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検索対象: 向い風
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1. 向い風

向 風 んは、さも無念そうに言った。 「俺ア、さつばり知んなかった。健らは、こんど帰ってくるんだとよ。」 それは健一のことに限らす、日頃すべての情報から締め出されている婆さんの憤りだった ( いくもその点では婆さんと同じ気持ちだった。庄三はもとから財布を一手に握り、いくは = 腐一丁自由に買えなかったが、彼女は農家の女房として、それが普通のことだと思っていた。 ところがこの頃のいくには、それは " 除け者〃扱いとしか受け取れなくなった。今もいくは、 婆さんのロぶりに刺激されたせいもあって、急に涙声をふりしばった。 「健が、帰って、くるのかい。それを、まア俺は、なんにも知らすにいたんだよオ。だって には、たあれも明かしてくんねえもの。新聞はとってても、字は読めねえし、俺ア、こんな寺 い思いをするほどなら、し、死んだ方がよっぱどましだ。」 「ばかあま。健など、帰ってくるもんか。」 ちょうど夕飯の箸をおこうとしていた庄三は、その箸を膳の外に投げ出した。 ゆみはさりげなく、その箸を膳にのせ、流しもとへ連んだ。 いくは、しくしく泣きながら、 ふたこと 「お父は、一一言めには腹を立てて俺ことどなるけんど、俺はお父に、なんにも悪いことした ばえはねえど。それを、それを、お父は しっさき、明かしてやらア。」 「うるせえから黙ってろというんだ。健が帰ってくる時は、 おら おれ

2. 向い風

向 風 だけだと婆さんは信じていたからだ。 しかしいくにしてみれば、健一の生還は神仏の加護で、それも母親の自分が、耐えがたい苦 しみを耐えていたからのことだとしか思えなかった。だから彼女も婆さんに負けすに叫んだ 「ああ、健、よくまア、生きてけえってきたなア。おらは、おらは、どんなに健こと、心配し てたかしんねえよ。心配はしてても、ハガキ一本書くことできねえし、辛くて辛くて、何べん も死のうかと思ったよオ。そんでも、健の顔が見られるかもしんねえと考えなおして、これ、 まあ、やっと生きてきたけども、こんどは、はア、 ) しつ死んでも、ええんだよオ : ゆみは健一のうしろへ廻って、リュックをおろすのに手をかした。 かまち ひざがしら 健一は、どたりと上り框に尻をおろし、綿人ズボンの膝頭をつかんだまま、ぎろぎろ家の内 を見廻している。忘れたものを、至急思い出そうとしているような顔つきだ。 いくは、その正面にしやがみこんで、 「健、お父か ? お父はな、今、お前の墓をこわしに、仙さんと二人で行ったんだよ。もうじ き帰ってくるからな。なア、健、お父だってお前のことは、どんなに心配してたか知んねえん めえ 「健、この婆アはな、お前が死んだ気は、これつばちもしなかったよ。」 おやゅび なか婆さんは、伸びた人さし指の爪を拇指ではじいてみせて、「婆アは、いつでも健は生き て戻ってくると言い張ってたよ。婆アには、ちゃーんと夢知らせがあったものなア。」 「俺はまた、婆アはもうとっくに死んだかと思ってた。」ばさりと、健一が言った。

3. 向い風

「俺は、めしなんど、食いたかねえよ。」と、小石でもぶつつけるように言った。 いくは婆さんに背を向けたまま、 「だから、婆アの飯なんど支度してないよ。もうみんなとっくに食っちまったワ。」と、これ も小石を投げ返すように言った。 婆さんは黄色い前歯をちらと見せた。婆さんは笑ったのだ。 その笑いを、いくは不思議にも背筋に感じてひやりとした。それと殆んど同時に婆さんが言 「だけど、おいくは、又よく飯なんど食えるなア。このせつ、世間がどう一言うてるか、ちっと は聞いてくるもンだ。」 もうろく 「ふん。俺は八十の耄碌みてえに、まだひまじゃねえからナ。そこらいつばい歩いて、ひとの 文句なんど聞いて廻っちゃいられねえよ。」 「じゃ、いし ( 汝の意 ) は嫁におやじを寝とられて、それでよろこんでるンか。」 「くそ婆。」 はよ 「くそあま ! だから俺は、一日も早う死にてえというんだ。」 「死にたけりやア、さっさと死ね。誰もたのんで、生きてもらってるおぼえはねえど。」 「畜生。いしはそんな根性曲りだから、おやじを取られるめにあうんだ。」 ) , ゝらして歩いたくせに。俺はちゃーんと知ってる 「うるせえ、くそ婆。それはてめえがいし一 なんじ

4. 向い風

向 風 これで、てつははっきり知った。健一が生きているとわかっても、庄三とゆみは、なお新屋 あざ での寝起きをつづけているのだ。そしてこのうわさも、その日のうちに字の半分にひろがった ところで健一の生存は、間もなく一つのニュースとして沼をこえ、ゆみの実家でもききつけ わせ た。それは早稲の田植がはじまろうとするせわしい時期だったが、さわは、タ闇をついてかけ てきた。 ゆみは、実母の顔をみてその用件をさとった。 さわは、光夫を抱いた庄三に、暫く無言で向き合っていたが、 「健さんが生きてるというのはほんとですかね。」 「ほんとだよ。」と、ゆみが答えた。 「じゃ、ゆみは引き取りますべよ。この上の恥さらしはしたかねえですかンね。」 「ちがうよ、おっ母さん、それは。」 またゆみが口を入れた。 「お前はだまってりやいいんだよ。」 ひじ さわは小突くように肱を張って、 「ゆみを引きとれば、健さんが帰ってきてもごたごたしなくて、こっちの家も大助かりでしょ うよ。わたしゃね、世間のうわさを聞いてちゃんと知ってますよ。もともと、ゆみに財産を分 けるのがいやで、あんたたちは腹を合せてゆみをだましたんだ。」 「おっ母さん。だましたの、だまされたのなんて、俺はそんなこと聞くのもいやだよ。縁を切 しばら

5. 向い風

向 風 婆さんは、竈の火をのみこみでもするように、大口を開いて笑った。 炒り鍋を掻き廻していたいくは、鍋の豆を、この鬼婆にこそ投げつけてやりたいと思った。 いくも負けずにどなった。 「ふん、今更そんなこと言うても仕様ねえやな。それに、もともと家のためにと思うて、みん な承知でしていることだ。見ろ。婆アだって後嗣がなけりや、彼岸の墓掃除もしてもらえなけ りや、盆迎えも受けられねえんだ。おまけに生きてるうちは、ゆみの働きで食わせてもらうん じゃねえか。それを、そんなろくでなしばっかしつったれて、それこそ世間にも嗤われてしま わア。」 「ゆみの働きだって ? おお、そうだっけョ。働きにも働きにも、前代未聞の大働きだ。今じ や沼向うの村までひびいて、誰も知らぬ者なしの大評判だ。こんな馬鹿な目をさらうのも、み んないしが間抜けなからだワ。どこの世界に亭主を嫁にとられて、 " 家のためだ〃なんて寝一言 うち かかあ を垂れてるデレスケ嬶があるもンか。家なんぞは、どこの馬の骨がつごうと、牛の骨がつごう かゆ と、人間、死んじまえば同じことよ。まして墓なんぞ、草だらけでも水浸しでも、痛くも痒く おおぐそ もねえやな。い しも、五十年からも飯をかっ喰ってきたんだ。ただ大糞をひるだけがのうじゃ ねえ。ちっとは人間らしいわけをおぼえろ。」 ふたこと 「く、くそ婆め。て、てめえだって、これまで二言めには、う、家はだいじだとぬかしたくせ なべ 0 ア わら

6. 向い風

向 % に惹かれるようになるまで、だまってほうっておくのさ。健だってとよのあまにがきめでも出 来てみろよ、きっと今とはちがった気持ちになっぺからョ。」 「だけど婆ア、俺はとてもそんな気長にはなれないよ。俺は、あんなあま、見るのもいやだ。 お父は、あのあまに殺されたんだかンな。へたをすると、健の野郎まで殺されるかしんねえ。 だからあした、俺はみんなが初七日でまいってくれたところで、あのあまをどうするか、はっ きり決めてもらうつもりだ。」 「そりや、決まればいいけどもョ。悪くすると、かえってごたごたするんじゃねえかな。ゆみ のあまだって、いざとなれば、手ぶらでは出まいし。」 「でも、もう籍はねえんだからな。」 「それだって、五万ぐらいの金はやらなくちゃなるまいぜ。」 「五万どころか、あまは十万からもかくしてべな。ず「とおの財布を握「てきたんだもの。 ことしの米だって、もう飯米のこしに売っちまって、その金だって握ってるよ。」 ことしは何俵くらい挽いたんだや ? 」 くよりもむしろなか婆さんの方が正確におぼえていた。いくも しかし、何俵挽いたかは、い そのことは知っていて、いつもなら " 俺よりよく知ってるくせに。 ~ と、突っけんどんに言い 今はそうもなりかねた。彼女は指を折り数えながら、 放っところだったが、 「わせと、なかてと、おくてと三回にわけて挽いて : : : まる俵で七十二。ほかに一俵ばかり半 端もあったナ。」 風

7. 向い風

向 風 庄三は、すばっと煙を吐き出し、そのまま天井をにらんでいる : 婆さんは、理の通った自分のいい分に、伜も同感なのだと思った。そこで、さもなくても「 角張った頤に、一層力をこめて、 なこう 「第一、そんなことを自分の口からいい出すなんて図太いあまだ。嫁にくる時、なんで媒介ー をたのんだか知んねえのか。媒介人は、嫁のかざりじゃねえ。出るの、退くのという時の証ー だ。この家を出たけりや、媒介人を頼んでくるもんだ。」 もうろく 「うるせえ ! 耄碌はだまってろ。」 かん 庄三は、前にも増して癇強くどなった。 「へ : : : ん。俺がいうとうるせえのか。」 なか婆さんはまともに伜を見据えた。 〃死にぞこないのくそ婆めー 庄三は、悪態でのどがむずむずしたが、それを吐き出すことが出来なかった。婆さんの凹 , だ眼玉が、まるで氷の手のように、庄三ののど元をおさえたのだ。 きせる 庄三は黙って煙管をおいた。 と、婆さんは声を下げて、「そんなら、庄、てめえの好きにす「 「へへえ。へへへえ。 がいいや。俺は劫つくばりだが、そんでも、もうあと十年とは生きめえよ。この家なんぞ、 ぶれようと、消えようと、俺の知ったことじゃねえワ。はははは。」 そして婆さんは、裏部屋の寝床へ引っ込んだ。

8. 向い風

向 風 224 一の態度がどうにも気にくわなかった。そこへなか婆さんが光夫の乳母車を押してきた。婆さ んは裏の垣根の破れから、兵助の屋敷へこえるつもりだった。いくは洗い水を、わざと婆さん の行く手にぶちまけた。 たちまめかど 「なんだや。」と、婆さんは忽ち眼角を立てて、「こんな霜どけに、まだ水を撒くのかい。」 だめ 「流し溜がいつばいになってるからだワ。畜生あま、さつばり流しもくまないで : たいひ 「そんなら堆肥にでもかけたらよかっぺに。俺にぶつかけても、こやしの足しにはなんねえど。 それとも、流しを俺にくめとでもいうのか。」 「そんなこと、誰が言ったか ? どうせ汲めもしねえ耄碌を、たれもあてにするもんか。いら ぬ邪魔立てしねえで、さっさとがきめを押していけ。」 「ははははは、とよのあまに、おっ母さん、おっ母さんと持ち上げられて、すっかり世帯主気 取りでいやがる。今にとよのあまに、ひどい目くわされるのも知んねえで。」 「婆こそそんなろくでもねえことぬかして、この家ぶつこわすつもりでいやがるんだ。さっき だって、〃首でも吊っておっ死ぬべ ~ なんて余計なことぬかすから、かんじんの話がそれちま のち ったんだ。どうせそんな耄碌は放っといてもあと二三年の生命ョ。みんな飼いごろしのつもり でいらアな。それをたいそうらしく首を吊っておっ死ぬべなんて、邪魔立てにも程があらア。」 「へん、飼いごろしとはありがてえ。せいぜい飼っといてもらうべよ。だけど、いしの馬鹿さ あき には呆れたよ。健はなア、とよのあまより、よっぱどゆみが好きなんだワ。そのゆみを、無駄 飯食いのようにい ) しくさって、健が腹ン中でどう思ったか、い しにわかンめえ。」 要よ も・つろく

9. 向い風

「そんなの、構わないよ。葬式したものが生きて帰ってきても、俺のせいじゃないよ。」 「それはそうだ。健が生きているのを知っていて、こうなったわけじゃなし : : : 。」 っこなしだよ。おらは、ひるからもう何べんもそ 「だから、あの人のことは、もう何にもいい う言ったじゃないか。」 庄三はどたんと仰向けになった。 「ゆみ、お前は、やつばり健が生きてるとわかって、辛いんじゃねえのか。」 間をおいて庄三が言った。 「そりやア、つらいよ。」 「だから、健のことは、い ) 「そうだよ。」 「じゃ、帰ってきたら : 「嫁をもらってやるよ。」 ゆみは、くるり背を向けた。その肩に庄三はそっとふとんを引きあげた。 七 「松並の健さんは生きてるんだとよ。」 「ロシアの、カラカンダというところで、捕虜になって働いているんだちけ。」 しつこなしか。」

10. 向い風

向 風 254 上は、覚悟もしてたよ。でも、いうこと、することが、あんまり人を馬鹿にしてるから、俺も やってやるのさ。第一、今年は飯米がパスパスで、もうやみ売りするせきがないのを知ってい ないしょ ながら、五升でも一斗でも内密で売って、へそくりを貯めようなんて悪い考えだよ。もし金の みち 要り途があれば、皆なで話し合った上で、一俵でも二俵でも売って、その分、うどんでも甘藷 でも食えばい ) しのさ。」 その時苗床の手人を終えた健一が、土間に入ってきながら麦稈帽子をとった。 ほはえ 青い丸刈り頭。ゆみは思わず微笑んで、 「ちょっと、見違えたよ。」 「そうかい。」 それから健一はとよに向いて、 「うまい昼飯でも作れな。」 「俺なら、なんにも要らないよ。でもおっ母さんと婆アちゃんに、とよ、何か温いものでも作 ってやってくろな。俺も、みんなが仲のいい顔をしたところで帰りたいからョ。あ、それから、 かんじん 肝腎のことを忘れてた。俺はこんど、 しい具合に : 「嫁に出るのか。」と、とよがゆみの言葉を奪い取った。 ) ) 舌じゃなくて残念だけど : : : 。実は、作る田畑がみつかったんだよ。 「はははよは。そんなしし言 とよは、よく知ってべな。戦争中、村にきて百姓をはじめた金山さん一家のこと。あの人達が、 こんど朝鮮へ帰ることにきまったんで、その作ってた田畑を、所有主とも話し合って、五反歩 むぎわら さつま