向 風 や まきざっぱすね ちくしようめ ! あれが古鶏なら、ええ、めんどくせいと、薪雑木で脛をぶつくらわしてや るんだが、 人間の形をしてやがるばっかりに : : : 庄三は歯がみをしながら、婆さんの足音を聞 していた。 いくは婆さんが出て行くと、急に支えを失ったようにしくしく泣き出した。彼女は嫁にきて よめしゅうとめ 三十年余り、なか婆さんと紋切り型の嫁姑争いをしながら、結局はその争いを支えに生き てきたようなものだった。婆さんにしてもそれは同じことで、もし嫁という冾好なテキがいな かったなら、八十近くまで生きるという、そんなねばりは持てなかったかも知れぬ。ところで しくの涙はなぜか小便よりもうすぎたなかった。彼は蠅でも追っ払うように手をふ 庄三には、 ) りながら、 としが 「何んでえ、年甲斐もなく泣きくさって。」 「だって、お父、あんまりだよ。」 。 ) しは、この 「ばか、何があんまりだ。じゃ、いしには、まだ俺の考えがわからねえんだなし 家の財産を半分に減らしたいのか。」 「誰も財産をへらしたいとは言うてねえよ。」 「そんなら俺のしてることに文句をたれるな。」 「そこだよ、お父。そんなにこの家の財産がまもりたいなら、ゆみに、婿をとればいいんだよ。」 「それじゃいしは、あかの他人に、財産そっくりくれてやるのか。」 えんび
向 風 188 「みんなの、 ししように、してもらうよ。」 ゆみは途切れそうになる一一 = ロ葉を懸命に押し出した。「俺は光夫とどこかで暮すよ。」 小っちゃい子供と二人きりで、ゆみは生活していけまいな。それよりも、 「だけど、 といわれても、ゆみはやつばし、ここにがんばっていた方がよくはねえかな。そうすりや、光 夫も一年増しに大きくなることだし、一生のうちには、笑う日だってきっとあるよ。もっとも、 それには、健の考えをきかなくちゃなんねえけども : : : 。」 「婆ア、俺は今のところ、なんにも考えてなんかいないよ。」 「だけど健は、何か考えがありやこそ、ここへ来たんじゃねえのか。」 ろうばい なか婆さんに見つめられて、健一は我にもなく狼狽した。それは、実際婆さんのいう通りだ った。健一には健一の考えがあった。というより、それは " 願望 ~ といった方が正しかった。 健一は母親の主張とは反対に、せめてゆみを一つ屋敷に住まわせておきたかったのだ。 けれども、母親にしてみれば、それがどんなに不本意な事かということは、健一にも十分察 ふくしゅう しがつく。ここ二年近く胸の中に抑圧されてきたもろもろの感情を、いくはこの際、復讐的に 発散させようとしているのだ。 「お前は、この家に、もうなんにもかかり合いのない女だ。さっさと出ていけー あび もしかすればあしたにも、いくは面と向ってゆみに浴せかけるかもしれぬ。それだけに、健 一はゆみの気持ちをたしかめておきたかった。 すると、またゆみが言った。
向 「そして、とよ、お前もその方がいいと思うのかい。」 「だって、それしかないもの。」 健一はとよの背から引いた手を、むずと胸先に組み合せた。 健一は心があせ 彼は曠野に立っていた。そして、ゆみは、死刑台上に立たされている : った。彼は一刻も早くゆみを救い出さねばならない。 気がつくと、とよの手が健一の胸をさぐりにきていた。健一は、しかしその手を受けもせす 風払いもせす、岩のようながんこさで言った。 「俺には俺の考えがある。」 「じゃ、お前の好きにするがいいよ。どうせ俺は姉とちがって、ロで男をだましたり、女の品 物で夢中にさせる芸当は習わなかったからョ、お前のきげんは取れないよ。」 「おっ母さんだって呆れてる。姉が、どんなにしてお父つあんをだましたか : : : 。」 「結局、お父つあんは姉に殺されたも同様だって。」 「とよ、俺はお前の口からゆみの悪口は聞きたくない。それにだましたとか、だまされたとか まち そんな事は都会の遊び場でのはなしで、俺たちは器用に嘘もつけない百姓同士じゃないか。」 「でも、姉はちがうよ。姉は東京の待合にいたことがあるんだもの。」 193 あき
向 風 ども 吃ってしまった。 「あーら。お父つあんはまだ話があったのかい。」 ゆみは、からかい口調。庄三の聞いてもらいたい ″考えん - は、聞かなくてももうわかってい るからだ。 うち しかしそれだけに、庄三はたのむ身の真剣さ。またしても、「う、家は、だいじだかんな。」 しゃれ と吃って、こんどはかむっていた麦稈帽子をとった。しかしそれはシャッポをぬぐという洒落 ではない。今の庄三には、そんな心のゆとりがあろう筈がなかった。彼は無意識に帽子のつば を握りしめて、 「ゆみ、た、たのむからョ。離縁して実家に戻るなんて考えはおこさずに : : : 俺だって、まだ まだ働くよ。なあに、婆さんの歳まで生きりや、これからうまれるやつでも、二十一二にはな るからなア。そうすりや、田畑はそっくりその子供のものになって、お前も安楽にくらせると いうもンだ。」 とっ 「でも、お父つあん。そんなバカなことができるか、できないか、たいてい、わかってベネ。」 ゆみは、。、 ) 立ち上り切らないうちに、ゆみは右足をつかまれた。しか しと立ち上った。が、 し、そのとたんに、ゆみはつかまれた右足で庄三を蹴った。 けれども、庄三は蹴られても、それによって尻ごみはしなかった。反対に彼は挑発された昻 からだ 奮で、ぐいとゆみの身体を抱きすくめた。 「だめだよ、そんな、じようだん、悪いよ。」 ふん むぎわら
向 風 もっと 「ふーむ。なるほど。それはお前としては尤もな思案だ。だけど、ゆみ、俺とお前は、嫁舅と して、一五年も一つ釜の飯を食ってきたんだぜ。ちっとは、俺のことが分ってくれてもよさそう なものだ。」 庄三はさくり立ての畝土をつかんだ。 ゆみも右の掌に土をすくった。 「そうだろう ? なア、ゆみ。」 庄三は子供のいたずらのように、つかんだ土をゆみのモンべの膝に投げて、 「このままでは、松並の家は根絶やしだ。」 「健は、一人っ子だったからなア。」 あとつぎ 「いいあんばいに、こんどは田畑がそっくり松並の名義になったけンど、かんじんの後嗣がい なくては、俺は、死んでも死に切れねえよ。お前だって、こうして松並の者になってみれば、 ちっとは家はだいじだと思っていてくれるんじゃねえかな ? 「それは、思ってるとも。思っていりやこそ、黙って五年も働いてきたんだよ。」 ゆみは、まともに庄三を見すえた。 ろうばい 庄三は、ゆみのその眼に狼狽して、 ここで、俺の考えを、き、きいてもらいてえんだよ。」と、常にもなく 「た、だからョ、こ、 けん
向 風 223 「婆アは、飯さえ食ってりや ) しいかもしんないが、世帯をやるものは、一日だってゼニ無しで はいられないかんな。がきめにも、これから毎日ト吏 ) / イし力いることだし。」 「だからおっ母さん、俺は焚き物とりがすんだら、東京の建築場へ土方に出るつもりでいる上 東京には大きなビルの建築が幾つもはじまっていて、いくらでも人を入れてくれるそうだ。」 「じゃ、健は、百姓ゃんないつもりなのか。」 「いや、百姓のひまなうちだけ働きに通うのさ。」 「だって、何も健ひとりでそんなに骨を折ることはあるまいな。」 「しかし、そうしなけりや、世帯がやって行けないんじゃないのかい、おっ母さん。」 「今のままではな。」 「そんならどうすればいいのか、おっ母さん、はっきり言ってみてくろ。」 「それは健の考え一つだワ。」 「だから言ってるじゃないか。俺は春まで百姓仕事は女たちに任せて、東京へ土方に通うつ その時、とよが言った。 「おっ母さん。弁当、つめてくろな。」 「あ、そうだっけな。」 いくは、とよのきげんを迎えるように表情を和げた。 ところで健一たちが松やまへ出払ったあと、いくは暫く流し元で働いていたが、彼女には儺 やわら
向 風 265 けげん 健一は怪訝そうにゆみを見た。 ゆみも健一を見返した。 「じゃ、どう違うか聞こうじゃないか。」 ほほえ 健一は微笑んだ。ゆみもまた微笑み返して、 「俺にはうまく一一一一口えないけど、俺があの写真を見るのもいやだと言ったのは、何も俺の敵に見 えたからじゃないよ。そりや、長くお前をとめておかれて残念には残念だけど、でもそれはス ターリンのせいじゃないものな。」 「そうだよ、ゆみ。でもお前は、やつばり今でもスターリンの写真がいやなんだろう。」 「いやだよ。俺は学問がないから、お前が納得してくれるようにうまくそのことが言えないけ リンの写真も要らないのさ。もちろん、マ ど、つまり俺は、天皇の写真も要らないし、スター ッカーサーもごめんだよ。だって、俺らはカ一杯働いているんだよ。生れてから死ぬまで働き 通すんだよ。俺は俺たちみたいに働いてる者が、麦飯を食って、野良着をきて、地下足袋をは いて生きてるのは、何も天皇やマッカーサーのおかげじゃないと思ってる。スターリンだって それとおんなじことだよ。そりやお前はお前の考えがあってあれを掛けたんだろうけど、俺は どんな写真も飾ったり拝んだりしたくないと思ってる。俺は人も運もたのまずに、どこまでも 自分の働きで生きて行きたいんだよ。」 健一は打ちのめされたような痛みを感じながら、 「ゆみ、わかったよ。」
「そうかな。そんなら健さんの勝手に任すけども、遠慮ならしないでくろよ。」 仙太郎は五六間自転車を押して歩いたが 「じゃ、そういうことにして、俺は一足先に帰ってみんなを安心させるよ。」とハンドルを りなおした。 しろいろお世話をかけてすみません。」 「ほんとに、、 ゆみは小さく言った。 仙太郎の自転車は、程なくカープで見えなくなった。 つるまい さて、鶴舞橋を渡ったところで、健一はあらためて沼を眺めるように足を停めた。そこか、 おおけやキ た一けほ・つき は川上部落の木立が、一本々々数えられた。先ず竹箒をさかさに立てたような谷口家の大欅。 なりやしろおおいちょう かや その左手に稲荷社の大銀杏と榧の大木。 ふるさとの古木は、敗戦をよそに、淡々と生きつづけているのだ。 へんばう 健一はうれしかった。しかしそのうれしさはすぐ彼の胸の中で変貌した。彼は爆発しそう〈 胸をやっとこらえて、 「ゆみ、俺はやつばり向うに残っていた方がよかったんだ。俺はみんなの邪魔者だ。俺は幽 ~ 「ちがうよ。それはお前の考えちがいだよ。」 ゆみは健一の語調にいささか反撥を感じたが、それでも静かにいい足した。「苦しいのは、 お前だけじゃない。」
向 風 237 「おい、おっ母さん。今日はおゆみさんにも一杯ついでもらおうじゃないか。小崎の兄さんも、 さっきから、おゆみさんはどうしたかと心配してるんだぜ。」 「そのゆみの事ですがね。」 ひざがしら いくは、しきりに膝頭のあたりをなでながら、「困ったことに、今日も健とごたごたしまし てネ、とてもあれじゃ、これから先、いっしょに住めねえですよ。一つ、今日は、どうしたら いいか、相談に乗ってもらいてえですョ。健だって、辛い立場ですかンね。」 「いや、それは話がちがう。」 くちぶり 健一は、思わず強い口吻で言った。「おふくろは、まるで見当ちがいをしてるんだ。」 「それですよ。」と、しかしいくはより積極的に、「健は、なんだ、かんだと、ゆみをかばい立 てしましてネ。でもそれじゃ、家の中はうまくいきません。それで、光夫はこっちで育てるこ とにして、ゆみはどこぞへ嫁にでも : : : 。」 「それはおゆみさんの考え次第で、おいくさんの心配したことじゃあるまいぜ。」 山太郎は、 いいながら、健一と安雄の顔に素早い一瞥を投げた。健一には苦の色があった。 安雄の表情もそれに近かったが、しかし彼にはもう一つ憤りめいたものが走っていた。彼は手 にしていた杯をびたりと伏せて、 「いや、よくわかりました。ゆみは、今日すぐ連れて戻ります。まったく、ゆみは、こちらに ご迷惑をかけるばっかりで : 。俺は、この家のため 「でも、小崎の兄さん。そういわれると、俺がまるで悪いみたいで いちべっ
向 風 「ははははは。」と婆さんは笑った。婆さんは、健一の生存がわかって以来、いくが毎夜輾転 反側するのを知っているからだ。 やがて茶釜の湯がわき、てつはお茶うけの菜漬を皿に盛った。 「もし俺に字ができたら、家は、こうこう、これこれの事情だから、健もそのつもりで帰って こいと、長い手紙を書いてやるんだが、俺は、いろはのいの字も習ったことがないからな。た アだ、見ているばっかしョ。」 なか婆さんは、てつからもらった茶のみ茶碗の中をじっと見ながら言った。 「だけど、おばあさん。そんなこと、余計な心配だよ。健さんが帰ってくれば、何もかももと 通り、みんなうまく行くさ。健さんはあの通り男つぶりはよし、働きは強いしするんだもの。」 からなぐさめ てつはまるで心にもない空慰を一一一一口う。 婆さんは、 と笑いで受けて、 「そんならし ) いけんど、今のあんばいではなア。」 「まさか父うちゃんが、おゆみさんを離さないんじゃあるまい ? 」 てつはまた心にもなく憂い顔を見せた。 「どっちが離さないのか知んねえけどョ。」と、婆さんは言葉をとめてお茶をごっくり。 「そりやア、困ったね。おゆみさんも、あんな年のちがう父うちゃんより、若い健さんの方が ずっとよかっぺに。」 「畜生らの考えはわかんねえよ。」 てんてん