S たりはしないって約束したでしよう ? これは絶対に秘密よ。でなきや、もう話すのをよす 「秘密は守る」 と、ばくは一一 = ロった。 「それに、そのことはもうすんじまったことだろ」 「ええ。武田さんはもうこの病院にはいないわ。退院と入院を何度かくり返した末に、無断 離院して、それから冬のある朝、横浜のある場所で凍死してるのを発見されたの。酔って道 ばたに寝込んじゃって、朝、こごえて死んだのよ。ごていねいにトラックが何台もポロ布み たいに武田さんの死体の上をふんづけて通ったあとがあったんだって。横にはショウチュウ のびんが転がっていて、内ポケットには百円玉が二つ、それにポロポロになった書類が一通。 その書類って、何だと思う ? 」 「き、あ」 ナッキはばくの目をのぞきこんで囁いた。 「古い医師免許証だったんですって」 「医師免許証 ? すると、その武田さんってひとは、昔は医師だったのかい」 「そ , つよ」 ナッキはうなずいて言った。 「それも父と一緒に、戦争中、満州の病院で働いていた仲間なんですって」 「へえ」 さき、や
んだ。そして自分のほうから強く唇を押しつけてきた。彼女のやわらかな唇が、ばくの熱っ ばい額から頬へ、そして首筋へと優しく動いてゆくのを、ばくはなかば夢うつつで感じてい 「きみもやすんだら ? 」 と、ばくは小声で言った。 「ええ」 「ここにおいで」 ばくはすこし体をずらして、毛布の下に空間をつくった。 「ええ」 阿里葉子は素直な調子でうなすいた。 「電気、消していし」 ししとも」 部屋の中が暗くなった。阿里葉子が服を脱いでいるらしい気配があった。ばくの心臓のあ たりが、大きく波打っているのが自分でもわかった。ばくは自分がいま、どういう顔をして いるのか鏡で見てみたいような気がした。ほんの何十秒かの短い時間だったが、 ば / 、には . 何 時間ものように感じられた。 「おじゃ士まし亠ます・」 と、阿里葉子は冗談めいた口調で言い、。 工くの横に風のようにすべりこんできた。 「もっとこっちへきたら ? 」
このところをうまくさけて過していたみたいだったわ。だからあたしは母に父のことをいろ いろ聞いたりもしなかったの。ただ、この家には、父のことに関して触れてはいけない過去 の何かがある、って、それだけは子供のころから気づいていたわ。それが武田さんの出現で、 あたしの目の前にはっきりしてきたの。霧の奥から黒い、おそろしい過去がにゆっと首をも たげたような ナッキは身震いした。そしておびえたようにばくの腕に手をふれた。 「あたし、こわい」 「大丈夫だ。明るくなるまで一緒にいてやるよ」 「話が終ったら帰ってちょうだい」 ナッキは急にきびしい口調で言った。ばくはしらけて、帰るとも、と、ロの中でつぶやい 「要するにきみはその院長の昔の仲間だった武田という人物から、アルコールをエサに、何 かを聞きだしたというわけか」 「ええ」 ナッキはうなすいた。 「武田さんに対する父の態度は、はたで見てても心を打たれるくらい立派で優しかったわ。 この人はばくの旧友だ、よろしく頼む、って看護士さんや皆さんにそう言って、特に親切に 治療につとめてたの。ただ、武田さん本人は、その人たちから院長さんの昔のお友達なんで すってね、なんて聞かれても、ええ、まあ、とか、そんなふうにあいまいにうなずいて話題
ばくは黙ってした。、、 、「とうせ一度は唐木女史とこの話をしなければならないと思っていたか らである。 「ところがどうして、竜野くんは一見ハ ードで再見ソフト、熱き血潮がたぎるタイプだった んで驚いたわ」 「ばくはそんなにうぶじゃないつもりですが」 「ど ; つかし、ら」 「ばくは冷静にばくたちのことを考えてるんです」 「ばくたち ? 」 「ええ」 「まき、か と、唐木女史は煙草の灰を落すのも忘れて、ばくの顔をみつめた。 「あなたは阿里さんと・・ーー」 「そうなんです」 と、ばくは何気ない口調で言った。 「ばくは彼女と結婚しようと思ってるんですが」 海「結婚ですって ! 」 感「おかしいですか」 唐木女史の豊かなバストが大きくふくらんで波うった。 「竜野くん、それ、本気で言ってるの ? 」
しいリズムで体をゆすっている。どうやらこのバンドの歌手らしい 「体が燃えてるみたい」 と、阿里葉子はつぶやいた。 「 , つらやましいわ」 「あんなふうに夢中になれるなんて」 「きみは今まで、なにかに夢中になったことはないのか」 「そうね」 彼女は少し考えて、 「ないような気がするわ」 ステージの黒人の娘が、引き裂くような鋭い声で歌いだした。その声は歌というよりなに かけものの叫び声のように強く、はげしいものを感じさせた。 「あたし、あんな歌を聞いてると怖くなるの」 と、阿里葉子が言った。 紙「なんだか、自分の体の奥の深いところに眠っている変なものが、目をさまして、自分が自 の分でないものになってしまいそうな気がするのよ」 貴「自分でないもの ? 」 兄 「ええ」 「なってみたらどうなんだろう」
圏「ナッキさんのこと、どう思ってらっしやるの ? 」 と、阿里葉子が突然きいた。 「ナッキだって ? 」 「ええ」 「べつに」 「あのお嬢さんは、きっとあなたのこと好きなのよ」 「まさか」 「あたし、そんな気がするの」 「ソープランドにつとめるとか言ってたな。かわった娘だ」 「ソープランドに ? 「いや、これはくわしく説明しないとわからない話なんだ」 「はぐらかす気ね」 音楽が変った。 「やすみましよう」 と、阿里葉子が言った。 「 , っ′ん」 ばくらは席へもどった。阿里葉子の白い額に汗が玉のように光っている。 「あの女のひと、見て」 と、阿里葉子は言った。彼女の指さした舞台の上に、黒人の若い娘がマイクを片手に、激
「あの人と結婚することによって生じる現実的な問題については、もうちゃんと考えてはい るんでしようけど と、唐木女史が言った。ばくは首をふった。 「なんにも考えていませんよ」 「見る前に跳ぶってやり方ね」 「だって人間の考えなんて、知れたもんでしよう」 「そんなこと科学者が言っちゃいけないわ」 「前にもちょっと気になることを一言われましたね」 と、ばくは一一 = ロった。 「なんだか、あの人の家系がどうのこうの、と 「ああ、あのことね」 女史はうなすいて、 「日本じゃ、いろんな問題をしよいこんでいない人は一人もいないわ。あたしは民俗学者じ ゃないから、くわしいことは知らないけど、阿里さんの実家が、その地方で一種の偏見をも 出って見られてる家系だってことを、言ったんだったわね」 「ええ」 て「そんなこと、気になる ? 」 と、ばくは首をふった。
った。ママの姿も見えなかった。 「やあ、これはおめずらしい」 と、マスターが一言った。 「どうです、この曲いかすでしよう ? 」 「さあね。こんな曲がはやってた頃は、ばくら、まだ生まれてなかったから」 と、ばくは一一 = ロった。 「またまた、竜野さんったらーーー」 と、マスターは首をふった。 「どうそ、こちらへ」 マスターはばくたち二人のために、部屋の角に席をつくってくれた。 「今夜はなんとなくひっそりしてましてねえ。ひょっとしたら竜野さんでもあらわれるんじ ないかと、なんとなくそういう気がしてたんです」 「へえ」 ばくは、阿里葉子に何を飲むかとたずねた。 紙「ウイスキーをいただくわ」 の と、彼女は言った。 へ 貴 「。こ、〔しょ , っか、力し ? ・」 兄 「。こ、じよ , つぶよ」 「じゃあ、ばくもそうするか。ウイスキーの水割りを二つ」
と、ばくはそのとき言ったのだ。 「いや、そんなこと言ってるおまえが早く結婚するさ」 と、兄貴は言った。 「おれだって結婚するよ」 ばくはそれがとても意外だった。兄貴は結婚なんか絶対にしない人間だろうというふうに 思っていたからだ。 「やつばり結婚するの ? 」 と、ばくはきいた。 「するとも」 兄貴は言った。 「ただ、世間の連中みたいに喜び勇んで結婚するわけじゃない。おれはあきらめて結婚する んだ。結婚なんてものが愚劣な喜劇だ、ってことをよく知ったうえで、それで素知らぬ顔を して、おめでとう、なんて一一一一口われながら、や、どうもありがとう、とかなんとか、新婚旅行 に山山かけていくのさ」 「結婚て、そんなに変なもの ? 」 と、よくはきいた。 「変てわけじゃないけれども、なんとなくおかしなものさ」 と、兄貴は言った。兄貴は結婚をしたことがないくせに、もうすでに百べんも結婚を経験 してきた人間のような口をきいた。ばくは黙って、兄貴の言葉を待った。
た某くんの場合には、ちょっと困ったことがいろいろあったけど とんなふうに困ったかは言わなかった。 唐木女史は〈某くん〉という言い方をした。、、 「よくわからないんてす」 と、ば / 、は一一一一口った。 「あのひとのことについて詳しく知っているわけでもないし、さほど深いっきあいがあるわ けでもない。だけど、なんとなくあのひとのことが、 ばくの体の中の深い所に入りこんでし まっているみたいな、そんな感じがするんです。唐木さんにはそんな経験はありません 「あるわよ。あたしだって女ですもの」 唐木女史はさらりと言った。 「でーーーそれからどうするつもり ? 」 「ど , っするってーーー」 ばくはロ、こもった。 「もう阿里さんには、あなたが彼女を好きだってことは、言ったんでしようね」 唐木女史がたすねた。 紙 手「ええ」 貴「そしたら彼女はなんて言ったの ? 」 兄 「自分はそんなふうに好かれる資格のない人間だ、と、言いました」 「挈つ」