りを打って、 「それより、お父ももう寝たらよかっぺな。」 庄三は全身蚊帳の中に持ちこんだ。 「な、お父。俺はこの間も小崎のおっ母さんに言ったろうネ。俺は、世間のいうとおり畜生か もしれない。だけど、もうこれ以上畜生にはなりたかねえから、あの人が帰ってきても、ずつ とこのままでいる。そうすりや、光夫が今に、俺を " 母ちゃん ~ とよんでくれる : : : って。」 「でもゆみは、まさか本気に、これを畜生ぐらしだと思ってるんじゃあるまい ? 」 「あたりまえだよ。」 かす ゆみは微かに笑った。 「俺もそれで安心した。」と庄三もカづいて、 「俺は、何かで見たおばえがあるんだ。それは、ラジオにも出れば、新聞にも写真ののるえら い先生だが、その先生は、男と女は、お互いに愛情があれば、たといそれが昔の修身の本では ほめられないような関係でも、決して畜生関係じゃなし ) 。けれども、それと反対に、立派な結 婚式をやり、立派な家に住んでいても、その夫婦に愛情がなけりや、これは畜生にも劣るみじ めなくらしだというんだ。だから、ゆみ、俺たちは世間からどう言われようと、ちっともはず かしがることはないと思うんだよ。ただ、その、一つ気がかりなことがある。それは、なア、 ゆみ。」 庄三は、言葉を切るといっしょにゆみの顔をのぞき込んだ。
向 風 る時には、俺がちゃんと媒介人をたのんでくるから、おっ母さんは心配しないでくろな。」 媒介人と聞いて、さわもはっとした。彼女は自分の非常識を指摘されたように感じた。彼女 は急に声をおとして、 「こんな子供もいることだし、いったいどうしたらいいのか、俺もさつばりわからなくなって しまったんだよ。」 それがさわの真実の声だった。 ゆみも胸がふさがった。彼女は、途方にくれたように、 近よって、 「ほらよ。」と、光夫を抱きとった。 「まあ、えっかくなったこと。」 さわが頭をなでると、光夫はにつと笑いかけ、そしてかくれるようにゆみのふところに首を 突っ込んだ。 万し ) 解決のいとロはどこにもみ その夜、さわは新屋に泊った。話は夜半までつづいたが、辛し つからなかった。 朝になってゆみが言った。 「おっ母さん。俺も世間から畜生呼ばわりされてるのは、よオく知ってるよ。それに、おらは、 ほんとに畜生かもしれないよ。だけど、もうこれ以上畜生にはなりたかねえからョ、あの人が 帰ってきても、すっとこのままでいるよ。そうすりや、光夫が今に、俺を " 母ちゃん ~ とよん ただじっと光夫を抱いている庄三に
タタッ : : : と、健一は五六歩小走った。言ってはならぬ事を言ってしまった後悔が、彼を ~ わてさせたのだ。 どとう けれどもその一瞬が過ぎると、憤怒が怒濤のように彼をゆすぶった。 「畜生、畜生っ ! 」 健一は道ばたの小石を拾っては投げ、拾っては投げた。 けれども沼は何の抵抗も示さず、彼の怒りも悲しみもそのまま呑みこみ顔に、悠然と曇り ~ に対している その時、ジープが五台、さーっと疾風のように走りすぎた。と、そのあとからよろめくよ , に自転車があらわれて、 「おお、健さん。」 きとう それは健一たちの媒介人の鬼頭仙太郎だった。 「あ、鬼頭さん。」 健一は、つかんでいた小石をばとり足もとに取りおとした。 「よかった。」 あえ 仙太郎は喘ぐように口を上向けた。懸命にペダルを踏んできたのが、健一にもゆみにもよ , わかる。 やがて仙太郎は自転車の向をかえて、 「俺は汽車がつく三十分も前から牛久の駅で待ってたんだよ。常磐線で帰る者は、みんな十一 うしく
向 風 涙が顔を蔽ったゆみの両手をぬらした。ゆみには、健一の戦死をはじめ、自分の生活が強制 された不当の連続としか思えなかった。しかもその不当に抵抗すれば、周囲は彼女を責めるに ちがいないのだ。しかし、″畜生 ! 〃と、ゆみはやがて全身に力をこめて、 「お父。」と庄三に呼びかけた。 「おう。」 庄三は反射的に応えた。それは庄三にとって、ぐいとペニスを握られたようなショックだっ た。するとゆみは「お父。」ともう一度呼びかけて、 「俺は、決心したよ。」 庄三はかっと全身が燃えた。 とっ 舅のうち、彼は " お父つあん ~ だった。それは周囲一般のしきたりである。けれども「お 父」は、まさに子供を中心にした妻からの称び名なのだ。 「ゆみ。」 庄三は涙にぬれたゆみの手を、硬い自分の両手に抱えこんだ。 麦の葉が一枚、折れてその手の甲に貼りついていた。 おお こわ
でくれる。おっ母さん。いくらりこうでも、畜生には " 母ちゃん ~ とはいえないからね。」 「そうともな。」 さわは、ゆみの言葉の意味をかみ分けるひまもなく相槌を打った。そして、寝ている光夫の ほっぺたに唇をあてた。 庄三は、もう田植の身支度を整えていた。 ″あの人は生きてるんだもの、今にきっと帰ってくる。 / この思いは、ゆみにとって、悲しみであり、苦しみであり、それでいて、また一つの希望で もあった。そして、この単純でない希望は、日に何べんとなくゆみの胸を去来して、彼女に、 息を吐かせ、唇をかみしめさせた。 ところでその夕方も、ゆみははだしで野道を急ぎながら、ふとまたその思いにとらえられた すると、いつになく、どっと涙がこみ上げて、ゆみは危く 声を上げそうになった。しかし、ゆみはこらえた。この頃のゆみは、泣くという事が、また一 つの新しい苦しみになるのを知っていたのだ。 ゆみはすたすた足を早める : : : 腹を空かせている光夫をみつめて、彼女はひたすら家路をい そぐ : : : 。光夫を胸に抱きとれば、あらゆる思いが、すーっと退くのがわかっているからだ。 ″あの人は生きてるんだもの : あいづち
「へーえ。そうかね。」 なか婆さんは、相手を冷笑するように、ちょっと唇を反らした。相手は目前の女房だけでは いくも、ゆみも、そして生きている健一も、今の婆さんには冷笑の対象だった ない。庄三も、 「それで、おっ母さん、健は今どこにいるんだって ? 」 婆さんは、突いた杖に力をこめた。 「ロシアの、カラカンダというところらしいよ。」 「あ、ロシアか。ロシアというのは、この前、日本といくさをして負けた国だっぺね。」 「でも、こんどの戦争では、日本が負けたんだよ。」 「じや健は、今でもそこにつかまっているのかい。」 「そうだよ。」 「そうじゃ、帰れねえんだな。」 「いや、そのうち帰ってきべよ。新聞でみると、もう大勢帰ってきているものな。」 なか婆さんは、ひったくるようにハガキを女房の手から取り戻した。 もう、冷笑の余地はなかった。婆さんには、何もかもがいまいましかった。ことに健一の生 還から起こるであろう破滅的な一家の紛争を、たのしく心待ちするだろう近隣を思うと、婆さ んはいち早く自分の口から言わすにいられなかった。 うち 「おっ母さん、これで家の畜生らも、きっと青くなるな。いい気味だよ。ははははは。」 婆さんは、杖をつくのももどかしく、とっとと家に駈け戻った。
向 一瞬、庄三は足をとめたが、 「じやア今夜つから、俺にこっちで寝ろというのか。」 「だって、生きてるんだよ、健は。」 「バカあま。健が生きてりや、こっちも生きてるんだ。」 庄三は閾を蹴るようにして外に出た。 「今にみてろ、今に : いくは、しかしその言葉をぐっとのみ込み、びしゃんと下戸を閉てた。時計が九時をさして さて、いくが部屋に上がるのを待っていたように、なか婆さんが寝床から首をつき出した。 婆さんは下屋になったその裏部屋に、もう何十年も寝床をとっていた。もちろん電灯もなくて、 夜分は真っ暗だったが、自分の身体のようになれ切っている婆さんには、さして不自由なく寝 起きができた。 いくは、しかし、今夜は特に婆さんにかかり合いたくなかった。彼女は部屋の隅に積み重な っている自分のふとんをのべにかかった。 けれども、婆さんはもう半身を起して、 あき 「呆れけえった畜生らョ、なア。」 「でも婆ア。 ) しちいち気にしてると長生きできねえから、俺はもう寝るよ。」 「おめえが、そう諦めているならいいけンど、しかし、これで健が帰ってきてみろな、一騒ぎ したど
向 風 「そのハガキ、どこへおいとくか。」と、やがて婆さんが言った。 「でも、健は生きてはいても、帰れねえんじゃあるまいか。」 いいながら、はじめて涙ぐんだ。 「バカあま。生きている者は、いっかきっと帰ってくらな。」 婆さんは光夫を下ろした。光夫はぐっすり眠っている。婆さんは、ねんねこに光夫をくるみ、 荷物のように上りはなにころがして、 「そうだ。ハガキは、このがきめの上にのつけとくべ。そうすりや、なんでも、かんでも、あ の畜生あまの目につくよ。」 いくは抵抗しなかった。彼女はハガキを婆さんに渡した。 さて、昼飯に戻ってきたゆみは、はっとして、そのハガキを取り上げた。 ゆみは瞬間、ぐらっと身体がゆれた。 きーんと、耳底が鳴った。 すべてが無限の空間に思えた。 「なんだ ? くぎ のぞいた庄三も、そのまま釘づけの形である。いくは、せわしく昼飯の支度をつづけている 彼女には、とても庄三やゆみの顔色がうかがえなかった。 だか、なか婆さんはチラシ広告でもあるように軽くハガキに頤をしやくって、 「それ、健が書いてよこしたそうだけども、まさか健は生きてるんじゃあるめえ ?
向 風 ひまをつぶしてもらっちやすまないよ。」 いつもの事ながら、てつは婆さんのひねくれた挨拶に、心ではくそ婆と舌打ちしながらも、 , つわべはさりげなく、 「ここ二三日、おばあさんの姿が見えないから、俺は、風邪でもひいたのかと思ってたよ。 やおや、ねんねは大きくなったね。」 「あ、くそ重てえがきでな。」 「でもおばあさんは、こんな大きなねんねの守ができるほど丈夫で、 「とんでもねえ。俺ア、首でも吊って死にてえよ。」 「まあ、熱いお茶でもいれるから、ねんねをおろして遊んでいけな。」 ちゃがま てつは、茶釜の下を焚きつける。 婆さんは上り框に尻をおろして、 「おっ母さん、おらとこの健はな、生きてんだとよ。」 「じゃ、やつばり世間のうわさはほんとなんだね。」 ひそう てつは悲愴なことでもあるように一たん眉を上げたが、すぐにその表情を崩して、 「でも、何よりだよ。生命だけは、どんなにゼニガネつんでも買えねえからな。」 「だから、俺はうれしいけどョ、家の畜生めらは、きっと邪魔がってべで。」 「まさか、そんなことあるもんか。だって父うちゃんにはだいじなむすこだし、おゆみさん一 はかわいい亭主だし。第一、おいくさんはうれしくて、夜も眠れぬ程じゃあるまいか。」 かまち おら しいことだよ。」
向 風 しつも必要以上に泣き一言をならべるのだった。 そんな関係で、婆さんは、この女房の前では、 ) 今も婆さんは、ふとさっきのハガキを思い出し、ふところから引っぱり出して、 「おっ母さん、見てくろ。これだって税金の催促だっぺ ? 今そこで郵便屋さんに渡されたん だよ。」 「おや。」と女房はふしん顔に受取ったが、 「たいへんだよ。お婆さん。」 「え、供出のことかい。」婆さんは青くなった。婆さんは、庄三がまだ七八俵の米をかくして いるのを知っていたし、そうした隠匿米は、アメリカ兵に摘発されるということも、やつばり 人から聞かされていたのだ。 女房はなおもハガキを見つめている。 婆さんは益々不安になって、 「おっ母さん、早く読んで聞かせてくろ。うちの畜生めらときたら、俺には何一つ話してきか かま せねえんだよ。同じ釜の飯を食っていながら、そんな不人情なはなしってあるもんか。俺だっ て、税金のことも、供出のことも心配してるだかンな。」 「でも、お婆さん。このハガキはそんな事とはちがうよ。これは健さんから来たんだよ。」 「健って ? まさか死んだ健からじゃあるまい ? 「ところが、健さんは生きてるらしいよ。このハガキに、元気でいるから安心してほしいと書 いてある。」 おら