つい先日、そのなかのひとりが、ご自分の母親の思い出話をしてくださいました。 そのお方のお母さんは、毎朝ただの一度も子供たちを起こそうとしなかったし、お弁 当を忘れても届けもしなかったそうです。 『寝坊したため朝ご飯が食べられなかったり、遅刻して恥ずかしかったら、自分から 起きてゆくようになる。 お腹がすいて辛い思いをすれば、次から忘れないようになる。その方が大切。 子供の人生、親は手伝うことも代わってやることもできないから』 ころ と言って。その頃は〈なんて私の母は冷たいのだろう〉と、思ったそうです。 そして、しみじみと、こんなふうに言うのです。 ″いまにして思えば、深い愛あればこその厳しさだったんだな、と母親に感謝してお ります。 自分が親になって初めてわかります。朝、起こしてしまった方が気楽ですよ。お腹 を空かしたり、遅刻して辛い思いをしているだろうことを黙って見ているのは、本人 より辛い でも自分の人生をよい方に導いてゆくのも、駄目にするのも、自分しかないんだと なか
を呼びに走りました。雲水たちが私の部屋に集まった時には、早くも月は厚い黒雲の 中に姿を隠してしまいました。 がっかりしながら月見団子がわりのお菓子をつまんでいると、黒雲の蔭から、かく のぞ れんぼしている坊やがそっと覗き見しているように、月が再び姿を現し始めたのです。 皆の歓声の中に姿を現した月は、またアッという間に雲に隠れてしまいました。ま るで雲と鬼ごっこしているようです。 くものある日くもはかなしい くものない日そらはさびしい やしゅうきち これは八木重吉の「雲」という詩です。 人の一生には、萌え出づる若葉のような時もありましよう。真紅に紅葉し、あるい わくらば ひさめ は病葉となり、寒風に吹きちぎられ、そして雲や氷雨に閉さされる日もありましよう。 月も雲間があった方が楽しいように、人生の旅も変化があった方がよいのです。愛 する日があり、憎しみあう日もあり、生まれたと喜び、死んだと嘆き : ・ ノ 20
第 24 話人を叱る時に私心や我が潜んではいませんか。 こころ、え 一、よく心得ぬ事を、人に教える 一、人のかくす事を、あからさまに言う 一、憎き心をもちて、人を叱る 一、悪しきと知りながら一 = ロい通す 一、手柄話 一、呉れてのち、人にその事をかたる 一、しめやかなる座にて、心なく物一一 = ロう 一、客の前にて、人を叱る 一、下僕をつかうに、一一一一口葉のあらき 一、いやしきおどけ 一、学者くさき話 からことば 一、好んで唐一 = ロ葉 ( 外来語 ) を使う さと 一、悟りくさき話 ことわり 一、酒に酔いて理 ( 理嶇を言う 一、かえらぬことを幾度もいう 3 2
第 23 話お正月の心は、闇から光への第一歩。 人の一生にはいろいろありま亠丿。よいことばかりということも、亜いことばかりと いうことも決してありません。 昔から「禍福はあざなえる縄の如し」 ( 史記 ) とか、「禍福門なし、唯人の招く所」 ( 左伝 ) などと語りつがれているように、大切なのはそれをどう受け止めてゆくかで ありましよう。 闇という言葉で象徴されるような悲しい生まれや、育ちゃ、環境や、人生の出来事 を、はてしなく、さらに悪い方へと育ててしまい、その重みに押しひかれ、出口のな いような人生を生きている人もいます。 誰が見ても、「これほどのひどい闇はない」と、思うほどにきびしい谷間にあって も、むしろそれゆえにこそ光を求め、闇のおかげと、闇を光へと転して生きている人 もいま亠丿。 反対に恵まれた環境に生まれ育っていても、たとえば空気の中にいて空気のありが たさに気づかないように、そのありがたさがわからず、悪い方へ、闇の方へと転落し てしまう人もいます。 精神的にも物理的にも恵まれた方が、それを更に育てる方向へ、つまり光より光へ 795
なったら、あなたは間違いのない坐禅をしている証拠です。 しかし、″お母さん、坐禅するようになったらそばへ寄りつきにくくなった〃とか、 ″お母さん、嫌い ! 〃といわれるようになったら、その坐禅は間違っている証拠です」 正しい宗教というのは、このようにきわめて常識的、健康的なものなのです。 まだほかにもたくさんありましようが、最後にもうひとつだけとりあげておきたい ことは、自分の宗教だけをよしとして、ほかを非難する宗教的エゴイズムです。 これは新宗教に限らす世界的宗教といわれる宗教にあっても、もっとも陥りがちな 落とし穴です。自分の信ずる教えに純粋であればあるほど、信する思いがひたむきで あればあるほど、そのほかの教えは間違いということになりかねませんから。 破 どうげ第せんじ を 道元禅師は、 じほうあいぜん あ 「自法愛染の故に、他を毀眥することなかれ」 教 とおっしやられますが、宗教的純粋さと、宗教的寛容とがどこでどう折りあってゆ くか、非常にむずかしい問題です。いずれにしても、宗教は、たった一度の、たった 誤 一つしかない命を託するものなのです。冷厳な目で選んでゆかねば、と思うことです。 第 7 る
たた みずこ インチキ宗教です。したがって先祖が祟っているとか、水子の霊が邪魔しているとか じよれい いって、除霊とか縁切りとかをしきりに持ち出して、むやみに金がかかるのも、眉っ ばものと思ったらよいでしよう。 くうちゅ、つふよう 第 3 には、超能力というような一 = ロ葉が象徴するような、たとえば空中浮揚をして みせるとか、そういうことが出てきたら、これも用心してください。 正しい宗教とは常識的で健康的なもの 第 4 に、教祖とか会長と呼ばれる方が、生き仏、生き神の座に君臨している宗教も 要注意です。目のない信者を酔っぱらわせ、思うようにあやつるには、教祖は雲の上 にいるほうが効果的なのです。 教祖の髪の毛や、入浴した風呂の湯をとんでもない値段で売り、また信者の方も感 激して飲む、そんな馬鹿げた状態は宗教でも信仰でもありません。 お釈迦さまさえ、「私はお前たちの師ではない」とおっしやり、「法を師とせよ」と 示され、「法の前に皆兄弟である」と説いておられます。 くんりん ノ / 0
そして、人の社会にあっても、政治家はおのれを捨てて人々の真の幸せのための政 治に命をかけ、医者は医者の使命に、教育者は教育に、父は父の座、母は母としての 使命に命をかける時、ほんとうの布施ができたと言えるのです。一つ間違うと奪い合 いの悲しく貧しい人生となり、一つ切り換えると、布施のしあいのあたたかく豊かな 人生となります。 ごしをこん お地蔵さまをお参りする時の御真言は、 「オンカカカビサンマエイソワカ」 カカタイショウ であることはご存じですか。「カカ」は「呵呵大笑」の「呵呵ーで、「ハッハッ」 という笑い声を表し、「カビサンマエイ」は「莞爾」と訳し、微笑みを表します。 ハサマ〃という母への呼び名も、 日本で昔から呼び親しまれている″カカサマ〃 ハハから来ているのだそうです。 この笑い声、カカ、 そして言うまでもなく、これは女性に限ったことではありません。 すべての人のありようを花にたとえ、その花とは常に今ここにあって微笑みをたや さないことなのだということを、幾重にも心に銘記した毎日でありたいと思うことで す。 6 5
零歳児、 2 歳児などの乳児を預かる心労は、産みの母に代われないだけによけい大認 変なものであるが、それはまだよいとして、預ける側の母親の姿勢に納得できないケ ースが多いと、保母さんはおっしやるのです。 共働きの家庭ならせめて一刻も早く帰り、一刻も早く迎えに来ようという姿勢が欲 つぐな しい。休みぐらいは自分の手元に置いて、普段ゆき届かない分を償うくらいな気持ち になってほし、 ところが、やっかい者を預けたとばかりに、勤めから帰っても迎えに来ないで、 時間でも多く預けておいて、自分のしたいことをしようとする。連休なども、たとえ 1 日ぐらい預けてと思うと、 3 日の連休なら 3 日とも預けに来て、自分は何をし ているかというと、″遊び〃を楽しんでいる、などというお母さんが多くなったと。 そして、こう付け加えました。 「産めば親になれるというもんじゃありません。動物だって自分の命をかけても、子 てしお を守り育てます。″手塩にかけて〃という言葉がありますけど、子育てのためにどれ きずな だけ惜しみない努力が払われたか。そのことを通して親子の絆も育てられ、深められ るものだと思います」
第 22 話あなたの行いに、、、慢〃は隠れていませんか。 ハラモンというのはインドの最も高貴な階級の代名詞だと考えればよいでしよう。 要するにその人が尊いか卑しいか、あるいは価値があるかないかは、生まれではな く、行為による、生き方による、というのです。 お釈迦さまは繰り返してこのことをお説きになり、また実践されました。 ある年、お釈迦さまはご自分の故郷、釈迦国のカビラ城をお訪ねになりました。 くんりん 出家をしておられなかったら王として君臨しておられるはずのお釈迦さまのところ ーリなどが出家を願い出てきま に、同じ王族の従弟たちや下層階級出身の理髪師ゥパ した。 リを先に出家させて上位に座らせ、王族出身の そこでお釈迦さまは、あえてウ。ハ 従弟たちは後で出家させて下位に座らせました。 さあ、王族出身のメイハーがおさまりません。昨日まで自分たちがこき使っていた , ーリが、自分たちより上に座るのはとんでもない、とお釈迦さまに中 下層階級のウ。、 し立てました。 お釈迦さまは厳として、 しせい しカカし 「四河海に入りてまた本名なく、四姓出家して同じく釈氏と称せよー とこ ほんみよう しやくし じっせん ノ 89
" 賢い人。 " 正しい人。ばかりが集まるところは地獄絵に 禅門に「その智には及ぶべくも、その愚には及ぶべからす」という一一一一口葉があります。 人はみな誰よりも利口になろうとし、また少しでも利口に見せようと背のびし、そ しちて第はっとう れが裏目に出ると、人を強いて見下そうとして七顯八倒いたします。人の長所を素直 に認めると同時に、自分の欠点や愚かさをごまかさずに見つめてゆくということは至 難なことです。 本当に賢い人というのは、こういうおのれの愚かさを知り、おのれの欠点を素直に 認めることができる人のことではないでしようか。 みよ、つこうにん ″妙好人〃 ( 出世に執着せず、信条に生きる人 ) と呼ばれた浅原才市さんは、できあが ってきた自分の肖像画をみて、 「これは私の肖像画ではない。私の頭には角が生えている」 と言って、自分からその肖像画に 2 本の角を描きこんだと伝えられております。 この浅原才市さんと同じ明治・大正時代に、山陰の地で生まれ育ち、人々から″妙 ぜんもん およ つの さいいち 762