向 風 113 またまた健一に向って言った。「ソ連の男女関係というものはどんな具合ですか。日本の夫、 妻というような観念はなくて、飽くまでも同志的ですか。」 「自分には、そういうことはよくわかりませんでした。しかし、見たところ、みんな幸福そ , っ でした。とにかく妻もちゃんと働いていて、男の労働に寄生しているわけじゃないのですから 日本の場合とだいぶ違うのはたしかです。」 「日本だって敗戦後はすっかり様子が変りましたよ。男に寄生する女が減ったというよりも、 ですよ。とにかく土地を所有していて、 女を養える男が減ったんですね。その点農家はいい の土地を中心に一家が団結して行くんですからね。ですから今でも農家では、嫁や婿は労働力 しことですよ。 として家にもらうものだと考えていますが、あれは結局生活安定のためにはい ) 女にしても、たった一人の男にたよるよりは、家に附属していた方が安心じゃないですか。」 ゆみは窓の外を見ていた。けれども彼女には、話し手の眼が、さいごには自分をのぞいたの がわかった。 「なるほど。」 健一は短くなったたばこを、なお捨てかねるように指先につまんでいる。 しですね。 「しかしまあいずれにしても、あなたのように故郷があり、土地がありする方はい ) もちろん、今日までのご苦労は並大抵ではなかったでしようが、こんどはその分も併せてきっ としあわせになれますよ。じゃ、元気でやって下さい。お疲れのところ、すっかりお邪魔しキ した。」
「結局人間は環境には勝てませんからね。日本に帰れば、日本の風習に従って生きるのが一番 しあわせですよ。ですから僕など、若い諸君がソ連の教育を受けて、向うにいるうち熱心な共 産党の信者になっていても、ちっとも不都合だとは思いませんね。こちらに帰って、米の飯に 味噌汁を食うようになれば、けっこう人生観が変ってきますよ。どうですか、こうしてお帰り になって、自分で、見聞きされてみると、向うで言っているのとには大分喰いちがいがあるん じゃないですか。」 「僕には、まだよくわかりません。」 「しかし、だんだんわかってきますよ。向うでは、日本の百姓はひどい暮しをしているように 舌よまるであべこべですよ。敗戦で一番とくをしたのは百姓 宣伝しているとか聞きましたが、言し 一反歩が米で五升という安値 です。土地は解放されて自分の所有になるしね。それもあなた、 でですよ。」 「しかし、土地は安く所有できても、作った米麦が強制供出では、昔とあんまり変りがないん じゃないですか。」 「いや、とんでもない。強制供出といったところで、それは販売上の形式の問題ですよ。供出 米には、パリティ計算といって、最も科学的に算出された価格が支払われるんですから、むし ろ自由市場で買いたたかれた昔より、米作農家は保護されているわけです。」 「いや、旦那。」と、その時ゆみの隣り客が口を入れた。「全くお説の通りです。供出の割当が じか 重いの、軽いのといってみたところで、農家はけっこう、自家保有米以上に残していますから
「へーえ。そうかね。」 なか婆さんは、相手を冷笑するように、ちょっと唇を反らした。相手は目前の女房だけでは いくも、ゆみも、そして生きている健一も、今の婆さんには冷笑の対象だった ない。庄三も、 「それで、おっ母さん、健は今どこにいるんだって ? 」 婆さんは、突いた杖に力をこめた。 「ロシアの、カラカンダというところらしいよ。」 「あ、ロシアか。ロシアというのは、この前、日本といくさをして負けた国だっぺね。」 「でも、こんどの戦争では、日本が負けたんだよ。」 「じや健は、今でもそこにつかまっているのかい。」 「そうだよ。」 「そうじゃ、帰れねえんだな。」 「いや、そのうち帰ってきべよ。新聞でみると、もう大勢帰ってきているものな。」 なか婆さんは、ひったくるようにハガキを女房の手から取り戻した。 もう、冷笑の余地はなかった。婆さんには、何もかもがいまいましかった。ことに健一の生 還から起こるであろう破滅的な一家の紛争を、たのしく心待ちするだろう近隣を思うと、婆さ んはいち早く自分の口から言わすにいられなかった。 うち 「おっ母さん、これで家の畜生らも、きっと青くなるな。いい気味だよ。ははははは。」 婆さんは、杖をつくのももどかしく、とっとと家に駈け戻った。
向 風 276 わたしたちにとっては驚くべき先見だと思われるが作者にとっては戦争責任というものを果 たしてこなかった日本という国の必然をいっているにすぎないのだろう。 失礼をかえりみずいわせてもらうなら、住井すゑさんはこけの一念でもって差別を描きつづ けている作家である。 それは大作「橋のない川」を成した作家だからいうのではなく、あらゆるいのちを慈しまず にはいられない土の作家として、いのちの優しさを阻むものに対して容赦のない怒りを、弱い とされるいのちに対しては限りない愛を抱いている作家だからわたしはそういうのである。 親しくお会いするときの住井すゑさんはいかにも温容である。どこに激しい闘志を秘めてい られるのかと思うほどであるが、強い民衆愛を持った人はこの人のように限りなく優しいもの なのであろう。 いつまでも長生きをなさってお仕事をつづけてくださることを心より祈りたい。 ( 昭和五十七年八月 )
「向い風」は恐るべき先見性を持った作品である。 農地解放直後の農村を舞台に、戦争が生んだ不条理の中の人間葛藤を冷徹な眼で描きながら 真の人間の尊厳とは何かという問いを鋭く放つ。 戦争によって引き起こされた悲劇とはいえ、義父との相姦によって一つの生命を身ごもる らちがい みという人間像の創造は、封建的なものの最大の犠牲者でありながら、あらゆる権力の埒外に あるという意味において衝撃的である。 一九五〇年代の後半に書かれた作品であるにもかかわらず、このような人間を創造しえたこ とは、作者が日本の農村と農民の中に深くわけ入って、かれらを凝視し、共に泣き笑い、そー てかれらからものを学んだことと決して無縁ではあるまい うめ この作品を読み終えて誰もが呻きたくなるほどの感動に襲われる理由の一つは、これほどキ でに濃密な生活感覚でもって一篇の文学作品を為したという点である。 登場人物が躍動しているなどというようなものではなく、体臭やロ臭までにおってくる人 と人間の関係が時にはあざとく、時にはたえがたいほどのいとおしさでもってせまってくる。 解説 かっとう 灰谷健次郎
「あたりまえだ。」と健一は強く受け止めて、 「なにも、互いに嫌いで離婚したわけじゃなし、憎むことも、啀み合うこともないじゃな ) 「それでも、これから家の中が一層複雑になることだし : : : 。」 「しかし俺は、決してお前を不幸な目にあわせるようなことはしないつもりだ。」 「それが、却っていけないんだよ。俺は、もっとひどい目にあわされた方が気がらくだった。」 「しかし離婚以上に、ひどい目の合せようがないじゃないか。俺たちは、今日から、もうほん とに他人なんだぜ。他人には親切にせよというのが日本古来からの訓えだからな。俺はお前を 自転車に乗っけて帰ってやるよ。さあ、乗りな。」 がいとう 健一は自転車をとめ、荷かけに自分の外套を敷いた。 まぶた ゆみは眼瞼をおさえた。悲しい涙だった。それ以上に切ない涙だった。しかしゆみは、その 涙のまま、ひょいと荷台に腰かけた。 「しつかりつかまってろ。振り落すかもしれないからな。」 健一はいいながら懸命にペダルを踏み出した。 ゆみは言われるままに健一の綿入服をつかんでいた。その指先に、健一の緊張した筋肉の躍 動がむくむくと伝わる。曽てはゆみのものだった、この肉体。ゆみは、したたかどやしつけて ) ' あ、今頃生きてやがって、こ やりたいような焦燥を感じて、又しても胸底深くつぶやした。 " ん畜生 ! かえ かっ
向 「天皇さまを粗末にすると、ばちが当るよなア。」 「じゃ、おっ母さんは、今まで天皇さまをだいじにしていたから、ばちが当らなかったとでも いうのかい。」 健一は、 ) ) ししながらゆみの顔を見た。ゆみの反応を知ろうとしているのが、ゆみにはわかっ た。ゆみはうなすいて、 「俺は、その反対だよ。俺はこれまで天皇をあがめ奉ったおカゲで、ひどい目をさらったんだ としか思えない こんどの戦争に引っ張り出されたのだって、天皇の命令じゃないか。」 けじろ 風「ばちあたりな ! 、といくは気白んで、 くさって : 「天皇さまがあっての日本の国じゃないか。それを天皇さまが悪いみたいにいい それに、あのお姿は明治天皇さまだ。こんどの戦争にや、何んのかかわりもねえお方だ。」 「それじゃおっ母さんは、俺が戦死すれば、おっ母さんのだいじな天皇さまに忠義立てが出来 て、大よろこびするところだったのかい。」 「健、それは話がちがうぞ。健が死んでよろこぶのは、ふん、誰だかよオ。」 したど ちょうどその時下戸があいた。庄三が帰ってきたのだ。彼は土間にうつ伏せになっている額 しばら を暫く不思議そうに見ていたが、 「健が外したのか。」 「そうだよ。まさか俺が帰るまで、そんなもの架けとくとは思わなかったなア。」 こんなものがある 「そうだ。気をきかして外しておくとこだったな。しかし俺は、どいこい、 149
誰に食わせるつもりだか。」と、厭味たつぶりに言ったことだったが、彼女には、六年ぶり 帰ってきたむすこに、事もあろうに甘藷の塩煮を食わせようとするゆみが、涙がこぼれるほ【 忌々しかったのだ。ところがその甘藷を、健一は何よりも珍味として満足している : " くそあま。なんて男をだますのが上手なんだっぺ。 くや いくは忌々しさを通りこして口借しかった。 けれども、いくのそんな気持ちを知る由もない仙太郎は眼を細くして、 「健さん。やつばり、ふるさとはよかっぺ。甘藷なら、穴ん中に腐るほどある。あしたから 貫目すつも食えば、たいてい、腹がくちくなるよ。いくらソ連がいいの、共産党が好きのと〔 ってみたところで、うまい甘藷が食えない国ではつまるめえ ? 」 「おや、健が今までいたとこでは、甘藷がとれねえのかい ? なか婆さんはびつくり顔で健一を見た。 仙太郎は、身体を大ゆすりにゆすって笑いながら、 「だって、婆ア、日本のうちだって、北の岩手や青森では甘藷ができないので、みんな茨城〈 ら送るんじゃないか。健さんのいたところは、それよりもっともっと北の寒い国だもの、甘 なんか見たくも見られないよ。」 「それじや健が甘藷を珍しがるの、むりねえワな。」 婆さんは少し笑って、そのはすみに大皿の秋刀魚を、猫のようなすばやさで自分の茶碗に き込んだ。 からだ いやみ
向 134 風 でアメリカに渡ったそうだよ。新聞には死体を乗せたトラックが、夜中に横浜の火葬場へ行く 写真など出したけれども、あれは国民をあざむくためだそうだ。そりや、そうだろうよ。とに かく世界を相手にあれだけの戦争をやった人たちだ。アメリカだって、殺して損なことぐらい こして、一働きも一一働きもさせるつもりでいる は知っている。今にソ連と一戦をやる時は参謀ー そうだ。」 こんどは谷口周吉が言った。 「まさか。」と仙太郎は苦笑したが、兵助はいやに緊張して、 「いや、それは、もしかしたらほんとかもしれないな。」 「しかし、そんなデマを信じるようでは、大里兵助の清い一票が泣くぜ。」 はははははと男たちは笑った。女房たちも仙太郎のいう意味を理解したわけではなかったが、 とにかく一しょに人った。 「そういえば、昔、源義経も北海道へ渡って、えその王様になったというが、あれもやつばり イり一三ロカな」 谷口周吉は、急に自信をなくしたロぶりでいうと、首をすくめて杯を干した。 「僕は船の中で聞いたんですが。」と、健一は兵助に返杯して、「西郷隆盛も、城山で死んだん じゃない ロシアへ亡命していて、今に日本へ還ってくるという説が、明治二十四年とかに出 たそうですよ。明治二十四年というと、おやじが生れる前だから、おやじもこの話は知るまい
向 風 272 それは日本の民衆の中に普遍的に存在してきた土俗性であり、生命観なのである。 こしらえものとしての道徳や押しつけられた倫理をはねとばしてしまうはどの力を持った生 命力としての楽天性を、この物語に登場する人々の中に見ることによって、わたしたちは逆に、 権力というものの醜悪さ、非倫理性を見る。 義父の子を生んだゆみが復員してくる夫を迎えに出ようとして吐くセリフがある。 「 : : : 先のことなんか考えても無駄だよ。それこそ取り越し苦労だよ。俺はもう何べんもお くらし 父に言ったけど、今の生活を、俺はちっとも後悔していない。だから先のことも、どうしょ うなんて思わないよ。これがきものを裁ち違えたとでもいうなら、ついだり、はいだりもで きるけんど、死んだ筈の人間が生きていたという、とんでもねえ間違いだもの、考えたって、 苦しんだって、どうにもなるもんか。それよりも、こんな坊主がいるということを、じかに 見せるんだよ。」 この物語の圧巻でもあり、作者の思想の凝縮とも思える場面で、このようなセリフを吐くゆ みがスターリンの肖像を生理的に拒否もするのである。 彼女は積りに積った疲労が、一時に灰色の塊になって全身をとざしでもしたように、何事 にも手を出す気力がなかった。それは正しくは " 絶望 ~ だった。けれども、天皇の代りに掲 げられたスターリンの肖像が、なぜそのような絶望感となって圧し迫ってくるのか、ゆみに 解き明すことが出来なかった。そしてその解き明すことの出来ないもどかしさに、ゆみは一 層絶望した。 おら