第 17 話生も死も、永遠の命の一時の位なのです。 た限り、必ず終わる日が来るのは当たり前なのです。 いっとき 生も死も一時の位なのです まど・みちおさんは詩の最後を、 水は歌います 川を走りながら 川である今のドンドコを 水である命の永遠を の言葉で結んでおられます。すごい結びの一句ですね。 永遠の水の命、いま私は川という姿でいただいている。その川のドンドコに命をか ける、雨の配役になったら雨のザンザ力に命をかける、それがそのまま永遠の水の命 を生ききることになるのだというのです。
どうげんせんじ 道元禅師はこれを、 「生も一時の位、死も一時の位」 とおっしゃいました。水という永遠の命の中にあって、川という位の時、雲という 位の時、雪という位の時があるように、永遠の仏の命の、生という位の時、老・病・ 死という位の時ということなのです。 しよ、つじ 私たちは、みんな生死なぎ仏の命を生死する。そこにあって、いずれの配役も、老 いも、病いも : ほけも、死も、一時の位であって、仏の命からはすれつこない命の一 歩として、大切にいとおしみながら歩んでゆくということではないでしようか。人生 を大切に生きるという生き方も、これよりほかにないのでしよう。 7 イ 8
ほうしよく ました。それがいまは飽食の時代となり、ご飯粒をいつばいつけたまま洗い流し、 そ、 2 ごい お惣菜も残したまま捨てることに何のためらいもない。まして罪悪感などまったくな くなってしまっていることは、残念でなりません。 「人間は生きるために、にわとりも殺さなくちゃいけないし、豚も殺さなければいけ 生きるってことは、ずい分迷惑をかけることなんだなあ。 自分で自分のことを全部できたら、人は一人ぼっちになってしまう。他人に迷惑を かけるということは、その人とつながりを持っことなんだ。 他人の世話をするってことは、その人に愛をもっことなんだ。生きるってことは、 たくさんの生命とつながりをもっことなんだ」 これはある農地実験所を見学した小学 6 年生の山崎まどかちゃんの作文の一節 ちゃくせいきよう 着成恭著『へソの詩』 ) です。 今日一日生かさせていただくために、どれだけの命をいただいていることでしよう。 数えきれないほどのお米の命、味噌や豆腐や納豆の原料となった大豆の命、豚や牛 や魚や野菜たちの命、限りない命の儀牲の上に、私のいまひとときの命があらしめら ノ 7 イ
第 15 話いつ迎えが来てもかまわないほど、あなたの人生は充実していますか。 , つんす . い と、ってつ きよう力い その透徹した境涯を慕ってある日、一人の雲水が訪ねてきました。 瓢水はたまたま風邪薬を買いに出かけて、お留守でした。「高い噂を聞いて訪ねて 来たが、自分の生命に執着があるようでは大した人ではない」と見て帰ってしまった 雲水に、瓢水が贈ったのがこの句であったといいます。 いずれ海に入って濡れるのだから、浜までのしばらくを時雨に濡れて行ってもどう ということはなかろうと思いがちですが、そうではない。 健康な体あってこそ仕事もできる。その大切な体を、意味もなく濡らすような心な いことはしない、というのです。 ぞ、よ , っ この体あって仏法が聞け、仏道を行じ、人々に伝えることもできる。そのためには 命を惜しんではならないが、だからこそこの命を惜しみ大切にせねばならない。小さ な私一個のために命を惜しむのではなく、仏法のために命を惜しむというのです。 ふしやくしんみよう 不惜身命なるがゆえに惜身命 そ 私は歳の春、頭を剃って名古屋の修行道場に入りました。 5 歳の時から空気のき した 725
第 13 話限りない犠牲のうえに、あなたは生かされている。 合わせた一家族。いずれもが天地いつばいの仏の命をいただいた仏子であり、兄弟仲 そんび 間たちであって、そこに尊卑の序列はない。 人も仏子なら犬も猫も仏子、大根、人参も仏子。みんな平等の命をいただいた仏子 たち。だから菜っ葉一枚、水一滴、お米一粒をわが命と思って大切にせよと説かれる。 鍋の底をガチャンとぶつつけたら、私の頭もガチャンとぶつつけたように受けとめ、 鍋の悲噫が聞こえなきや駄目だとおっしやるのです。 はんむかとうじとう 「飯を蒸す鍋頭を自頭となし、 しんめい 米を淘ぎ水はこれ身命なりと知る」 と示され、さらに材料や道具を、 ごしやく が・をせいごと 「護惜すること眼晴の如くせよー 自分の眼の玉を大事にするように大切に扱えと、お説きになっておられます。 がっしよ、つ 「命いただきます ! ーと感謝の合掌を 昔から日本の家庭では、お米一粒、水一滴を大切にすることを、厳しく躾けて参り 7. / 3
第 17 話生も死も、永遠の命の一時の位なのです。 春が巡ってきました》 と締めくくられております。 アメリカの哲学者の語る死生観が仏教の死生観そのものであることに驚くと同時に、 宗教的一一 = ロ葉の匂いを少しも持たせすに一枚の葉っぱの「いのちの旅ーという形に象徴 して、人の命の姿ゃありようをみごとに語っていることに、深い感動を覚えたことで かえ 永遠の命に還っただけです その翌日、つい最近に母を失ったばかりの一人息子の青年が、無量寺を訪ねてきま した。 「母はどこへ行ったんでしよう ? 僕たちは死んだらどうなるんでしよう ? 」 と、青年は真剣なまなざしで、、、 しカけてきました。さっそく、『葉っぱのフレデ イ』のお話を引用しながら、こんなお答えを致しました。 「どこへもゆきません。あなたの目には見えず、手にも触れることができず、声もあ
である私、衣装の着手である私自身をどうしたらよいか、などということは思いっき もしないままに。 重い病いの宣告を受けることにより、あるいは死の床にあって、人は初めてそれら のすべてがうたかたのしあわせに過ぎなかったことに、遅ればせながら気がつくので す。 がん 金を積みあげたら命を買えるか ? 肩書を並べたら癌は遠慮してくれるか ? 親が、 妻が、夫が、子供が、何とか代わることはできないかと願ってみても、代わることも 助けることもできません。 たとえ医学がどんなに発達しようと、たとえ臓器移植をしようと、いずれは死んで ゆく命。死から免れることはできない私の命なのです。 一日も早く気づき、一日も早く問わねばならないことは、グッチやプラダのハンド 、、ハッグやプレタポルテの高い衣装ではなく、その持ち主、その着手の私自身の、それ も明日ではない、今日をただいまをどう生きたらよいか、どう生きることが真のしあ わせかを問うことなのです。 人生には 2 つの姿があると思います。 70 イ
第 8 話人間を駄目にする、、三毒〃さえも大切な命のエネルギー こしつ 私たちは、天地の道理、真実の姿に暗いがゆえに〈痴〉、小さな私のみに固執し、 その思いにかなうことは限りなく追いかけ〈〈昱、かなわないと怒り腹を立てる〈瞋〉 のです。 ここでもう一度、先ほどのお釈迦さまの教えを読み直してみましようか。 日本語訳では「貪りと瞋りを断たば」となっていますけれども、断ったり除いたり するのではなく「転じる」と解釈する方がよいのでは、と私は思います。なぜなら、 泥を捨てたら蓮の花も咲かないように、泥こそが肥料となるように、欲は大切な命の エネルギーだからです。欲がイコール悪ではありません。 ただ天地の道理に暗いばかりに小さな自我の満足の方向にのみ暴走させた時、煩悩 となり、小さな自我の囲いから解き放って天地いつばい一つ命という方向に向け変え ることができた時、煩悩の欲はよいエネルギ】へと変わり、舟を浮かべる水となりま す。 人間の欲望も、欲するままに暴走させると破減に導きます。といって、欲をまった く禁じたら生きてゆくこともやめねばなりません。欲をコントロルし、あるべきょ うに方向づけができた人を社会では大人と呼びーー仏教では菩薩と呼ぶのです。
地球も一つの生命体として、一切の物が関わり合いながら存在しているーーこの道た 理をよく理解できるようになると、私という一個の命のありようも、一つの命である 地球の中の一細胞として、地球的視野のもとに考え行動しなければならないというこ とも、おのずから分かってまいります。天地の道理にかなった生き方とはそういうこ とであり、その道理に暗いのを″愚痴〃というのです。 ぼさっ 本当の大人を " 菩薩。と呼ぶのです よく私たちは、 「あの人は痴ばっかり言って、嫌ねー おぼ とか言いますよね。みなさん、憶えがありますでしよう ? この場合の愚痴は、道理が分かっていないがゆえの、人さまや世間への恨みつらみ、 なげ 嘆きを口にすること。ですから、痴ばかり言う人は、周りから疎まれ、嫌われがち なのです。でも私たちはみんな凡夫ーー普通の人間ですから、この道理がなかなか分 かりません。 ぼんぶ 、つレ」
雪や氷だった日の コンコンコンコンを 過去形、未来形、過去形、未来形と織りなしながら、一つの水が縁に従って、同じ 水でも川の姿をとる時、雨の姿をとる時と、いろいろあります。 条件が変われば気体の姿にもなる。気体の水分もさまざまな雲の姿に変わる。 時に美しい虹となったり、条件次第では、一転して雪や氷という固体の姿にもなり ます。 雲や雪や氷のように一度具体的な姿をいただいたら、間違いなく始めがあり、終わ りがあります。 しかし、無くなってしまったわけではありません。 雲は雨に、あるいは雪や氷にと、縁に従って無限に変わりつつ永遠の命を生き続け ているのです。 この詩の雲や雨や雪のところに、私ゃあなたの命を置き換えて見てください。私と いう具体的な姿をいただき、あなたやあなたのお母さんという具体的な姿をいただい お したが 7 イ 6