向 風 へそくりの財源が主に米のごまかし売りだということもわかっていたが、い くも、庄三も今の 場合、「健もよろこぶべで。」と、穏かに受け取るしかなかった。 こんなわけで、もとの陸車兵長、松並健一の葬式は、一片の遺骨とてもなく、全くの形式に すぎなかったが、しかしその為、いよいよその形式が整えられる結果になった。 健一の妻であるゆみも、もちろん喪主の礼儀だからとて、葬式の前日、わざわざ土浦まで出 かけ、うまれて初めて、 ーマをかけた。そして、葬式の当日は、新調の喪服に、黒のエナメ おしろい ル草履。白粉も口紅も濃い目にして、″百姓のかかあには借しいきりようだ。〃と、会葬の人た ちにほめられた。 こ , っして いつ、どこで死んだかわかりもしねえで。〃と家族からなげかれていた健一は、 昭和一一十年六月、二十七歳をもって戦死という墓標の下に葬られた。時にこれ、昭和一一十三年 四月二十二日 : : : という次第である。 ところで、形式は不思議な魔力を持っている。それまで健一の死にずっと否定的だった母親 のいくも、金をかけた立派な葬式のおかげで、こんどはむすこがちゃんとあの世へ行ったよう な気がしたし、庄三もまた、「これで一段落ついた。」と口に出して言ったものだ。 めいふく なか婆さんも、ナムアミダブツをくりかえして、孫の冥福をいのる相である。 ところでおかしなことに、なか婆さんの念仏をきくと、まわりの者は来世の幸福よりも、む こわ ふうばう しろ地獄の責苦を感じた。それは、一つには婆さんの風貌のせいで、その逆立つように剛い銀 ため すがた
風 向 あご も非情の冷たさが感じられた。それに、角ばった頤の中には、まるで年齢を無視したように上 やしゃ そろ 下歯がそっくり揃っていて、それが婆さんの笑顔をまでも夜叉然として見せるのだ。 せがれ 婆さんの実の伜である庄三さえ、夕方、土間のうす暗がりでひょっくり婆さんの白髪頭に出 くわし、思わすひやりとして " え、ちくしようめ ~ とロ走ったことが幾度かあった。さしすめ、 なか婆さんは、あの仏法でいうところの、永久の悪鬼組なのだろう。ところがそのなか婆さん も、ナムアミダブツをくりかえす。どうやら、葬式という形式は、婆さんをも人並に刺激した ようだ。 さて、健一の妻として、喪主の役を果したゆみが、そのことによって、ここに人生の区切り を感じたとて不思議ではない。彼女は、もうそろそろ農繁期だからというので、健一の三十五 日忌が、葬式の翌日取りすまされたのを機会に、自分の身のふり方をきめることにした。とい うのは、この機を逸しては、あとはするずる、田植がすむまでこの家にいなければなるまいと 思ったからだ。それはゆみにとって、もはや無駄働きである。ゆみは、晩かれ、早かれ、この 家を去らねばならないのだ。 ちょうど、三十五日忌の、さいごの客が帰ったところで、庄三、いく、なか婆さんの三人が 電灯の下にそろっていた。ゆみは、いきなり手をついて、 「長い間、おせわになったけンど。」と切り出した。そして、少し呆れ顔の三人をみると、ゆ みは自分でも意外なほどはっきり言った。 「俺は、ここで、ひまを貰いたいと思うのヨ。」 おら あき おそ
向 230 風 かまどた ゆみは竈の焚き口に、光夫を背負って腰かけていた。 誰に呼ばれなくても、ゆみは仏前に坐っていい筈だった。けれども、葬式の日も、その翌日 の謐りにも、ゆみは終始身を避けていた。ゆみはそうした形式の席では、自分が一つの汚点 でしかないのを知っていたのだ。それにもしゆみが不幸にして、或いは幸にして自分が汚点で しかないのに気附かなかったとしても、まわりは親切にそれを教えてくれたにちがいない ″お前の出しやばる席ではないよ。〃と言って。 どきよう さて、読経は間もなくゆみにも聞きおぼえのある語韻に移った。 しょ・つじ ただし いんねん ほとけ しようあき 生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但 しようじ しようじすなわねはんこころえ 生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく : もちろんゆみにはその経文の意味はわからなかった。けれども、ゆみはそうして一人で聞く ことが、そんなに淋しくはなかった。ただ、もうこの世にはいない庄三だと思うと、涙がする する頬を流れた。 とき ところで、斎の膳に銚子を立て、暫く健一と杯を交していたのみての和尚は、ふと仏壇わき のかもいを見上げて、 し写真、持ってきましたな。」 「は。は、は十小十 ( 。い ) 「いや、あれは、この頃友達からもらったんです。」 「ふーむ。向うでいっしょだった友達ですか。」 「そうです。」 ちょうし ぶつけ 0 しようじ
向 風 「あしたは、 ) しったい、どうする気だかョ。」 「どうする気だか知らないよ。」 「ふん、どうするかしんないなんて、 それで、一軒前のおっ母がっとまるかョ。考えてみ ろ、健は六年ぶりで帰ってくるんだそ。近所の人達だって、なんとか、かんとか、ぎりにきて くれる。それにだって、さんまの一匹ずつぐらいは用意しとかなくちゃなるめえよ。」 もん 「でも、そんな心配は旦那の役だよ。さんまの、いわしのといわれても、文なしの俺に、なん で手も足も出せるものか。」 「だから 、いしは意気地なしだというんだよ。一町五反からも田畑を持っていて、今時、千二 千の小遣い銭もためられねえなんて、まるでばかのロだ。俺だって、健の葬式の時は : しかしなか婆さんも、さすがにそこでロをつぐんだ。健一の葬式に出した千円が、いかに無 駄金だったかということは、今では婆さんも身に沁みて知っている。そこで婆さんは一言葉をか えて、 「あしたは誰が迎えに行くんだ。い くら葬式はすんでいても、電報までよこしている野郎だ。 迎えに出てやらないわけにはゆくめえ。」 「だから、誰か行くんだっぺな。」 「おやじが行くのか。」 「どうだかョ。」 「どうだかョって、それだけはちゃんと決めておかなくちゃ駄目だぞ。俺がこんなことに口を
井戸端の山吹がまっ盛り。 かえって我が身の暗さを底深く意識した 母親のいくは、その花の燃え立つような明るさに、 こんなバカゲたことがあ 〃健一は、とうとう死んだのだ。それも、時も所もわからすに : るものかー・″ けれどもいくのなげきと怒りは、こんな言葉になってあらわれた。 つ、どこで死んだかわかりもしねえで、墓に埋められるんだも 「健の野郎はかわいそうだ。い のな。」 するとそれを聞いた父親の庄三が、 「だから、葬式は、できるだけ立派にしてやるさ。そうすりや、健の魂も浮かばれる。」と、 多少、切り口上で言った。庄三の胸の中にも、やはり、やり場のない怒りがくすぶっていたのだ すると、祖母のなか婆さんが、 「健の野郎は、お国のために死んだだからな。ほんとに、葬式はおごってやってくろや。俺も きんちゃくぜに 一生かかってためた、だいじな巾着銭をはたいて出すからョ。」と、即座に千円投げ出した。 もちろん それは勿論なか婆さんのへそくりの、ほんの一部にすぎないことはわかっていたし、またその ばた おら
「そんなの、構わないよ。葬式したものが生きて帰ってきても、俺のせいじゃないよ。」 「それはそうだ。健が生きているのを知っていて、こうなったわけじゃなし : : : 。」 っこなしだよ。おらは、ひるからもう何べんもそ 「だから、あの人のことは、もう何にもいい う言ったじゃないか。」 庄三はどたんと仰向けになった。 「ゆみ、お前は、やつばり健が生きてるとわかって、辛いんじゃねえのか。」 間をおいて庄三が言った。 「そりやア、つらいよ。」 「だから、健のことは、い ) 「そうだよ。」 「じゃ、帰ってきたら : 「嫁をもらってやるよ。」 ゆみは、くるり背を向けた。その肩に庄三はそっとふとんを引きあげた。 七 「松並の健さんは生きてるんだとよ。」 「ロシアの、カラカンダというところで、捕虜になって働いているんだちけ。」 しつこなしか。」
んがふとんを運んできた。 「そうしてくろな、婆アちゃん。」と、ゆみはなか婆さんのふとんを部屋の片隅に敷き、炬﨨 に火を入れた。 なか婆さんは炬燵の温まるのを待つように、じっとふとんに頤をもたせかけて坐っていたが いっかその顔に涙が流れていた。 「婆アちゃん。」 ゆみが声をかけると、婆さんははにかむように笑って、 「泣く年齢でもねえけンど : : : 。」 そして、手の甲で涙を拭いた。 「婆アちゃん。諦めてくろな。」 ゆみも声がかすれた。 彼女は、庄三の死の瞬間はもちろん、葬式にも、今日の墓参にも、涙らしい涙はこぼさなか 「見ろな、おゆみさん、さつばり泣かすに平気でいるよ。」 近所の手伝い女房達は聞こえよがしにささやき合ったが、ゆみはそれにも口惜しい気持ちを 起さなかった。ゆみは実際平気だった。余りにも唐突な庄三の死は、ゆみに死の実感を与えな かったのだ。 かっ けれども、曽て庄三の寝床だった場所にふとんを敷いて、皺だらけの顔に涙を流しているな しわ
向 風 125 取りにがすと、もういっ帰れるかわからないからだ。俺は駈けた。心臓が破裂するまで走り づけようと覚悟した。お前の顔が、じっと俺をみていたからだ。」 「俺だって、待ってたよ。」 なこうと いや、もうよそう。俺たちは鬼頭さんの媒介人で、ありきたりの見合結婚をし ~ 「しかし : っしょにいなかった。薄情のようだが、俺は召集がきた 仲だ。そして、たった五カ月しかい も、あんまりお前のことは心配しなかった。それは戦死を覚悟していたせいもあるが、たし、 にその時分は愛情というものに目覚めていなかったんだよ。だからゆみだって : 「それもちがってるよ。」 「じゃ、ゆみは、俺がゆみを思ってるように、俺を思ってるとでもいうのかい。」 「あたりまえじゃないか。」 めがしら ふいと涙が浮んだ。しかしゆみはあわててそれ 怒ったような厳しさで言うゆみの眼頭に、 拭って、 」こよ、もう一ペん鬼頭さんの世話になってもらわなくちゃいけないわ。こんどは、も , 「お前ーし 戦争も召集もないから、戦死にされたり、葬式されたりする心配はないよ。」 「それはどういうことだい。」 「花嫁さんをもらうのさ。」 「ははははは、なるほどね。」 「いや、笑わないでおくれ。これは、本気の話なんだから。だってお前は、新しい松並健一 ,
「だってお父、健は生きてるんだもの。墓なんておかしいよ。」 ひと 「俺は、坊さんたのんできて、また一おがみしてもらって、それから墓をこわすよ。」 「バカ。なんで坊主に一おがみしてもらう必要があるんだ。」 「だって、葬式の時、ああして坊さんにおがんでもらったんだもの。取り消す時も、おがん「 もらわなくちゃ悪かっぺと思ってョ。」 「誰に悪いんだ。」 こんどはいくが返事につまった。 「ほんとに、なんだ、かんだとうっとうしいばばだ。健が生きてるなら生きてるでいいし、 ってくるならくるでいいじゃないか。それを今から、墓のことまで持ち出して騒ぎくさっ 「そんならいいよ。俺は、お父のことをいろいろ心配、してるのに : いくは、前掛を顔にあてた。しやっくりのような泣き声が、その前掛からもれた。 「心配なんて、いらぬお世話だ。」 庄三はラジオのスイッチを切った。 いくは前掛のはしからのぞいた。庄三は土間に下りようとしている。 「お父。まさか今夜は、向うで寝るつもりじゃあるまい。」 いくは鋭く、切り込むように言った。
向 風 190 「なんだ。健は今までいたのかい。」 よなか なか婆さんは頭を上げて、「俺はもう夜半かと思ったよ。」 ところで、いくはとよと火鉢をかこんで坐っていたが、彼女は健一の足音を戸口に聞くなり 険のある調子で言った。 「婆アらは、まだ起きてたのかい。俺は、よっぱど見に行こうかと思ったよ。用もないのに、 新屋に居なくてもよかっぺと思ってョ。」 「用があるから居たんだよ。」と、健一も打ち返した。「何も一々、俺のすることに文句をつけ なくてもいいだろう。」 「じゃ、健もお父とおんなじこンだ。ゆみの事ばっかし心配してやがる。とよだって、それじ や面白かあるまいよ。」 「そんなの、余計なことだよ。」 健一は、次の間の寝床に、綿人服ごともぐりこんだ。 とよが寝床にきたのは、それから一時間ばかりたってのことだった。それまで、いくととよ のひそひそ話が耳について、健一は寝つけなかった。けれども、彼は眠ったような呼吸使いで ごろ寝の背を曲げていた。 「あら、いやだ。服もぬがないで : と、とよは健一の肩をたたいた。 健一は、やはり黙っている。 「葬式で疲れたのは、みんなおんなじだわ。服ぐらい脱いだらいい じゃないの。」 きづか