生活に意義と充実感をおばえ、正しいことを ナ しているという満足のもとに満たされて生きているからです。 たしかに父は献身的に生きている。自己犠牲のよろこびを感じつつ生きている。そして父