57 加納大尉夫人 という予定のビラを撒いていたが、その予告通りにやって来たのだ。彼女は夢中で子供を背負っ たんぽあせ て、雨のように降って来る焼夷弾の下を逃げた。彼女は家族の者とはぐれ、町外れの田圃の畦に ほのお 坐って子供を背から下ろした。遠く燃え上る町の焔を見ながら、彼女は子供に乳をやった。子供 は半年の間に、目と額が敬作そのままになっていた。彼女は子供をあやした。今はじめて彼女は、 あふ 子供と二人きりでそこにいるのだった。そう思うと涙が溢れた。彼女は子供に頬ずりをしかけた が、子供は彼女の手の中でむずかって身を反らした。彼女があやせばあやすほど、子供はいやが って足をつつばり身体をのけそらせた。安代はカッとして子供を打とうとした。だがその手を押 しとどめる者がいないことが、ふり上げたその手を鈍らせた。 そのとき安代は二十三歳であった。安代がそれからなお二十年も生きつづけることが出来ると は思えないような二十三歳であった。 広島に原子爆弾が投下されたのは、それから三日後である。 ひたい そ ほお
われた。 「かよ子はどうなんよ ? よよ、 。しいなさい」 わたしたちは何度かかよ子をそう責めたが、かよ子はいつも笑うばかりだった。 「いややわ、そんなこと、わたし知らんわーー」 かよ子は恥ずかしそうに顔を伏せ、わたしのかげに入ってわたしの背中を打つ。そんな風に彼 女に打たれるのは、悪い気持ではなかった。 かよ子の家へ行くと、子供が六人いて、いつもそれそれに何か自分のことに熱中していた。上 しゅうとめ の子供は大学生で、一番末は小学校一年だった。六人の子供の外、夫と姑と二人の女中と夫の 弟がいた。かよ子の夫は、祖父が起したという大きな紙会社の社長だった。かよ子と一つちがい で、かよ子が二十、夫が二十一のとき見合をし、二か月目に結婚したのだった。戦時中学徒も戦 争に行かねばならない時代が来て、家の後継ぎを作る必要から有産階級では早婚が流行した、そ の時の結婚である。私たちのグルー。フではかよ子の結婚が一番早かった。 「いややわ、わたし、結婚なんてゼッタイしゃへんー 彼女は、よくそうい「ていたが、缶も本気で相手にしなか「た。 「こんなん、本気やないから心配せんかてええ」 と私はかよ子の前で、そんな風にいったものだった。
三月に入ってから、日を追うにつれて日本の主要都市は次々に爆撃を受けはじめていた。硫黄 島は遂に奪われ、アメリカ軍は沖繩に上陸を開始していた。五月だった。安代はもう夫を待って いなかった。敬作が出てからもう五か月経っていた。夫の安否を気づかう人々から聞かれると、 安代は必ずもう死んでしまったもののように答えた。母や姉がそれをなじると、彼女はみつく ような顔をして、 「ほっといて ! 」 と怒鳴った。 敬作の戦死の公報が入ったのは、六月三日である。 「二十年三月二十一日、内南洋方面にて戦死す」 その公報は鹿児島の敬作の老父から送られて来た。安代はそれを読んだ。家族の者が息を潜め るようにして自分を見つめているのを感じると、いきなり立ち上り、子供の手や足を木綿針で引 っ掻いた。母が安代をつき倒し、今まで聞いたこともないような声で、 「気ちがい ! 」 と叫んだ。安代はわめいた。母は子供を抱えて二階へ逃げて行ったまま、なかなか下りて来な かった。それでも授乳の時間がくると、母はおそるおそる下りて来、安代は子供に乳をやった。 しようい 八月、安代の家は焼夷弾を受けて全焼した。アメリカ機はその三日前に、浜辺の町を爆撃する
だいぎら 来られへんのよ。椅子が大嫌いな人やから : : : 」 そういってかよ子はクックッと笑った。離れを建てたのはかよ子である。 「そやかて、子供らがあまりうるさいよって、お気の毒やとおもて : : : 」 そしてまたかよ子はクックッと笑うのだった。 姑が離れに移ると同時に、かよ子の家には急に猫が増えた。姑が母家にいた頃には、一匹の年 とったタマというメス猫がいただけだったのが、いつのまにやら二匹三匹と増え、しまいには何 匹いるのやらわからなかった。かよ子の猫好きは女学生時代からで、その頃あまりの猫好きのた めに、彼女は〈ねこ〉というニックネームで呼ばれていたほどだった。子供の頃からかよ子は近 所の猫や捨猫を、手当り次第自分の家へ連れてくるので有名だったが、そうかといって殊更に猫 を赤ン坊扱いにしたり、頬をすりよせて可愛がるという風な可愛がりかたはしなかった。猫の方 ひざ からやって来れば、膝の上に乗せて咽喉を撫でてやったりしていたが、自分の方から特に抱き寄 せるということはなかった。ときどき猫の尻尾を踏んづけたり、足にまつわるのを蹴転がしたり しては笑っていた。 大きいのや小さいのや、丸顔や三角や、ものぐさや意地悪や、さまざまの猫たちは、彼女の家 猫の至るところで好き勝手に暮していた。子供たちは気が向くとそれらの猫をかまうし、気が向か ないときはほうっていた。猫の方でも気が向くとやって来、気が向かないといくら呼んでもさっ さと通り過ぎて行くのだ。それでもかよ子は食事どきになると、猫の食事を作りに台所へ立って ほお しっぽ けころ
と彼女はいった。 「今のうちに死んでくれたら、ひょっとしたらあの人がもどってくるかもしらんわ」 神戸が焼けたと聞いた翌日、彼女は子供を家に置いて焼跡を見物に出かけたまま夜まで帰らな かった。彼女はパスが通っているのにわざと歩いて行った。神戸市は見ごとに焼失していた。焼 跡は黒くひろがり、ただそれだけたった。安代の知っている契茶店も洋服屋も皆、なくなってい た。覚えている町角も道筋もなかった。それを見ているうちに突然、安代は声を上げて笑った。 何もかも、全く見ごとに、きれいさつばりと消え失せていることが、急にたまらなくおかしくな ったのだ。彼女は空襲警報の出ている中を、ゆっくり歩いて帰って来た。帰って来ると、泣き疲 れてぐったりした赤ン坊を抱えた母が、同じようにぐったりした顔でタもやの立ちこめた門の前 に立っていた。 「この子があの人を死なしたんやわ。そやからわたしがこの子死なしてやるんや。乳なんかや らへんわ」 人 安代はいった。しかし彼女の乳房はいつばいに張りきって青い筋を立て、ひとりでに噴き出し てモンべの胸元を濡らしていた。彼女は子供に乳房をふくませた。犬の仔のように首をふ 0 て、 納 むしゃぶりついてくるその小さな口を、安代はひねりつぶしてやりたいようないらだちと悲しみ にさいなまれながら見つめた。やがて子供が満腹して眠りに落ちると、母は大事なものでも取り 返すように、大急ぎで抱き去って行った。
「こんなことをいってるやつに限って、結婚したらべタつくんやよ」 彼女の夫はいかにも三代目らしく、善良で上品な青年だった。気弱な人だということは一目で わかった。それは六人の子供の父親となり、又、父の死後、社長になった現在でも少しも変らな い。彼は家族を非常に愛し、そのこと以外に何の楽しみも趣味も持とうとしない人だった。社長 うわさ をしている製紙会社は、実際は彼のいとこに当る専務の手腕によって切り廻されているという噂 だった。かよ子の家は高級住宅地として有名な市では、中の上くらいに当る邸宅だった。家は まかず 古かったが中庭つきで、庭には泉水もあった。間数も相当あったが、家族の人数に比べると、決 して広すぎはしなかった。 っ 学校を出て二十年経った今でも、私はよくかよ子の家へ泊りに行った。大学生の長女は、い 行ってもステレオでべートーベンかワグナーを家中に響き渡らせていた。高校生の長男は廊下に 置いてある電話で、一時間も二時間も階段に腰を下ろしてしゃべっていた。中学生の次男は食堂 のテー・フルの上に足を乗せ、テレビのイヤホーンを耳に入れ、漫画を読んでいた。小学校六年の 女の子は双生児だった。二人は日本舞踊と三味線を習い、祖母のお気に入りで、大へん行儀がよ かった。末の男の子は小学校の一年になったばかりだが、学校でも天才といわれるほど絵がうま 猫かった。彼はいつも黙々としており、誰かが話しかけない限りは、めったに自分の方からロを利 くことはなかった。 子供たちはかよ子のことを、〈のんびり屋〉と呼んでいた。かよ子はしよっちゅう、子供たち
私は女を見た。女はロのまわりだけでほほえんでいた。私から視線を外らしたままだった。だ が彼女はいつもより優しい抑揚でいった。 「この味の素は置いて行くわね。それから粉コーヒーと角砂糖も置いてった方がいいでしょ う ? 」 まだ食事中なのに、女は箸を置いて、手提げの中からコーヒーと、角砂糖をとり出した。 「それから : : : もうなかったかしら : : : 」 と私はいった。女は笑った。 「二千円くらいしか残りそうもないけど」 と女は優しくいった。 「余るようだったら、貸してくれないか」 「それくらいでよかったら : : : 」 女はものわかりのよい母親のようになろうとするときの、例の抑揚でいっていた。彼女は時に よって母親のようになったり、子供みたいになったりした。それはこの旅行の間だけのことでな おおのぎ 、五年前に大野木の家で知り合ったときからそうだった。あの頃は彼女は、子供みたいになる ときより、母親みたいになるときの方が多かった。それはその頃はまだ、彼女が若かったせいか もしれない。
わずにはいられなかった。その風評が、ではなく、自分が男の子を産むかも知れないということ が、である。 子供が生れたのはその二日後だった。予定より一週間早く陣痛が始まったのは安代が二日間と いうもの、あまりに激しく泣き明したためだった。 「女の子が生れますように。女の子が生れますように : : : 神さま、神さま、どうか女の子をお さずけ下さい 陣痛の合間合間に安代はお経のようにそう唱えた。 「あなたは顔が穏やかですから、きっと女の子よ」 そのたびに中佐夫人がそうくり返した。今では中佐夫人は、もう以前のように武人の妻のたし なみを云々しなくなっていた。呉市はもう数日ぶつ通しの警戒警報の中にあった。母に電報を打 ったが、汽車の切符が買えず母は来られなかった。丸一日の苦しみの末に子供は燈火管制の暗い うぶごえ 灯の下に生れ出た。その産声を聞くやいなや安代は叫んだ。 「どっち ? 男 ? 女 ? 」 「女の子さんですよ」 すぐに老夫人のやさしい声がいった。 「安心なさい、女の子よ」 だがそのとき安代の足もとの暗がりの中から、産婆のひそひそ声がこういうのが安代の耳に入
晩餐は笑いに満ちた楽しいものだった。いつも無ロなかよ子の夫が、丸い顔を天井に向けてか らからと笑うさまを私ははじめて見た。彼は大村小弥太に子供たちの学業の出来について質問し ていた。 「皆、優秀です。たいしたもんですわ」 まじめ と小弥太は真面目くさっていった。 「けどむっちゃんは顔はお父さん似やけど、頭はお母さん似ゃな。頑固でいい出したらきかん とこなんかそっくりや」 てもと むっ子は悲鳴を上げて、手許にあったオレンジを小弥太めがけて投げつけた。小弥太はす早く 片手でそれを掴み、 「あかんなあ。むっちゃんがもうちょっとしとやかやったら、嫁さんに貰おおもてたのに」 といった。又、皆がわっと笑った。私には次第に、むっ子が小弥太に普通以上の好意を持って いることがわかって来た。そして小弥太はそれを知っているので、わざとむっ子をからかってい るのだ。かよ子はにこにこして食べ物や飲み物に気を配っていた。むっ子は盛んに小弥太につつ かかり、小弥太は空と・ほけた調子でそれに応じていた。そんな風にふざけながらも、小弥太は決 猫して笑わなかった。 晩餐が終ると子供たちは階下の洋間へ下りてゲームをはじめた。ゲームに飽きるとダンスがは じまった。むっ子は小弥太にしがみつくようにして、目を閉じてワルツを踊っていた。かよ子は んこ
しよう力い 「たとえ身は南海の藻屑と消えるとも、我が生涯に悔はなし。葬式は戦争が終結後にすべし。 安産を祈る」 ていさっ もう二月だった。東京は頻々と空襲を受け、関西方面にも偵察機が姿を現しはじめていた。二 月十九日、アメリカ軍は黄島に上陸し、フィリッビンの各地で日本軍は敗退しつつあった。や がてマニラは占領された。又ビルマ戦線でも日本軍は敗退しつつあった。この次は沖繩がねらわ れ、その次が本土の番だった。三月に入って、東京の大空襲の恐怖が伝えられた。一夜のうちに 八万の人が焼死し、死体はトラックに山のように積まれて運ばれているということだった。 という途方もなく大きな飛行機は、サイバン島からひと飛びに日本本土へやって来ることが出来 るのだ。 しようゆ ほとん 安代の母は衣類を疎開したり米や砂糖や醤油などの買い溜めをするのに、殆ど半狂乱のように なっていた。姉たちは毎日庭に穴を掘り、買い溜めた食糧を埋めたり、取り出しては日に当てた り、調べたり又しまったりしながら、警報が鳴り響くたびに死物狂いの声を出して子供たちを呼 び集めた。どこへ行っても人々が、一刻を惜しむようにせかせかと歩いていた。皆、飢えて痩せ ていた。戦況のことなんかもう誰も考えていないようだった。五月、神戸と大阪が空襲された。 里へもどってからの安代は、子供に乳をやることを拒んで毎日、泣いてばかりいた。事実安代 はその子が憎くてたまらなかったのである。 「こんな子、死んだ方がええのや」 ひんびん おうじま