いく - みる会図書館


検索対象: 向い風
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1. 向い風

「ははははは。そんな、い配、いらないよ。健らは毎晩いい中だア。」 「だからいしは馬鹿だというのヨ。そんな馬鹿だからこそ、ゆみに亭主をとられたのヨ。そ でもまアだ眼がさめねえで、そんな寝一言っつたれてる。もし俺が新屋に寝泊りしてなけりや、 健はとっくにゆみと寝てらな。ははははは。」 「くそ婆め。」 いくは半泣きでわめいた。そして、兵助の屋敷へ乳母車を押して行くなか婆さんに、有り八 もちろん たけばうき せの竹箒をふり上げた。しかし勿論、打ちかかるだけの勇気はなかった。そして、ひる飯ど ~ には、自分の方から婆さんに話のロをきった。 「婆ア。健はほんとに東京さ土方に出るつもりだっぺか。」 「出るつもりらしいな。」と、婆さんもいつになくみを入れて答えた。「健は、何しろ、まじ くらし 、いつばいに、い配してる。それに、ゆみのこともえらく案じている′ な男だから、家の生活を だよ。どんな風にして、このがきめと一緒にくらさせてやっぺかと思ってナ。」 「そんなら、あのあまに、このがきめをつけてやっぺな。誰もこんながきが欲しくて、世話《 すると言ってるんじゃねえんだから。」 「だけど、おいく。それでは、このがきに、田畑をだいぶ持って行かれるぞ。きのうの晩も、 健が言ってたつけョ。光夫は、田畑を分けてもらう権利を持ってるんだから、ゆみはそれを ~ って、ここに住んでればいいんだって。とにかく、健は何とかしてゆみを引き止めようとし るんだから、はたの者がいくら騒いでも無駄だよ。それよりも、健がゆみよりも、とよのあ ~

2. 向い風

向 風 いくには、それはあんまり気持ちのいい応酬ではなかった。彼女は前もって庄三とゆみの間 に、何かの話し合いがあったのではないかと疑った。いくはぶつつけるように、 「俺も半日休むかな。」 「どうそ、 ) 」遠慮なく。ははははは。」 庄三はふざけ調子力 ど。いくはそれも誠意がない一つの証拠だと口惜しかった。 やがて雑草を車につみ、その両わきにいくとゆみが腰かけて、一一キロの帰り道。もちろん、 いくもゆみも黙っていた。 さて、ゆみは昼飯も食わずに手足を洗って着物を着かえた。一年にかぞえるほどしか結ぶ機 会のないひとえ帯は、まだ真新しくて、びんと結び目に張りが出た。 いくはそんなゆみを、 " おしゃれあまめ ~ と土間から横目で睨んでいた。 やがてゆみは下におりて、 「じゃ、おっ母さん。半日ひまを貰うよ。」 「半日といわす、ゆっくりしてくるさ。」 いくはそっぽ向きで答えた。 しかしゆみが戸口に出ると、いくは追いかけるようにその後姿に眼をやった。 特別すらりとしているわけではなかったが、ゆみは後姿がよかった。殊に今日は、葬式の日 のパーマがまだ消えぬせいか、いやに引き立って見える。それに帯の結び方も、まるでくろう あかぬ と女のように垢抜けている。いくは、じりじりしながらも、ゆみの若さと美しさを認めないわ くや

3. 向い風

向 風 も二騒ぎも起るんじゃあるまいかョ。」 いつになく、婆さんはしんみりと言った。いくは、つい引きすりこまれて、 「そうョ。俺もそれが心配で、こんやはおやじを向うへやるまいと思ったんだよ。そうすりや この家のために、仕方なしに、あのあまに子供を産させたと言っても筋が通るものな。それが 健が生きてるのがわかっていながら、まだいっしょだというのでは、健も世間も承知しない 「やつばり、庄の野郎は、あのあまにだまかされているんだよ。どうも百姓にしては、あのホ ま、姿がいいかンな。」 にたっと婆さんは笑った。老人らしくもない揃った歯並が、いやに白く光って見えた。い ( はぞっとして、 「もう寝べよ。」と電灯を消した。 つもは気にならない土間の電灯が、いやに強い光を流 けれども、いくは寝つけなかった。い してきて、婆さんの白髪頭まで浮き出して見せる。いくは起き上って、しきりの破れ障子を引 それからしばらくたって、なか婆さんは大きないびきをかきはじめた。まだ寝つけないいイ は、たまった小便をたれに、裏戸をあけて外へ出た。 ばそぼそと新屋から話声がもれる。或いはと、いくは足音をしのばせて窓下に近よった。 思いの他、はっきりきこえた。

4. 向い風

だか、庄三たちは黙っている。事がいささか重大なので、うかつにはロがきけぬと用心して のことだろうか ゆみはじりじりして、 とっ 「お父つあん、どうだっぺか ? と、催促顔に庄三を見た。 庄三は、 ーむ″と鼻でこたえて、ゆっくり煙草をつめる。″そんなことは聞きたくない″ といった様子でもあり、また、ゆみの申し出は至極当然だとうなずいている様子にも見える。 結局庄三の思惑は、はたの者には読めなかった。 女房のいくは、それをもどかしがって、 「お父は、どうするつもりだか。何とか返事をしてやらなくちゃ、ゆみだってどうしていいか わからなくて困っぺな。」 どな とたんに、庄三が呶鳴った。 「ばかー うるせえ。」 「おや、まあ、なんだっぺ。お父は俺こと、どなりつけたりして : いくは、薄笑いしながら、ゆみに視線を向けて、 らち 「だまってちゃ、 いつまでたっても、埓があくまいよ、なア、ゆみ。」と、その同意を求めた。 すると、なか婆さんが頤を突き出して、 きのう 「だけンど、昨日健の葬式出したばっかしで、もう今夜、出るの、退くのと、ゆみも薄情すぎ らアな。庄が腹立てるのもむりがねえど。」と口を入れた。

5. 向い風

向 風 それは一つには田畑の仕事が、しきりにゆみの手を待っていたからである。 あ・とさく 実際、苗代では苗が伸びはじめ、畑では麦が後作を待つように穂を揃えていた。たんぽでは、 かえる もうすぐ田植期だぞと、蛙が警告顔に歌っている。こんな時、一番の働き手のゆみを失うこと は、農家として致命的だ。そこで、少くとも田植が終るまで、誰も彼も、ゆみを引き止めてお きたかったのだ。 たいひ こんなわけで、その日の午後、ゆみが里芋の肥料を堆肥俵につめていると、 「そのこやしじゃ、きっと、いい芋が出来べよ。」と、めずらしくなか婆さんがお世辞を言った。 芋種を選り別けていたいくも、 くも、婆さん同様、半分はゆみへのお 「それに、今年は種もいいからな。」と附け加えた。い 世辞心からだった。 た愛、庄三だけが、ゆみのこしらえる堆肥俵を、次々牛車に積み込みながらいやにむつつり おしだまっている。しかしその庄三も、いざ、牛車を挽き出そうとする瞬間に言った。 「ゆみ、乗ったらよかっぺな。」 「じゃ、自家用車で。 ゆみは笑って、車の端に腰かけた。 いくと、なか婆さんは、それを見送りながら、この分なら、ことしの田植は大丈夫だと安心 した。 さて、畑につくと、庄三は先ず一服煙草をすいつけた。

6. 向い風

228 向 今頃は田畑だってどうなってたかわかるもんか。」 「なんだか婆アはこの頃いやにあまの肩を持つけんど、俺はいっそのこと、飲み屋の女の方が すっときらくでよかったよ。それなら世間にもねえ事じゃなし、誰にも肩身の狭い思いをしな くてすむかンな。それが、あの畜生あまに引っかかったばっかしに、俺は健にまで遠慮気兼を わら して、おまけに世間に嗤われて : : : 。婆アだって、こんながきめの守で、さんざいやな思い したっぺな。」 「だけど、どの腹から出ようと、俺には実の孫だかンな。おかしなもので、守をしてるうちに 風けっこう、可愛くなってしまったよ。ははははは。」 いくはばかんと口をあけた。完全に背負い投げを食った気持ちだった。いくはうかつにも、 これまでなか婆さんの実孫として光夫を考えたことが一度もなかったのだ。 けれども果して婆さんはどの程度、それを本気で言ってるのだろうか ? 或いは自分へのい やがらせに、そんな事を口にしただけに過ぎないのではなかろうか ? いくはたしかめるように婆さんの顔を見た。 おさなごひとれ 婆さんは歯を見せて笑っている。それはいつもの嘲り顔ではない。婆さんはじっと幼児の暗 ぶいと飯の席 に見入りながら、無意識に笑っているのだ。いくは裏切られた者の孤立感で、 立った。 ところで、そんな婆さんの変化を、兵助の女房はいち早くかぎつけて、亭主にも言ったこと ダ」っア」 0

7. 向い風

向 そっと眼瞼をあけると、空がばっとバラ色に燃えた。 ゆみは思わず、庄三にしがみついた 「ゆみ。大丈夫だ。いくのあまなど、何とぬかしてもかまうもんか。な、ゆみ。」 ーマの髪をだいじがるように、ずれた手拭をひき上 やがて庄三はゆみの上体を抱き起し、 ゆみは抱えた膝に顔を伏せたが、急にきつくん、きつくんと引き吊るように肩をふるわせた。 おも 彼女は罪の意識と後悔の念いに責められているかに見えた。けれども、彼女をゆすぶるもの 風は、実は激しい置りだった。しかし、何に対して贋っているのか、ゆみ自身あきらかにするこ とが出来なかった。 もだ 庄三は悶えるようなゆみのすすり泣きにまごまごして、 「ゆみ、おれが悪かったかな ? 」 「ちがうよ。」 : 。だから泣かないでくろよ、なア、ゆみ。」 「俺はお前が好きで : 「俺は、辛いんだよ。」 「じゃ、ゆみが辛くねえように、俺はどんな方法でも講じるよ。一一人で別に世帯を持ってもい いんだぜ。」 「いいや、俺はくやしいんだよ。だって世間は、たれもかれもあの人が戦死したことなんかそ っちのけに、きっと俺を責めるにきまってる。俺はそれが : : : 。」 かか

8. 向い風

向 243 ます 桝ではかると、ボロ袋の中身は、たつぶり三升だった。 「五升、まちがいなし。一升百六十円で八百円だが、千円でつりをもらう代りに : 「もう米はだめだよ。」 「じゃ、甘藷でももらうか。おっ母さんとこの甘藷は、家の子供らにも評判がいいんだ。一一曾 目もあればたくさんだよ。」 「でも甘藷は穴の中にあるんだよ。」 「おっ母さんは穴にはいれないのか。」 「梯子をおろせばいくらでもはいれるけども。」 「それじゃ俺が梯子をおろすよ。」 いくは、〃そんなら〃と、急いで新屋の裏に廻った。そこに二間半の梯子が架けてあった。 男はそれを外し、いくがふたをとった甘藷穴に、器用に掛けおろした。 「じゃ、俺がおりたら、この籠を下げてくろ。」 ひらかご いくは、縄に結えつけた平籠を男に示した。 うなず 男は一つ大きく首肯いた。 いくは手拭をかむりなおし、草履の爪先に力をこめて梯子をおりる。 「ほら、籠をおろすよ。」と男は穴をのそいた。 いくは横穴に顔を突っ込んだ。そのとたんだった。するすると、 「あいよ。」と答えながら、 梯子が上に動きはじめた。 さつま さつま

9. 向い風

向 風 160 こういうのと同じロで、もともと比較するのがムリな話だ 人権ちゅうものがあって大変いし よ。なア、健さん、そうじゃあるましカ ) ゝ。よ十まキは。」 「じゃ、まあそんなところで引き分けとして、こんどは兵さんとこのを挽くかな。」 庄三は腰を上げてベルトを外した。 。やがてモーターは、兵助の庭先で唸り出 周吉と兵助がもみすり機をリャカーに乗せる : した。 「健、締まっかな ? いくが作業あとを片づけながら、少し危ぶむように健一に言う。 「さあ、どうだかョ。」 しかしとたんに、健一はどんと俵を足で蹴って、きゅっと両手で縄をひく。鮮かな締めぶり 十 / 十′ 「ははははは。その調子なら大丈夫だ。いくら百姓上手でも、そればかりは女にはやれないか らョ。まあ、ゆっくり、無理せぬところで締めてくろな。」 そしていくは、あたりのこばれ米を掃きよせて鶏舎にまきに行った。 さんだわらと ゆみは黙って、桟俵を綴じている。これも技術の要る仕事で、いくには手が出なかったのだ 「俺のことで、いろいろ心配かけたようだが。」と、健一はいくが遠ざかるのを待って言った。 「あの話は、進めてもらうことにするよ。そうすれば、お前が、安心のようだからな。」

10. 向い風

向 風 240 いるからだ。つまり、″争議は未解決だったのだ。 こんな中に三月もいっか半を過ぎて、今日は早や彼岸の入り 。いくは、畑仕事に出かけよう とする健一ととよに小ざるを出して、「畑のヘりに、どっさりもち草が出てるはずだからョ、 そろ 帰りに刈ってきてくろ。あとでよく揃えるから : : 。仏は、草餅が好きだったかんな。」と言 っ・」 0 とよが小ざるを受け取って、自分の背負い籠に人れた。 いくは、仏壇の掃除をはじめた。物音がいやに高く反響した。いくは、つくづく一人なのが わかった。 ちーん、ちーん。頭の上で時計が鳴った。 「おや、まだ八時か。夜の明けるのが早くなったかンな。」 いくは一人ごと。 ガラスど その時、がらっと人口の硝子戸が外からあいて、 こんにち 「おっ母さん、今日は。」 「どなただっけね ? 」 「俺だよ。忘れたのかい、おっ母さんは。」 くちもと 男はずかり土間にふみ込んだ。しかしいくには、その茶色の眼鏡にも、ロ許のひげにも、そ して男にしては白過ぎるようなその顔色にも、さつばり記憶がなかった。 男は上り框に腰かけ、ジャンパーの胸ポケットから煙草を取り出して、 かまち ば