向 風 「くそあまめ。穴ン中さつつこちりやいい気味だ。」 なか婆さんは、ロを横長にして言った。よくよくの憎悪を表現する時の、婆さん特有のロ一 きである。 いくはぞっとして眼を伏せた。実は、それとそっくりの思いがし ) くの胸の中でも駈け廻一 ていたのだ。 その穴は、深さ二間半、奥行き一間半。終戦後はやり出した甘藷の貯蔵室で、今では庄三 ( 近所は、たいてい一つ二つ持っている。それはこの地下室は、冬期でも十五度の温度を保コ いて、貯蔵の甘藷に、殆んど腐敗の危険がないからだった。 ところで、この横穴に甘藷を貯えるためには、どうしても二人の手が要った。 一人が上か 3 吊り下げ、それを一人が穴の底で受け取らねばならないからだ。 庄三は当然のこととして自分で穴に降り、ゆみに甘藷を吊りおろす役を受け持たせた。 ゆみはモンべの足をふんばって、繰り返し繰り返し、甘藷のかごをおろした。それは、も , 一 妊娠七カ月めのゆみには決してらくな作業ではなかったが、家の軒端から、じっとこちらを んでいる四つの眼を意識すると、彼女は、負けるものかと一層作業に張り込んだ。 ぐるのが年来の習慣だった。 五
向 風 161 「俺は、話をきめるまでに、もう一ペんじっくり二人きりで話してみたいと思っていたんだが どうも、いつもいつも見張られているようでな。」 「俺が、君のため、国のためということで、危く生き埋めにされかかったみたいに、お前も のためにということで、そういう目にあっているのがやっとわかったよ。」 「ちがう。俺は、家のためなんて考えちゃいないよ。」 「俺は、俺は : しかしゆみにはその先を一言うひまがなかった。なか婆さんが二人の邪魔立てが目的のように がらから乳母車を押してやってきたからだ。 ゆみは光夫を抱き上げたが、いつものような笑いは、ついに浮かんでこなかった。 そろ その夜、健一は家族が揃ったところで言った。 「俺は、とよちゃんさえ承知なら、別に文句はないよ。」 すると、いくか 「いや、文句はあっぺけんど。」とすぐ健一の言葉を受けて、「どうせこんな家へは、他から のきてがあるまいからョ。」と言った。 したあご その針を含んだ言葉や調子に、庄三は下頤を雨蛙のようにひくひくさせて、 「ばかあま。それじゃ、いしは、せつかくの縁談にケチをつけるつもりか。」
向 142 風 「熱いお茶が欲しいなあ。」 ばつりと健一が言った。夕食で満腹していながら、健一には、まだ大きな饑餓感がのこって いた。それはまた、はらわたに滲み通るような冷たい索漠感でもあった。 ゆみは茶釜の湯を沸騰させ、急いでお茶を淹れる。 「うまい。もう一杯。」 ) くは苦い顔た ゆみは嬉しそうだが、し たか、いくが想うはど、健一がゆみの接待に満足しているわけではなかった。むしろ、ゆみ の淹れてくれるお茶が、熱くのどにしみとおればとおるほど、健一としては辛かった。彼はそ の辛さをこらえるように、じっとポケットの上から匙をつかんでいた その匙には、ゆみの想像どおり、いろいろの思い出があった。そしてその思い出には、健一 自身、あれは嘘ではなかったか、間違いではなかったか、それとも自分の錯覚ではなかったか と、今もって怪しまずにはいられないような事もあった。たとえば、健一たち百五十人の捕虜 じゃがいも の一隊に、バケッ二杯の馬鈴薯の夕食。うすい糊のようなスープに作っても、それは一人あた り匙に七杯に過ぎなかった。しかし、とにかくその七杯のスープを、この匙は健一のロへはこ んでくれたのだ。 すく 時には食器の底に小豆の数粒が沈んでいて、それを掬い上げるのにこの匙は骨を折った。又 のち ある夜半、健一たち三人の親友は、文字通り生命がけの冒険で、収容所わきの倉庫から二本の とうもろこしをぬすみ出し、ぐたぐたに煮つめてうまい夜食を作ったが、その時もこの匙はその のり きが
向 風 267 しかし健一は黙って沼のほとりに立ち止った。去年の十二月はじめ、ゆみと並んで腰かけた あの木の腰掛が、今もそこに四本足を立てていた。 「ゆみ、一寸休もうじゃないか。」 やがて健一が言った。 「でも休んでると暗くなるからョ。」 「暗くなれば家まで送って行くから大丈夫だよ。」 「だけど、どこまで送ってもらっても同じことだもの。」 侘しい現実が、健一の胸を横切った。 「それに、とよも、おっ母さんも待ってるだろうから、もうこの辺で帰ってくれていいよ。」 どて 「それじゃ、小貝の堤まで送るとしよう。あの橋まで行けば、ゆみの村が見えるからな。」 健一はまた自転車を押しはじめた。 国道は相当の交通量だった。けれども、健一もゆみも、殆んどそれには気がっかなかった。 二人は二人だけの世界のように満足だった。 だがその世界も、今は一歩々々縮まって行くのだ。 「ゆみ、今の先、俺が言った、あの耕耘機のことだが、俺はもちろん今年や来年には、とてム ( ーしし・カな 6 し - カ あんな高いものは買えないよ。だから機械でゆみの田うないを助けるわナこよ ) ゝ くわまんのう かし、鍬、万能でならいくらでも助けられると思うんだ。」 わび ちょっと
向 風 242 「は。は十 ( ま。い ) しいよ。別段お茶を人れてくれなくても、おっ母さんの親切はもうそれ でわかったよ。それじゃ、米の五升も買っていくか。」 男は軒端においた自転車のハンドルから、灰色によごれた空のリュックを取り外した。 「おや、まあ。まだ売るとも言わないのに、気の早い人だこと。」 「そこが江戸っ子だよ。」 「そんなら、値段ももうちっと気前を見せりやいいじゃないか。」 「いやア、これはやられた。じゃ、百六十だ。これがロあけだから、なんでも、かんでも買わ なきやげんが悪いんだ。」 「でも、五升きりだよ。」 「けっこうだよ。」 「あんまりやっては、嫁に勘づかれて、いや味を食うからな。」 いまどき 「ははははは、今時の嫁は、遠慮えしやくがないからな。」 こめびつ 男よ ) くの尻を追って竈わきの米櫃に近づき、リュックのロを開いた。 いくは手早く二升はかりこむ。 「おっ母さん、五升の約束だよ。」 「わかってるよ。三升はこっちだよ。」 いくは裏部屋に駈け上り、ボロ人れ行李からボロ袋をひき出した。 そっぽ 男は反方向きにニャリ笑った。
林 芙 美 子 著 浮 重 ボめ外 口に地 布はか の街ら 如の引 く女き 捨に揚 てなげ らるて れしき 死かた 三れた 三破る みにべ し恋食 のたは つ子 だかき んなゆ 女 林 芙 美 子 著 新 放 浪 記 記生貧 帳き困 をるに も一あ と人え にのぎ 構女な 成性が しら たも 著記向 者風上 のに ) い 伝雑く 自た強 のめす 日とわ きき失 若書を 野 上 弥 生 子 著 秀 と 利 休 描激秀 写動吉 とのの 独時寵 創代愛 的にを な生う 着きけ 眼たな で二が 浮巨ら 彫人 りの死 に葛を し藤賜 たをつ 歴、た 史丹千 小念利 説な休 野 上 弥 生 子 著 真 知 子 心、ズ日 にム本 、のの 知嵐社 識の会 人中を たでゆ ち、さ の社ぶ 古ムつ 悩学た やを昭 生学和 きぶ初 方若期 をいの 描女マ く性ル 長をキ 編中シ 平 林 子 著 っ む く 女 外的自 のな分 男、の とも夫 のうに 異一不 常人満 なはを 愛心も に理っ 溺的二 れな人 て。の い彼女 く女 姿た をち人 描がは 破夫肉 。以体 岡 本 か の 子 著 老 妓 抄 究表明 し題治 た作以 著を来 者はの のじ文 円め学 熟、史 期い上 のの 名ち屈 作の指 9 不の 編思名 を議編 収なと 録情称 す熱さ るをれ 。追た
向 259 風 「それを聞いて、俺も大安心だ。俺はまた、ゆみが待合奉公でもするんじゃないかと心配し たよ。」 もちろん 健一は軽く冗談をとばした。そしてゆみも勿論それが冗談なのを知っていた。だが彼女は一 ざと不服そうに、 「おや、待合の女中じゃいけないのかい。」 そして思い出したように、「そう、そう。 いっかも、俺が待合にいたのを隠してたといって ひと お前は怒ったことがあったつけね。でも、待合で働いている女は、台所女中でも、お座敷女宀 げいしやしゅう でも、それから芸妓衆でも、みんないい人たちだよ。俺は今でも、あの時いっしょだった人 ~ ちが、今頃はどこでどうして暮しているかと、思い出したり、案じたりしてるよ。だってあ ( くらしす 人たちも、みんな俺とおんなじように、家の生活を助けるために出てきてたんだもの。俺と〔 はっ ちくら っしょに台所働きをしていたお初さんは、千葉の千倉とかいう漁村のうまれだったし、お座 よう ふみ 女中のお葉さんは岩手、お文さんは山形で、この二人は、昭和九年の東北の飢饉で、村の娘 といっしょに東京へ出てきたんだと言ってたよ。なんでも、その頃の金で、美人は八百円、 美人は六百円、下の美人は四百円という相場で : 「下の美人はヘんだな。」 健一は笑った。 ) しささか、ゆみの表現がおかしくもあったが、一つには、その話のいきづ士 りそうな圧迫感からのがれるためだった。 ゆみも、ふと気がついて、
向 風 183 ゆみは、はっきりそれを感じた。しかも一方で、ゆみはそれはあり得べからざる とだと思った。ごが、 オ現実はゆみを押しのけて冷酷無比に迫ってくる。 「大丈夫だ。なーに、大丈夫だとも。」 仙太郎は、庄三の片手を握りながら一人でつぶやきつづける。 なか婆さんは、いつの間にか寝床から這い出して庄三のふとんの裾に坐っていたが、健第 自転車で飛び出すのを見ると、 「一番ええ注射、たのんでこう。」と喚いた。 それは長い長い時間だった。時には、時間という観念さえもゆみの頭から消え去った。そー ふる て、いくとなか婆さんには、その時間の長さは恐布だった。二人はぶるぶる慄えながら仙太 により添っていた。 「婆ア、大丈夫だから落ちついてろ。おっ母さん。心配するな。」 仙太郎は、なおもつぶやく。しかし、仙太郎は、既に庄三がこときれたのを知っていた。 れども、死は、医師の宣告によってはじめて確定するのだ。それまでは、「大丈夫だ。なーに 大丈夫だとも。」 さて、一時間たって、やっと健一の案内でやってきた医師は、「残念でした。」と、聴診器屮 鞄に人れながら言った。 からだ 「心臓マヒでがしようか。」と、仙太郎は、はじめて声と身体を慄わせた。 「こういう寒中に、急に温度のちがった状態に身体を置くと、とかく、こういう症状を起し ~ かばん
向 風 「ゆみ。わかったよ。なア、ゆみ。」 「あ。」 「俺は、これで、死んでもいい。」 「俺は死なないよ。死ぬわけがねえもの。」 「いや、死んでも、満足だというのさ。な、ゆみ。ゆみ : うめ ゆみの呻くような声が、い くの心臓を突き刺した。いくは、よろけるように窓下を離れた。 連れ添って何十年、死んだ女児を人れて二人の子供を産んだいくだったが、彼女はあんなに こうふん しのちの も昻奮した庄三の呼吸を、ただの一度も聞いたためしがない。ましてゆみのように、 ) 果のような呻きなど、てんで覚えのないことだ。 やがて寝床にもぐったいくは、曲りかけた腰を一そうえびのように曲げて涙をこらえた。隣 室ではなか婆さんがまるで何もかも知っているぞというように、ごそごそ物音をたてていた。 ところで、ゆみは誰かの足音を聞いたように感じて頭を動かしたが、庄三は両手ですぐそれ をおさえて、 「それじゃ、健が帰ってきても、ゆみはきっとこのままだな。」 「だって、それしかないもの。」 「しかし、健は、腹を立てるだろうな。」 「今ごろ生きているのが悪いんだよ。」 「でも世間は、きっといろんな事をいうよ。」
向 274 風 離婚の手続きをすませて家路につくゆみと健一を描写する場面は、かなしくも美しい 「しつかりつかまってろ。振り落すかもしれないからな。」 健一はいいながら懸命にペダルを踏み出した。 ゆみは言われるままに健一の綿入服をつかんでいた。その指先に、健一の緊張した筋肉の かっ 躍動がむくむくと伝わる。曽てはゆみのものだった、この肉体。ゆみは、したたかどやしつ あ、今頃生きてやがっ けてやりたいような焦燥を感じて、又しても胸底深くつぶやいた。″ て、こん畜生 ! そうして生きていくことの悲しさを作者はつぎのようにかく。 また 健一はたしかにゆみを思っていた。そしてゆみも亦健一を他人とは思えなかった。 きつりつ だが、二人の間には、現実の壁が屹立している。それは今の姿勢では、とても乗り越え切 れない壁だと、ゆみは観念している。それでも壁の向うに健一が生きているということは、 ゆみにとって何というほのばのしさであったか。だがゆみは針に糸を通そうとして、ふっと その焦点がばやけたのを感じた。涙が眼尻を伝って流れた。庄三のいのちの哀れさ。それは ゆみには、自分を含めて、生きている人間の悲しさだった。 作者は前進的な人間としてゆみを描きながら、そこに秘められた人の悲しみをたんに情緒の 世界にとどめることをせず、その悲しみの元凶ともいうべきものをあきらかにしながら、しか し人はまた悲しみによっても成長するという民衆のしたたかさをしめすことによって、人間尊 厳の歌を高らかにうたいあげた。