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検索対象: 向い風
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1. 向い風

向 風 237 「おい、おっ母さん。今日はおゆみさんにも一杯ついでもらおうじゃないか。小崎の兄さんも、 さっきから、おゆみさんはどうしたかと心配してるんだぜ。」 「そのゆみの事ですがね。」 ひざがしら いくは、しきりに膝頭のあたりをなでながら、「困ったことに、今日も健とごたごたしまし てネ、とてもあれじゃ、これから先、いっしょに住めねえですよ。一つ、今日は、どうしたら いいか、相談に乗ってもらいてえですョ。健だって、辛い立場ですかンね。」 「いや、それは話がちがう。」 くちぶり 健一は、思わず強い口吻で言った。「おふくろは、まるで見当ちがいをしてるんだ。」 「それですよ。」と、しかしいくはより積極的に、「健は、なんだ、かんだと、ゆみをかばい立 てしましてネ。でもそれじゃ、家の中はうまくいきません。それで、光夫はこっちで育てるこ とにして、ゆみはどこぞへ嫁にでも : : : 。」 「それはおゆみさんの考え次第で、おいくさんの心配したことじゃあるまいぜ。」 山太郎は、 いいながら、健一と安雄の顔に素早い一瞥を投げた。健一には苦の色があった。 安雄の表情もそれに近かったが、しかし彼にはもう一つ憤りめいたものが走っていた。彼は手 にしていた杯をびたりと伏せて、 「いや、よくわかりました。ゆみは、今日すぐ連れて戻ります。まったく、ゆみは、こちらに ご迷惑をかけるばっかりで : 。俺は、この家のため 「でも、小崎の兄さん。そういわれると、俺がまるで悪いみたいで いちべっ

2. 向い風

「あんな鬼婆さんでも、伜に死なれてみると、やつばり仏心が湧くと見えて、この頃、めつき り光夫ちゃんの守のしぶりがちがってきたよ。でも、ああなると、もう先は長くないな。」 とむら おしようしきいまた 「今日はひるからお葬いがありましてな。」と、村の住職、田村泰良和尚は閾を跨ぎながら言った つまりそのため、午後からの予定だった庄三の初七日法事を、和尚は午前中にすませたいキ いうのだ。 あかり いくがあわてて仏壇に燈を人れる。 なか婆さんは仏前に座蒲団を敷いて、 こんにち 「和尚さん。今日は、ご苦労さんでござんすよ。」 「いやア、早いもんですな。もう初七日。」 はんにやしんぎよう 和尚は黒い衣の裾をばらり開くようにして仏前に坐ると、さびのある声で般若心経を唱えは じめた。 ひざ 健一はだまって和尚のうしろに膝を曲げた。 いくは土間に向いて手招きしながら、 「とよ、早くこっちさきて坐ってくろよ。」 とよはエプロン掛のまま、すぐいくのそばに寄って行った。

3. 向い風

うしく 周囲六里の牛久沼だった。 「ゆみ。ゆみ。」 庄三は暗がりに向いて声をかけた。「夜露は坊主に毒だよ。」 ゆみはだまって光夫を新屋の蚊帳の中に連れ込んだ。 九 田の草、畑草に追われているうちに夏が過ぎ、稲刈りに追われているうちに秋が過ぎた。ム「 日は、もう十一月二十四日。そして、ことし最後のソ連引揚だといわれている第六船団のト プ高砂丸は、もし予定通りにいけば、今日あたり舞鶴に人港する筈だった。 庄三は、朝からそのことが気がかりだった。しかしゆみは平常と何の変りもなく朝飯を食い ももひき 光夫にたつぶり乳をのませ、股引をはいてたんぽに下りる支度をした。 庄三は、季節外れのアレン台風で、今日はたんぽに水がふえたのを口実に、一日仕事を休 うかと考えた。けれども、ゆみの身支度を見ては、自分も尻を上げないわけにゆかない。やが て庄三は牛車をひいてたんばに下りた。 しししながら、季節はずれのせいか空はどんより曇ってうすら寒かった。 台風のあととよ ) ) 「こんな仕事には向かない日だな。」 ししながら、仕事前の一ぶくをすいつける。 庄三は、 ) )

4. 向い風

向 風 240 いるからだ。つまり、″争議は未解決だったのだ。 こんな中に三月もいっか半を過ぎて、今日は早や彼岸の入り 。いくは、畑仕事に出かけよう とする健一ととよに小ざるを出して、「畑のヘりに、どっさりもち草が出てるはずだからョ、 そろ 帰りに刈ってきてくろ。あとでよく揃えるから : : 。仏は、草餅が好きだったかんな。」と言 っ・」 0 とよが小ざるを受け取って、自分の背負い籠に人れた。 いくは、仏壇の掃除をはじめた。物音がいやに高く反響した。いくは、つくづく一人なのが わかった。 ちーん、ちーん。頭の上で時計が鳴った。 「おや、まだ八時か。夜の明けるのが早くなったかンな。」 いくは一人ごと。 ガラスど その時、がらっと人口の硝子戸が外からあいて、 こんにち 「おっ母さん、今日は。」 「どなただっけね ? 」 「俺だよ。忘れたのかい、おっ母さんは。」 くちもと 男はずかり土間にふみ込んだ。しかしいくには、その茶色の眼鏡にも、ロ許のひげにも、そ して男にしては白過ぎるようなその顔色にも、さつばり記憶がなかった。 男は上り框に腰かけ、ジャンパーの胸ポケットから煙草を取り出して、 かまち ば

5. 向い風

向 236 風 「おゆみさんはどうしたか ? 仙太郎はなじるようにいくの顔をみた。 ひと いくは他人ごとのように、「どうしたかョ。」 仙太郎には読めた。ゆみの立場は、いよいよ " おかしく ~ なってきているのだ。 さて墓参がすんで、三人の男たちは供養の酒宴である。そして銚子が何本か空になるうちに、 しゃべ、 話題もさまざまに屈折した。けれども喋りてはいつも仙太郎で、健一と安雄は聞き役だ。する と仙太郎は、そんな二人の無口さをからかって、 「おい、お前ら、今日は初七日だというのに、まだお通夜のつもりでいるんじゃねえかよ。 あきら いかげん親父のことなんか諦めて、ちっと元気を出すもんだ。なに ? 供出がまだすまねえか らそいつが心配だって ? 供出なんぞ、かまうもんか。自分の米は自分の米だ。飯米までとら 一ンープでもトラック れてたまるもんか。″敵は幾万ありとても、すべて烏合の衆なるぞ : ・ ) 。よよよよは、 ) , ったい。 , わ / 崎の兄き。ことしもまた超過供出で一儲けするん でも持ってこし じゃねえか。わははははは。」 「ははははは。」と、安雄はただ笑うばかり。彼は身長五尺六寸、体重十七貫で、仙太郎に言 わせると模範的な百姓型。酒量も相当なものだったが、決して飲んで騒ぐたちではなかった。 ふんいき それに今日は家の雰囲気にとげが感じられて、彼はすっと坐り心地が悪かったのだ。 そして、それは飲んで騒ぐ仙太郎とても同じだった。彼はとうとう、酔ったまぎれのような ロぶりで、 0 ひともう

6. 向い風

ところで、互いに言葉少く朝飯をすませた家族は、今日はどの仕事に手をつけたものかと、 てんでの考えを追っていた。それはもちろん仕事が多過ぎるからの気迷いで、畑作の手人れを しょ・つゆ はじめ、焚木とり、藁細工、さては味噌、醤油の手配と、どれもこれもやり過しのきかぬもの ばかりだった。 「松葉だけでもさらっておかなくちゃな。」 とうとう、仕事の暗示を与え顔に、なか婆さんが言った。「雨でも降ると、またさらえなく なるからョ。」 しつまでも放っとくと、他人にさらわれちまう。」といくも言った。 「それに、 ) とこ そさい 松葉は、年間の竈の燃料だった。それに、蔬菜の苗仕立にも、それは床材料として欠かせな かった。しかし、松葉のさらえる松山は、殆んど山林地主の所有である。なか婆さんは昔から、 地主の家へ幾日か働きに行くことを条件に、松葉さらいの権利を確保してきた。そして、その 契約は、今も引きつづいて生きているが、同じ契約は、山林をもたない農家ではたいてい結ん でいる。だから、余りに時期がおくれると、つい " 越境 ~ されてしまうのだ。 「じゃ、今日はやま行きだ。」 健一は威勢よく牛をひき出した。自分の計画した仕事ではなかったが、いわれて見れば成る 程妥当な手順だった。それに、松山での焚き火は、健一には久しぶりの故郷の味た。 ゆみは光夫に乳をふくませる。これも、山行きの準備だ。そしてとよは花嫁らしく新しい紺 の手甲をきりりと巻いた。 たきぎ ひと

7. 向い風

向 庄三が酒の匂いを持ちこんだのは、もう夜半近くだった。 「男というのはいいもンよな。煙草をすったり、酒を飲んだり。」と、いくはとげとげしく言 しかし庄三は一言も返さず、ぐーっと眠ってしまった。 むらさな あくる日は村早苗ぶりだった。いくは習置通り赤飯をふかした。けれども、庄三も婆さんも、 うまいともいわすにむしやむしや食った。食ってしまうと、すぐ仕事である。乾し上げた大麦 は、のげをこづき取って俵にしなければならぬ。穂のままの小麦は、さっそく脱穀機にかけね 風ばならぬ。それに、畑の草。たんばの草。昨日半日仕事を休んだのが、今日となってはいまい いらだ ましい。そしていくは、それもこれもゆみのせいだと苛立った。 しきいまた それにしても、ゆみはどんな面で戻ってくるだろう力し ) 。 ) くは何十回となく、閾を跨ぐ瞬間 のゆみを想像した。 カカいくの想像はどれもこれもあたらなかった。ゆみは、特別きまり悪そうでもなければ、 また意気揚々としてでもなく、ごくあたりまえに″ただいま〃と戻ってきたのだ。 なす それはもうすっかり日が暮れてからで、いくは味噌汁の実に茄子を刻んでいたが、ちょいと 振り向いたきり彼女は黙っていた。なか婆さんは、そのいくの顔に素早い一瞥をくれた。かま どの火焚きをしている婆さんには、振り向いたいくの顔がまともに見えたのだ。 とっ 「今日は天気がよくて、せわしかったろうな、お父つあん。」 ゆみは、着がえをしながら言った。「朝のうちに帰ってきべと思ったけンど、実家の方もち ひた

8. 向い風

向 風 158 「時と場合によってはな。」 「そしたら、女房とがきめを質におくべよ。おやじが飢え死にしては、家がつぶれるかンな。」 うな おくてもみ しかしその兵助も晩稲が米になり、モーターが唸りをやめると、流石に気がかりらしく、 「健さん、今日の新聞、読んでくろ。さっき谷口さんが言った、ポッダム何とかいうところを な。」と、ほこりで白くなったまっ毛をしばたたきながら言った。 庄三もやはり今日の新聞にはまだ眼を通していなかった。彼は新聞を健一に渡して、 「俺もきくべ。」と、兵助と並んで作業筵に尻をおろした。 ゆみといくは、その男たちにお茶を配ったが、健一はお茶をのむひまもなく、 「食確ポ政令きのう施行」と、初号見出しから読みはじめて、「政府では第・ハ臨時国会で不成立 となった食確法改正案の取扱につき検討中であったが、七日午前の持ち廻り閣議でポッダム政 令として「食糧確保のため臨時措置に関する政令」を公布することに決定、即日公布施行した。 従来の食確法では超過供出に各府県とも、もちろんその完遂に全力をあげてはいたものの、 責任供出とする法的根拠を持っていなかったため、実際には単に目標量を示すにとどまってい たが、今度の政令で法制的裏づけが行われ、割当の遂行不能となれば強権発動ができる。この 適用を受けるものは米、麦、さつま芋、じゃが芋など主要食糧の全般にわたっている。」 「それじゃ、もうこれからは、供出割当の相談なんか、しても、しなくても同じだな。」 兵助は、うそ寒い表情で言った。 だが周吉は、「いや。」と即座に反撥して、「ポ政令のおかげで、一層割当の相談が必要にな さすが

9. 向い風

向 一瞬、庄三は足をとめたが、 「じやア今夜つから、俺にこっちで寝ろというのか。」 「だって、生きてるんだよ、健は。」 「バカあま。健が生きてりや、こっちも生きてるんだ。」 庄三は閾を蹴るようにして外に出た。 「今にみてろ、今に : いくは、しかしその言葉をぐっとのみ込み、びしゃんと下戸を閉てた。時計が九時をさして さて、いくが部屋に上がるのを待っていたように、なか婆さんが寝床から首をつき出した。 婆さんは下屋になったその裏部屋に、もう何十年も寝床をとっていた。もちろん電灯もなくて、 夜分は真っ暗だったが、自分の身体のようになれ切っている婆さんには、さして不自由なく寝 起きができた。 いくは、しかし、今夜は特に婆さんにかかり合いたくなかった。彼女は部屋の隅に積み重な っている自分のふとんをのべにかかった。 けれども、婆さんはもう半身を起して、 あき 「呆れけえった畜生らョ、なア。」 「でも婆ア。 ) しちいち気にしてると長生きできねえから、俺はもう寝るよ。」 「おめえが、そう諦めているならいいけンど、しかし、これで健が帰ってきてみろな、一騒ぎ したど

10. 向い風

向 風 268 「じゃ、俺は、田植を助けに行くよ。」 「ゆみこそ、ほんとうかい ? 」 「だって、百姓同士だもの。助け合うのはあたりまえだよ。」 健一はその言葉に、必死で甘藷穴から母親を助け上げるゆみを見た。しかしそこにあるもの すがた は感動というよりも、むしろ健一には悲痛の相だった。彼は暗然たる思いで、 「ゆみ、今日は、すまなかったなア。」 「何のこと ? 」 「おっ母さんのことだよ。」 ゆみは暫くだまっていたが、 「考えてみると、俺たち百姓は、みんな甘藷穴につき落されて、蓋をされてるみたいじゃない のかな。」 「いや、まったく、そんなところだ。しかし、突き落されているのがわかれば、這い上る努力 きっと をするからな。いっかは屹度地上に出られるよ。一番しまつに悪いのは、突き落されている事 実をしらないで、甘藷穴の中で一生暮してしまうことだよ。」 「でもそんな人には、先に甘藷穴から出たものが、梯子をおろしてやればいいんだよ。」 「そして時には、背負って上ってやるか。」 「だって、それが百姓のよしみというものだもの。」 きょ・つカ / 、