敬作 - みる会図書館


検索対象: 加納大尉夫人
46件見つかりました。

1. 加納大尉夫人

うちわ 毎夜、敬作は、夜半すぎまで勉強をつづけていた。安代は勉強をしている敬作のそばで、団扇 で蚊を追いながら勉強の終るのを待っていた。しかし安代はその長い時間の間、一度も退屈をし たりつまらないと思ったことはなかった。といってその間に本を読んだり、手仕事をしたり、考 えごとをするというわけでもなかった。彼女はただ敬作のそばにいて、彼を眺めているだけで十 分だったのだ。彼が今、安代の身近にいるということ、手を伸ばせばいつでも触れることの出来 る場所にいるということは、まるで大金持にでもなったような気持だった。潜水学校に入学して いる間の三か月間は、敬作は彼女のそばにいることは確実だった。三か月経って卒業した後は、 艦長としての実地訓練が数か月あることも確かだった。少くとも半年は、安代はこうして敬作と 一緒に暮すことが出来るのだ。 敬作が机の上の本をばたりと閉じるとき、安代は胸に新鮮なときめきを覚えた。安代は夫が抱 擁してくれる時をいつも待っていたのだ。夫との行為は、まだ安代に何の快楽ももたらしてはい なかったが、それでも彼女はそれが好きだった。敬作は荒々しく性急に自分だけの快楽を追うだ けだったが、彼が安代の中にいるという充足感だけで、安代は十分満足した。彼女は何度でも夫 に応じた。夫が荒々しい吐息を洩らして彼女の上に身を伏せるとき、安代はそんな夫の胴を下か ら優しく抱いて、しんそこ幸福のため息を洩らすのだった。 秋のはじめ、敬作は潜水学校を首席で卒業した。そしてひきつづきそこでの実地訓練に入った。 こ 0

2. 加納大尉夫人

47 加納大尉夫人 にてな島 感ま人安よいるの昭 情では代った戦我和 の妊安がて。死が十 起娠代妊ア本を部九 伏しの娠メ土遂隊年 のて実にリがげが六 中い家気力戦た七月 4 にるにが軍場と月十 身つはに発七五 っとをい日な表日日 わに寄た本るし早 り気せの本のた暁ァ のがては土も 徴つい、空時もりリ 候かたそ襲のう全力 がな。んの問国力軍 まか既な基題民をは ぎつに時地、の挙サ れたそだをな誰げイ 込ののっ得どもて んは時たたとが最ン 。のい、後島 で しい安敬でうそのに まっ代作あ新の攻上 もはがる聞現撃陸 た敬妊何。記実をし た作娠度事を敢た めが五目 が直行 だ出かか大視し七 航月の見した月 たすに出出な後十 。る入航しい、九 彼たろかでわ十日 女びうら出け / はにと帰たに日大 敬起しっ 。はま本 作るてた サいで営 が憂すいば イかには 帰鬱たか パな全サ ンく員イ つや。り て激そで占な壮 / んづめ かったかのように、取っておきの。 ( イナップルの罐詰やチョコレートを出して来て歓待した。 帰り途、大戸を下ろした街筋を歩きながら、安代は川上夫人に手を伸ばしたのは、敬作が安体 と間違えたためであったことを、川上大尉に説明することが出来なかったことを残念がった。 ぶぜん ると敬作は憮然として、 「説明してもしなくとも、同じことだ」 レ」いっこ。

3. 加納大尉夫人

陽を浴びて輝いたりしながらまるで夢のようにすいすいと進んで行くのだ。 「ああ、お母さん、見てごらん、あれやわ、あそこ、敬作さんやわ、敬作さんやわ」 思わず安代は叫んだ。誰もいない艦上、司令塔の右下に、ただ一人立って帽子を高く上げてい る黒い人影を彼女は見たのだ。 「どれ、どこにイ ? どこ ? どこ ? 」 たもと そう訊く母にとり合っている暇は安代にはなかった。安代は熱狂して、 ( ンケチと袂とをメチ ャメチャに振った。 「敬作さーん」 と安代は叫んだ。 「行っていらっしゃーい」 潜水艦と手を上げている敬作の姿は、淡路島の陰を出てみるみる小さくなって行った。もう何 も見えなかった。水平線は空の光の中に融け込んで、眩ゆくかすんでいた。 人 「ああ、行ってしもたーーー」 夫 大安代はいった。わけもなく彼女は笑った。 納 「型でんな。大型艦隊型」 と知ったかぶりで船頭がいった。安代ははしゃぎ、舟をわざと揺らせて母を怒らせた。 その年の秋、敬作と安代は結婚した。敬作が二十七歳、安代が二十歳の時である。安代の友達

4. 加納大尉夫人

平然と彼はそういった。 「わたしはいややというてるの」 そういってから安代は急いでいい足した。 「けどそれは加納さんがタコみたいな頭してることと関係ないのよ。わたしは誰とも結婚しと うないの、それだけのことやの」 すると敬作は急に厳しい表情になって訓戒するようにいった。 「それは実に不幸な考え方です。不幸というのは不自然だから不幸なんです。女が結婚しない で、一体、何をするんです。女に何が出来るんです : : : 」 二人が結婚について話をかわしたのは、その時だけだった。その後、彼は安代との縁談のこと など全く忘れたようだった。彼は朝、安代が寝ているうちに家を出て、夕方六時にきっちり帰っ て来た。安代と彼は夕食のときに顔を合すだけだった。安代は音楽学校の試験を受けてまた落第 した。彼女の母はそれを、二人の仲を進めるチャンスだと考えた。安代はそんな母の下心を察し、 夕食の席でわざと敬作を侮辱したりした。 大ある日曜日、姉の子供たちが大勢やって来て、敬作と隠れん坊をして遊んだことがあった。安 納 代も誘われてその仲間に入った。偶然、安代が飛び込んで行った押入れの中に敬作が隠れていた。 ほうぎ 掃除用具などを入れておく狭い押入れである。箒やモッ。フやハタキなどがぶら下っている暗がり ぞうきん の中に、安代と敬作は向き合って隠れていた。足の間に雑巾バケツをはさんだ敬作は、安代の胸

5. 加納大尉夫人

くるのだ。人々はそのことをそういっていた。 そんなある日、昼食の席で安代の母と敬作が激しい口論をした。安代の母がこんな戦争をはじ めた軍部の不明について愚痴をこ・ほしはじめた。それに対して敬作はかって見せたこともない荒 っこ 0 荒しい声できめつけるようにいナ 「そういう言葉は今、いう時ではありません」 けしき 母は気色ばんで敬作の無智を笑った。敬作はを投げるように置いて叫んだ。 「必然があったのです、必然が : ・ そこまでいって、彼は後をつづけることが出来なかった。その顔はれ上ったように真赤だっ こぶしふる ひざ た。膝に置いた拳の慄えを押えようとして、彼はじっと肩に力を入れ、うつむいていた。母は居 たけだか 丈高になっていた。 「貧乏人がいくら刃向うたとて、金持に勝てるわけがありませんがな。丁稚のストライキの方、 がまだましや」 人 いきなり敬作は立ち上った。そうして母に向って吐き捨てるようにいナ 「非国民 ! あなたはそれでも日本国民ですか : : : 」 大 加彼は大股に部屋を出て行こうとして、気がついて安代をふり返った。 「親を選ぶか夫を選ぶか、君の心に任せる。よく考えた上で、来るのなら前田屋にいる」 敬作が発って行った次の汽車で、安代は夫を追った。妊娠中の安代の身を案じておろおろして おおまた っこ 0 でっち

6. 加納大尉夫人

に身体がくつつかないように両腕を壁に突っぱって身体を支えていた。彼の鼻は安代の頭の上に あって、一生懸命に息を殺していた。そのとき突然、安代は笑いたくなった。クスクスと笑うと 「シーツ」と真面目に敬作がいった。安代はまたクスクスと笑った。「シーツ」とまた真面目に 敬作がいった。安代は肩を慄わせて笑いはじめた。笑うに従っていっそう新しい笑いがこみあげ て来た。やがて子供が押入れの戸を開けた。敬作ははじめて大きな口を開けて笑った。二人は笑 いながら押入れから出た。押入れから出た後も、安代の笑いはいつまでも止らなかった。 敬作が急の命令で呉へ発って行ったのはその翌日のことである。彼が行ってしまった翌朝の目 ぎわ 醒め際に、安代はかって味わったことのなかった、わけのわからぬ空虚感にしめつけられた。彼 から 女の肉体は、彼女の前に横たわっている人々が、空つぼの時間のひろがりであるようなうすら寒 さを感じた。そのひろいとりとめのない時間の中にぼつんと置かれた安代は、どこへ行けばよい さび のか、何をすればよいのかわからず、ただ淋しくて所在がないのだった。安代は起きてビアノに 向った。だがいつもの単調な、指の訓練のための練習曲を弾くことが出来なかった。安代は即興 的にセンチメンタルな曲を弾いた。するとその曲は彼女の心を静かな雨のように濡らし、やわら かくなった心はそのメロディに乗って、快いもの悲しさの中にさまようのだった。 日が経つにつれて、安代はことあるごとに敬作のことを思っている自分に気がついた。街や電 車の中などで海軍士官の姿を見かけるたびに、敬作ではないかと胸がときめいた。敬作はそこに ぼうちょう いないことによって、安代の中に日一日と膨脹しつつあった。そうしてもうこれ以上は安代の胸 ふる

7. 加納大尉夫人

人の姿や、葱畑や大根畑や、その間に作られた海兵団への新しい白い舗装道路などを静かに照ら していた。そしてそれらの景色の中に、敬作の実地訓練の期間が、一日一日と縮まって行った。 安代は日に一度はそのことを思うようになった。海軍では成績のいい者ほど、戦果を挙げること の出来る激戦の場へ派遣されるのだ。誰に教えられたともなく、安代はそんなことを知っていた。 だが敬作と安代の間では、戦争の話は不思議と出なかった。特に意識して避けるというよりは、 そんな話題を持たないという習慣のようなものが、二人の間に出来ていたのだ。戦争は安代の遠 くの世界で行われていた。戦争と安代との間に、敬作が立ちはたかっていたのだ。 「昨夜、君の夢を見た。君が泣いているので女々しいと思って立ち上ったんだ。それで目が覚 めた」 突然、敬作がそんなことをいった朝、はじめて安代は、戦争が敬作を乗り越えて安代に向って ばくしん 驀進して来るのを感じた。敬作は戦争という言葉を使ったわけではなかったが、安代にはそのと き一瞬、戦争という黒い大きな波の中にばらばらに呑み込まれて行く自分たち夫婦を見たような 気がしたのだった。 かわかみ 安代が川上大尉の夫人と親しくなったのはその頃である。川上大尉というのは敬作より二期先 うわさ 輩に当る大尉で、どことなく軍人らしくない色白で平らな顔をした士官だった。噂によると彼は まだ一度も戦闘に出たことはなかったが、それは練習艦隊で練習をしている間に艦をぶつけて破 損させるので、その修理に追われて戦闘に出る暇がないのだということだった。川上夫人は安代 ねぎ

8. 加納大尉夫人

「うむ」 と敬作はいった。それから安代が、それを見るたびに胸が痺れるように感じる白い真直な歯並 を見せてにつこりした。 「どうしていた ? 」 優しく彼はいった。彼は床柱によりかかったまま、今まで見たこともなかったような柔和な表 情になって、じっと安代を見つめていた。彼は痩せ、顔色は悪く頭髪が伸びていた。しかしその せいかん めじりしわ ためか、目や頬のあたりに精悍さが増していて、笑うと目立つようになった目尻の皺が、安代に 新しい魅力を感じさせた。 安代は何もいうことが出来ないで、ただそんな夫を見つめて坐っていた。彼女は今にもその場 にお に倒れるかと思われた。彼女の身体は、敬作が立ち上って来て、その海の匂いのしみこんだ強い 腕で抱いてくれるのを待ち望んで、今にも失神せんばかりだったのだ。だが敬作は、床柱の前か らいった。 「よく降るなあ、夙川もやつばりこうか ? 」 それから敬作は黙ってこっくりした安代を見て、笑いながらいった。 「何をそんなに固くなってるんだ。腹が減った、飯を頼んでくれ」 ほお しび

9. 加納大尉夫人

いる母に向って、玄関を出て行きながら安代はこんな言葉を投げつけた。 「お母さんの非国民 ! 国賊 ! 」 呉への汽車に揺られながら、このまま流産してしまったら、子供が敬作の身代りとなって、敬 作は不死身の軍人になるかもしれないと、そんな考えがふと安代の頭をかすめた。 二人は再び中佐の離れを借りた。がそこは前とちがって出撃するにも艦がなく、ただ命令を待 づてごろごろしている独身士官たちがいつばいだった。彼らは酒をのみ、大声でさらばラバウル よ、と歌い、中佐はただ苦りきって部屋に閉じこもっていた。 敬作が最後の戦闘に出たのはその年の十二月も押し詰った日のことである。安代の出産予定日 ば十日後だった。十二月二十六日の夕方、敬作は軍港から帰って来ると、壁に帽子を懸けながら っこ 0 「明日出ることになった」 あと十日で 思わず安代は咎めるように敬作を見つめた。それから目を逸し、こう思った。 生れるのに だが彼女は何もいわなかった。黙って彼女は台所に立った。何回くり返してもこ の瞬間の、ふいにつき落されたようなショックには馴れることが出来ない。ああもう我慢も限度 に来た、と安代は流しの前につっ立ったままもの狂おしく思った。こんな思いをくり返すくらい なら、 いっそ敬作が死んでしまった方がいい 安代は夫にそういいたかった。そうしたらどん なにさつばりするだろう。 そら

10. 加納大尉夫人

せんたく 天気のいい秋の日がつづき、安代は町の人々と並んで川端で洗濯をした。そこで菜っ葉を洗うこ いなか ともあった。雑貨屋の主婦は、安代に田舎料理の作り方を教えてくれた。また端ぎれで下駄の鼻 緒の作り方や、足袋の縫い方なども教えてくれた。雑貨屋には小学校へ行っている男の子が四人 あこが いて、四人とも海軍軍人を志願していた。敬作は彼らの憧れの的だった。彼らは敬作の後をつい て歩き、彼が潜水学校をトップで出たことをあちこちの子供に自慢してまわった。 安代が、勉強している敬作の横顔が、いっからか陰気に沈んでいることに気がつくようになっ たのはその頃のことである。団扇で風を送っている安代がふと気がつくと、机に向っている敬作 の上半身は彫像のようにじっと動かず、目は書物に落ちたきり読んでいる風もなくただ一点を見 まゆ ぎげん つめている。眉はいつのまにか機嫌悪そうに寄せられ、そのままの姿が三十分も一時間もつづく のだ。安代が呼んでも、その声が耳に入らないようだった。ふと上げた目が安代の目と合ったと ほとん き、その目の中に、殆ど憤りを耐えているかのような暗い憎しみに似た光が燃えていて安代を驚 かせた。 夫やつばり自分は敬作には不満な妻なのだろうか。安代にはそれが不安でたまらない。いくら努 力しても人間というものは、そう簡単に自分を変えることは出来ないのだ。夫が出かけてしまっ 加た後、安代は何度かそう思った。 呉市とはちがってこの町は、のどかな田舎町ではあったが、それでも海軍士官の家族は大勢い て、その連中との交際は絶えたことがない。ときどき日曜日に町の料亭で開かれる士官たちのク ふう げた