女中 - みる会図書館


検索対象: 加納大尉夫人
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1. 加納大尉夫人

男の子に変っていることもあったし、顔も知らぬ女の子になっていることもあった。 ある日、久子は女中と一緒に銭湯へ行った。彼女の家の風呂が壊れたのだ。銭湯へ行くのは生 れてはじめてだった。久子は珍しさにキョロキョロした。女中がそんな久子を叱った。そのとき、 とんきよう 久子は頓狂な声でいった。 「佐和どん、見てごらん、ほら、みな、あんなところに毛が生えてるーーー」 女中は久子がこれまで見たこともないような怖い顔をした。 「なにいうてはりますねん。そんなこというもんやおまへんーーー」 ぎようさん 「佐和どんいうたら、見てみいな、今入って来た人 : : : ほれ、仰山やわ、わアー仰山生えてる 久子は夢中でさわいだ。 「ほれ、ほれ、あの人見てみい、あの人のはチイとやな、やあ、けったいやなあ、なんであん なとこに毛、生えるんやろ : みみもと そのとき久子の耳許で、女中の押し殺した不気味な声がいった。 「とうさん、そんなことばっかりいうてはったら、今に気違いになりまっせ」 久子は黙った。「気違い」という言葉が熱い風となって頭の中を廻った。久子は女中のするま まに、おとなしく身体を洗われた。 ぶきみ

2. 加納大尉夫人

てしまっていた。それに障子を開け放しておくのは寒かった。だがそれでもやはり、私たちは毎 日、その風景に眼をやっていた。 「あの向うの白い山、なんて山 ? 」 女は左の方へ顔をねじ向けたまま、廊下を拭いている女中に向って声をかけた。 「知らねえ・ : : ・おらあ : : : 」 いいながら廊下をこす と女中はいった。女中は四つん遙いになった尻を高く上げて、ふうふう っていた。廊下を拭くのは、私たちがこの宿へ来て以来、二度目だった。女は山の方へ眼をやっ たまま、ほほえんでいた。 「明日は雪になるって、あの娘がいうんだけど」 つぶや と女は呟いた。 「でもかまわないわ。パスが通りさえすれば、なんてことはないわねー 「うん」 と私はいった。 「今夜から、雪になるだに」 山四つん這いになったまま、女中はいった。 「こんだはえらく積るかもしらんでよ。おいらの旦那がゆってたでなあ」 「そう」 こ しり だんな

3. 加納大尉夫人

「許してくれー つぶや と呟いた。 私はおよそ一年ぶりでかよ子を訪ねた。佐野がパリへ出発して丁度一月目だった。やはり私は かよ子に会わずにはいられなかったのだ。私は仕事をほうり出して汽車に乗った。この仕事をほ うり出したことで、私は勤め先の今までの信頼をくつがえすことはわかっていた。私は個人的な アル・ハイトをしすぎ、その点でも幹部の心証を悪くしていたのだ。 かよ子の家へ行くと、かよ子は留守だった。むっ子の縁談のことで出かけたのだ、と古くから いる女中がいった。私は食堂へ入った。大きな石油ストープは去年のようにもう据えつけてあっ ひさし たが、火は燃えていなかった。秋晴れの外から入ってくると庇の深い食堂はうす暗くて寒く、猫 の姿は一匹も見えなかった。今までこの家へ来たときに、かよ子が家にいなかったことは一度も なかったことを私は思った。かよ子は大村小弥太と逢いびきしているのにちがいない、と思った。 「かよ子さん、お変りない ? 」 私は茶を持って来た女中にそういった。もう十年近くいる三十女で、忠実だがおしゃべりなの 猫が欠点だとかよ子はいっていたが、かよ子には絶対に服従している女中である。 「はい、お元気でございます」 そういう女中に私は重ねていった。

4. 加納大尉夫人

127 山 ばいにぬぎ散らしてあった。私は靴をぬぎ、それらの履物の上を渡って上へ上った。廊下にはて んぶらを揚げる匂いが漂っていた。 こたっ 部屋へもどると、炬燵の火はなくなっていた。私は電灯をつけ、冷たい炬燵に入った。女中は 階段を上ったり下りたりしていたが、私が何度火をくれといっても、返事をしなかった。彼女の しばら 足音は、今まで聞いたことがなかったくらい軽快だった。暫くすると、どやどやと階段を上って くる若者たちの足音がした。それは私の部屋の前を通り、彼女が泊っていた隣の部屋へ入って行 った。私の部屋の前を通りながら、 「俺らのほかにも客がいるかえ」 という声が聞えた。 「アベックかい ? 」 と別の声がいった。 「アベックじゃねえぜ」 はず と女中の弾んだ声がいった。 「なんだ、つまらねえ」 と最初の声がいった。それからどっと笑い声が起った。 「しーツ、 1 断えるに」 と女中がいった。 にお

5. 加納大尉夫人

「このごろはお出かけが多いの ? 」 「はい、むっ子さまのことで何やかやと : : : 」 女中はそこに立ったまま、むっ子の縁談についてしゃべりはじめた。むっ子の縁談は今三つに 絞られて、最後の調べをしているところた、といった。なるほど彼女はおしゃべりだった。彼 はその縁談の説明をはじめた。 かよ子が帰って来たのは、女中が三つめの縁談について説明を終った時だった。玄関の・フザー の音に女中は走って行き、私の来ていることを告げたのであろう。すぐに玄関から、 「いやあ、おりゅうが : : : 」 と叫ぶ声が聞え、ばたばたとスリッパの音がこちらへ向かって走って来た。 「いやあ、おりゅう : : : 」 うれ 食堂に入って来たかよ子は、もう一度いつものように、なっかしそうに、嬉しくてたまらない かのようにそういっこ。 「どないしてたんよ、おりゅう : : : 」 彼女はその声と一緒にどこからか現れた猫を、足袋の先で押しのけながらいった。 「いよいよ、おめでたい話 ? 」 かよ子は去年とまた少しも変っていなかった。卵のような肌は、一つのしみ、一つの皺もな ~ 見るからすべすべして気持がよさそうだった。私はいった。 たび はだ しわ

6. 加納大尉夫人

128 ん 女中は隣室には夕食の膳を運びはじめた。若者たちはがやがやしゃべっていた。 「酒は持参かね」 とかん高い女中の声がした。 私は寒く、そうして空腹だった。隣室では酒のやりとりがはじまり、やがて一人が歌を歌い出 した。するとすぐにみんながそれに合せて歌いはじめた。わざわざギターを持って来たとみえて、 ギターをかき鳴らす音がした。しかしそのギターの音はひどいものだった。弾き手はただギター の糸をむやみに引っかくだけなので、歌のメロディとは全く合わなかった。だが歌の方はおかま いなしだった。ギターはギターで根気よくボロンポロンいっていた。一つの歌から次の歌へ移る ふる とき、声を慄わせて歌う男がいつも先頭を切っていた。彼は合唱の声がしずまってからも、ひと りだけ長々と声を引っぱっていた。 「芸者わるつは 思い出わるつー : か」 と彼は歌った。ひとふし歌うたびに、彼はあとに「か」をつけた。私は下へ炬燵の火をもらい はち に行った。亭主は向う鉢まきをして、まな板の上で肉をたたいていた。合唱の声はそこまで聞え ていた。女中がそれに合せて歌いながら、酒を徳利に注いでいた。私は十能に火を入れて部屋へ もどった。 「すみませんねえ、お客さん」

7. 加納大尉夫人

102 「だが九時半のバスは間に合わないんじゃないか」 「でも大てい大丈夫だって、下でいってたわ . 「だが今は男はみな炭焼きに山へ入ってるからね」 「でも大丈夫だと思うわ」 と女はいっこ。 「暗いうちからはじめてるっていうから」 「しかし雪はどんどん降ってるからね」 「でも空は晴れてきてるわ」 しつよう 執拗に女はいった。 「三十分くらい遅れるかもしれないけど、でも汽車は幾つもあるもの」 私はロをつぐんだ。女は手拭いと薬罐を下げて、自分の部屋の方へ、私の見ている前を歩いて ぜん 行った。私は寝床に横になった。開いたままの障子の向うを、朝食の膳を持った女中が、生卵を コトコトいわせながら通って行った。 「九時半のパスは間に合わねえって」 という女中の声が、隣室から聞えてきた。 「間に合わないんですって ? と女が聞き返した。まるで私に聞かせるためのように、高い声だった。

8. 加納大尉夫人

まつやまひさこ 六歳のとき、松山久子は初恋をした。 はやしちょうじろう 林長二郎という名の映画俳優だった。 わかざむらい 映画館の映写幕に、若侍の顔がいつばいにひろがっていた。彼の目は裂けんばかりに見開かれ びん たまま、久子の顔をじっと見つめていた。鬢のほっれ毛が、その目にかかっていた。彼は幾人も くちびるふる の男に取り押えられているのだった。彼の形のよい唇は慄えていた。大きな目に涙が滲み出た。 彼は久子に向って訴えるように大きく口を開き、それから後向きになってあらくれ男たちに連れ 去られて行った。 久子は女中に向っていった。 「あの侍、何ちゅうひと ? 」 あさのたくみのかみ 「浅野内匠頭ですがな」 女中は答えた。 ちょう 「けど、長さんてよろしなあ : : : 」 だれ 「長さん ? 長さんて誰 ? 」

9. 加納大尉夫人

「あの侍さんになった人ですがな。林長二郎 : : : 」 その名は久子の胸に灼きついた。夜、眠ろうとすると、あの目が迫って来た。 ひとが・さ 小学校三年の秋、町内の祭礼があった。久子は女中と一緒に山車を見に行った。人垣の間を、 山車の引綱を手にした稚児が進んできた。 「あれ誰 ? どこの子 ? 」 久子は女中の袖を引っぱった。 せんべい 「かめ屋の哲ちゃんやおまへんか。煎餠屋の : : : 」 まゆ 稚児の眉の上には、薄墨で丸い点が描いてあった。久子はそれに見とれた。稚児がゆるやかに 一歩踏み出すたびに、冠の金の瓔珞が揺れた。久子は息を詰めた。美しいと思った。 何日か経ってから、久子はかめ屋の哲夫が材木置場で高等科の生徒に虐められているのを見た。 そうよく 哲夫は蒼白になって、気でも狂ったように両手をふり廻していた。高等科の生徒たちは笑いなが 庭ら、彼をその輪の真中へ包み込み、押しつぶした。哲夫の小さな頭もふり廻している手も、土の の中へめり込んでいくように彼らの輪の中に見えなくなり、どっと笑い声が上った。 女久子はテー・フルの上に哲夫を縛りつけて、手術をする空想にふけった。キラキラ光るメスを手 へそ にして哲夫の臍の下を切り開くと、哲夫は身もだえして叫び、下腹部の切り口は血を流しながら、 笑ってでもいるように歪んだり伸びたりする。その空想は何年かつづいた。哲夫ではなく、別の そで かんむり ようらく てつお だし

10. 加納大尉夫人

庭 の ゅうぞう どんや 女久子の父松山勇造は、大阪でも屈指の海産物問屋だった。十三のときに海産物屋の丁稚に入り、 びんご 三十二の年に主家を出て、備後町にささやかな店を構えた。長女の邦江が生れたのは、勇造の苦 闘時代である。五年経って久子が生れたとき、丁度、商売が上り坂にさしかかったところだった。 気違いになるーーー気違いになるーーーその言葉が頭の中をグルグルまわった。 銭湯を出て、長い一筋道を歩いた。商店街を抜け、呉服屋の角を曲り、やがて久子の家の板塀 につき当るまで、その言葉は頭の中をまわっていた。 「さ、入りなはれ。もうあんなこと、 いうたらあきまへんで」 女中が格子戸を開けてそういったとき、久子は突然、長く尾を引く叫び声を上げた。足をパタ ハタさせ、握り拳を宙にふって叫んだ。 「いややア、どないしょオ、気ちがいにな . ったア : : : 気ちがいになったア : : : 」 松山家の主治医は駈けつけて来たが、この発作に何という病名をつけてよいのかわからなかっ た。主治医は「小児性神経衰弱」という病名をつけた。 こうし こぶし ほっさ くにえ でっち いたぺい