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検索対象: 悲しみはあした花咲く
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1. 悲しみはあした花咲く

第 15 話いつ迎えが来てもかまわないほど、あなたの人生は充実していますか。 なんどき無間地獄へ引き取ってくれても、一言の文句も言わない、と、冥土の国を つかさど 司る閻魔大王に誓っているのです。 この体は、何に使うために大切にするの ? あなたはこの「天地さまからお借りしている」ご自分の体を、たった一つの、たっ た一度のこの体を何に使おうとしておられるのでしようか。いまひと時の、さびしさ まぎ や孤独を紛らわせるための快楽のために ? それともお金や名誉を手に入れるために でしようか ? いずれもむなしいですね。 のこ いちばん大切なことのために、この体を使いたい。借用證文を遺した方は、 「仏法聴聞のために」 とおっしやる。 もちろんこれは、仏教の修行に限ったことではありません。 この世にあっていちばん大切なこと、最高の生き方、最後の落ちつき場所ーーそれ を求めるために、仏さまの教えに耳を傾け、実行し、悔いのない一日一日を送るため 729

2. 悲しみはあした花咲く

じ一つのエネルギー 摘むことしか考えなかったら、出る場所を失ったエネルギーはますます曲折し、鬱 せき 積してゆきます。誰しもが必ずよい芽を一つは持っています。 その芽を探し、 「あなたはここが素晴らしい」 と、その芽を褒めてどんどん伸ばすようにすれば、非行に走るエネルギーは少なく なるはずです。 いまから約 2 千 500 年前。ある日、お釈迦さまは弟子たちと大きな河の渡し 舟に乗りました。 舟が朽ちかけていたのでしようか、河の真ん中あたりで浸水し始めました。 そこでお釈迦さまは弟子たちに呼びかけ、みんなで力を合わせて水を汲み出し、な んとか無事に向こう岸へ着くことができました。 その時お釈迦さまは、この舟旅にたとえて人生の旅のありようを、こう説きました。 び 比丘よ しやか うつ 6

3. 悲しみはあした花咲く

第 12 話何が幸せかを選んで生きる目の深さを養ってください。 たとえば、色が黒いとか、鼻筋がきれいとかの、自分では択ぶことの許されない、 さず 授かりとしていただくより仕方のない一面と、冷厳な目で択び抜かねばならない一面 とがあります。 親は子を択ぶことができす、子は親を択ぶことはできません。自業自得と言われて も仕様のないような、自ら招いた病気とか事故ということも時にはありましようが、 降って湧いたような形で災難に出遭うこともあります。 そういう時は逃げず愚痴らず、本腰を入れて受けて立ち、″さいわいに〃と転じて いこうじゃないかということは前にお話しした通りです。 ちえ けんじゃくだんぎ 「智慧」を訳せば『簡択断疑』 もう一つの姿は、択び抜いてゆく世界です。 人生はしあわせを求めての旅であり、さらには、何をもってしあわせとするか、何 をこそ価値あるものとするかの目の深さ、確かさによって、その人の人生が決まって ゆくような気がしてなりません。 ノ 05

4. 悲しみはあした花咲く

心のこもらない多くのものより、わずかでも真心のこもっている方がはるかに 素晴らしい、というのです。 真心いつばいの料理は、たとえ品数は少なくとも、心が豊かに満たされますが、心 のこもらない料理をいかに品数多く並べても、満腹とは裏腹に心は空しいものであり、 大切なのは真心だというのです。 食材や道具を自分の眼の玉のように大切に 一服のお茶をいただいた後、祖道老師は草笛を吹いて聞かせて下さいました。信州 よいん の澄んだ秋の空に、草笛の音色は静かな余韻を残して消えてゆきました。 天地いつばいをわが故郷とし、いずこもわが家とし、その中に住む一切のもの、人 間ばかりじゃない、動物も草木も、この地上に住むすべてを一つ命に生かされている 兄弟として、親しみの眼を持って見つめ、呼びかけ、扱っておられる祖道老師。 ぶっし その姿をまのあたりに見て、私は道元禅師が、「共に仏子たり」と呼びかけておら れる一一 = ロ葉を思いました。地上にある一切のものは、地球という名のひとつの船に乗り 772

5. 悲しみはあした花咲く

第 8 話人間を駄目にする、、三毒〃さえも大切な命のエネルギー こしつ 私たちは、天地の道理、真実の姿に暗いがゆえに〈痴〉、小さな私のみに固執し、 その思いにかなうことは限りなく追いかけ〈〈昱、かなわないと怒り腹を立てる〈瞋〉 のです。 ここでもう一度、先ほどのお釈迦さまの教えを読み直してみましようか。 日本語訳では「貪りと瞋りを断たば」となっていますけれども、断ったり除いたり するのではなく「転じる」と解釈する方がよいのでは、と私は思います。なぜなら、 泥を捨てたら蓮の花も咲かないように、泥こそが肥料となるように、欲は大切な命の エネルギーだからです。欲がイコール悪ではありません。 ただ天地の道理に暗いばかりに小さな自我の満足の方向にのみ暴走させた時、煩悩 となり、小さな自我の囲いから解き放って天地いつばい一つ命という方向に向け変え ることができた時、煩悩の欲はよいエネルギ】へと変わり、舟を浮かべる水となりま す。 人間の欲望も、欲するままに暴走させると破減に導きます。といって、欲をまった く禁じたら生きてゆくこともやめねばなりません。欲をコントロルし、あるべきょ うに方向づけができた人を社会では大人と呼びーー仏教では菩薩と呼ぶのです。

6. 悲しみはあした花咲く

第 30 話 ( 特別付録 ) 良寛さまの「戒語」 90 カ条。 ふうが ・以下良寛さま『戒語』カ条以外の文献から 風雅くさき話 青山先生が抜き出した言葉 うはのロきく 一、憎き心をもちて、人を叱る 訂さしてもなき事を論ずる たっ 一、客の前にて、人を叱る 節もなき事に節を立る 、り - よ、つ 一、下僕をつかうに、言葉のあらき 人の器量のあるなし あくび ねんぶつ 一、いやしきおどけ 欠伸とともに今仏 さいわ 一、かえらぬことを幾度もいう 幸いの重なりたるとき、物多く ながばなし 一、人のいやがるも知らず長話 もらうとき、ありがたき事宀 = ロう いったことはふたたびかえらず 人に物くれぬさきに、なになに 一、かしましく、ものいう やろうと言う 呉れてのち、人にその事をかたる一、すべて一一 = 〔葉はしみじみ一一 = ロうべし ※この「良寛さまの戒語カ条」は、「はちすの露 ( 貞心尼筆 ) 」 ( 野島出版刊 ) ああいたしました、こういたし の「特別付録良禪師戒語」を参著とさせていただきました ( 編集部 ) かさ ました、ましたましたの重なる 俺がこうしたこうした 囲鼻であしらう 3 2

7. 悲しみはあした花咲く

おきび 老師は小さな鍋に水を汲んで来られ、それを燠火の上にかけられてから、静かにお 話を始められました。 てんぞきようくん 『典座教訓』ーーわが人生をどう料理するか ? 「みんな大空という一つ屋根をいただき、大地という一つの床の上に住む同じ家の住 われ 人じゃありませんか。それなのに一生懸命境を造ったり、垣根で囲ったりして、吾の もの彼のものと区別をつけるから、取っただの、取られただの、損をしたの得をした のというつまらない思いが湧いてくるのです。 宇宙いつばいわが家、あの鳥もこの猫も、みんなわが家の家族、一つ命に生かされ みちばた ている兄弟姉妹です。どの道端に咲いているタンポポもわが境内に咲く花。浅間山も つきやま 富士山も、わが家の庭の築山ですよ」 ずだぶくろ ちやわん やがて鍋の湯が沸くと、頭陀袋の中から茶碗を出されました。汽車の弁当のうどん のドンブリです。老師はニコニコしながら、 せんのりきゅう 「これは千利休さんの使われた茶碗」 ーしたし 770

8. 悲しみはあした花咲く

地球も一つの生命体として、一切の物が関わり合いながら存在しているーーこの道た 理をよく理解できるようになると、私という一個の命のありようも、一つの命である 地球の中の一細胞として、地球的視野のもとに考え行動しなければならないというこ とも、おのずから分かってまいります。天地の道理にかなった生き方とはそういうこ とであり、その道理に暗いのを″愚痴〃というのです。 ぼさっ 本当の大人を " 菩薩。と呼ぶのです よく私たちは、 「あの人は痴ばっかり言って、嫌ねー おぼ とか言いますよね。みなさん、憶えがありますでしよう ? この場合の愚痴は、道理が分かっていないがゆえの、人さまや世間への恨みつらみ、 なげ 嘆きを口にすること。ですから、痴ばかり言う人は、周りから疎まれ、嫌われがち なのです。でも私たちはみんな凡夫ーー普通の人間ですから、この道理がなかなか分 かりません。 ぼんぶ 、つレ」

9. 悲しみはあした花咲く

とんじんち 人を駄目にする三毒ーー貪・瞋・痴 さきほどのお釈迦さまの教えに「貪りと瞋りを断たば」とありますけれど、この 「貪りと瞋り」というのは″三毒〃のことです。 仏教では私たちの数限りない煩悩を分類し、そのいちばん根源になるものとして ″貪・瞋・痴〃の 3 つをあげ、これを三毒と呼んでいます。 ″貪〃とは、愛情やお金や名声を、美味しいものや、気持ちのいいことを「もっと欲 しい、もっと欲しい」と、際限なく貪ること。 ″瞋〃は、自分の意にそわないこと、心かなわぬことに対して瞋り ( 怒り ) 腹立っ心 のこと。 ″痴〃とは、天地自然や人間社会における、すべての道理に暗いこと。 この 3 つの毒は個別に働くものではなく、一つのものとして噛み合いながら働くの ですが、中でもいちばんの猛毒は痴・ーー道理に暗いということでしよう。 たとえば私たちのこの体は兆の細胞が、一つの命として一糸乱れずに、お互いに さんどく 0

10. 悲しみはあした花咲く

第 28 話くさみのない空気や水のような生き方をしたいものです。 う学びこそがほんとうの学びの姿ではないでしようか。 「くさい」ということで忘れられない、もう一つのお話があります。十何年も前のこ つるみそうじじかんしゅ そ、つとうしゅう とになりましようか。そのころ、曹洞宗の大本山の一つである鶴見の総持寺の貫主 うめだぜんじ ( 住職 ) であられた梅田禅師というお方は、大変な読書家でいらっしゃいました。私 のような若輩者の書いた本もていねいに読んでいてくださったのです。ある時ご一緒 にお茶をいただく機会がありました。禅師さまがこうおっしやるんです。 「あんたさんの文章は、わしも心して読まさせてもらっています。とても美しい文章 じゃな。けどな、屁のような文章が書けるよう工夫しなされ。ただしくさくてはいか ん」 「屁のような文章をかけ、ただしくさくてはいかん」 このお言葉は、今も私の心の奥にひびきつづけております。 9 2