ン〃目白三平〃を主人公にした単なる娯楽読み物だが、一一足のワラジをはいて、昼間は本職の曰 鉄職員として、刻苦勉励しなければならないのが、泣きどころというか、辛く、苦しいところ 何よりも気分転換が必要であった。そのために立ち寄った「ラ・ポエーム」の店内は、冷房 ~ きいていた。央適であった。ところが、ここでも不可解な現象が起こった。首すしの右側に、 はだ 度は涼気ではなく、ひやっとしたものを感した。私が育った信州の真冬、膚を刺すようなアル→ スおろしの侖気のようであった。 思わすその出所と覚しき方角を振り向くと、右側のテープルに、開いた新聞のため顔は見え宀 ーマン風で中年のお客が坐っているだけであった。冷房で一定した いが、地味な服装のサラリ 内を、こんな寒気が一筋走り過ぎるというのは不思議な現象であった。 私は、かってのテアトル東京 ( 現在はホテル ) の前で向こう側へ渡り、文房具の伊東屋に寄 ( て、インクを買った。店を出た途端に、今度は、首すじの左側に、一筋の涼気を感した。いよ よ不思議であった。 一一足のワラジをはいて、日夜あくせくと働いて来たから、首すしの神経に故障が起きたのか。 一瞬の解放感もなく、無い知恵をしばって、素人の私がもの書き商売をはじめたの ~ 知れない。 から、むしろそれは当然のことといえるだろう。 三カ月ほど前、過労のため腎臓から出血し、血尿で苦労したのにくらべれば、何でもない。 と私は自分自身にいい聞かせた。 しも気にすることではない、
夫婦生活は信頼なくしては存続できないという考えから、ひとことも文句はいわず、女房が納得 するまで探偵をつけさせてやろう、とひそかに決心したのであります。 日夜を問わす、時間を惜しんで、一一足のワラジをはいて汗水垂らして働いているのに、探偵を つけて亭主の浮気さがしをする。よしそれならば、どんなに忙しくとも、敵の探偵の目を盗ん で、浮気をしてやろう、と私は不逞な決心をいたしまして、女房の探偵にこちら側の探偵をつけ て、今は天にまします女房の霊に申し訳ありませんが、幾度か浮気を実行いたしました。 友人の例と いい、私の場合といい、探偵をつけるのはかえって悪い結果をもたらすということ を賢明なる新婦はご理解なさったと思います。 しかし、大人物になることは、苦しく悲しいことでもあります。私が二足のワラジをはいてい た時の国鉄はまだ黒字でしたから、ます私は国鉄の利益をあげ、私を含めて一家三人を養い、女 祝房が依頼した興信所を儲けさせ、私を尾行しているそこの社員一家四人の生活を保障し、私が雇 りじゅん 宴った探偵事務所の利潤をあげ、その探偵のサラリーも結局私が支払ったことになります。 披かくのごとくして、四十五キロの寒巌枯木のごとき私は半年間、三会社を経営し、三家族を養 結い続けました。男生というものは、大いなる理不尽なことにもしっと耐え、時には大人物になら ねばならぬ宿命をになっていることを、特に新郎に申しあげたいのでごさいます。 長家で間に合うもの わが女房は何を勘ちがいしたのか、先に勝手にお亡くなりになって、男ヤモメの私は、ただい
は嘆き続けて来ているからだ。 「どんなに巨大なものを持っていても、男には巨大願望があるんですよ。同時に、それなりの 4 のであっても、自分のものは、誰よりもさらに小さいのだといこんでいるんだそうです」 甘木さんが、私を慰めるようなことをいった。 包帯を忘れて寝てしまう そこへ、三人目の手術を終えた院長が戻って来た。ソフアに腰を下ろすや否や、 「中村さんはお幾つになられますか 「四十八歳になりました。三年前から、文学志望もないのに、変なキッカケから内職に、〃目〈 三平シリーズ〃という小説めいたものを書きだしまして、昼は国鉄に勤めて、一一足のワラジを」 いてアクセクと働いているんです」 「子どもさんはお幾人です」 「男の子が一人ですが、昭和十八年に生まれまして、産制もしないのに、その後十五年たちま一 けれど、次ができません」 「もう一人くらい、はしいとは田 5 いませんか」 「いえ、結構ですわ。もう沢山です。子どもを作ることは簡単だが、父親になることは難しい 言かいってますね。一人でこりごりです。私は子どもの教育には無責任で、五体満足で成人し、 しいと思っています。無理して、有名校に入れる必要は . 人さまに迷惑をかけない人間になれば )
を雇って女性のマンションを捜し、乗りこんで行って大喧嘩をしたのであります。 その結果、相手の女性の結婚は駄目になり、お互いにそのつもりのない友人夫婦は離婚し、し かも友人はその女性と一緒にならざるを得なかったのであります。探偵を雇ったために覆水盆に 返らすという予期しないことになったのでございます。 また私ごとになりますが、国鉄に勤めているうちに、思いがけす変なキッカケから、内職にも の書きをするようになりまして、目白の自宅から通勤することが困難になり、国鉄の裏の丸の内 ホテルの一部屋を六年間書斎代わりにして、拙作〃目白三平シリーズ〃を書き続けたのでありま す。今から考えますと、われながらよくぞ一一足のワラジをはき続けたもので、聞くも涙、語るも 涙の物語でございます。 ところが、女一房は、ホテルといえば、どこでもラプホテルと勘ちがいいたしまして、大手の興 信所に私の素行調査を依頼したのでございます。 それがわかりましたのは、一カ月後でありました。ホテルから外へ出ると、行く先々で誰かか ら監視されているように思われ、また時々首のあたりに、真夏だというのに一筋の冷たい風があ たるのであります。 そこで、知人の私立探偵事務所に調べて貰いましたところ、すでにひと月前の六月から、女房 が依頼した探偵に尾行されていることがわかりました。普通の人ならば、女房を怒鳴りつける か、それとも、そんな無駄なことはせすに、ダイヤの指輪や洋服、その他何でも好きなものを買 ったらいいではないか、というだろうと思いますが、そこは文章は下手ながら、大人物の私は、 ふくすいまん
お支払いするわけです。そのお金は、とりもなおさす、ここにいる私が、二足のワラジをはい て、昼夜をわかたす汗水垂らして稼いだものなんですよ。 いよいよケチくさいことを申しあげますが、あんたさんは、晩酌にはいつでもスコッチを飲ん でおられますか。そうではないでしよう。間違いなく、日本製のごく安いウイスキーだと思いま すわ。その銘柄で十分に満足なさっているはすです。 にもかかわらす、実費請求ができる今夜のような場合には、スコッチをがぶ飲みして、大い : 得をしたとお考えのようですが、一一十代ならいざ知らす、いい歳をして、何とまあいしましく、 しいと思いますわ。 いやしいお人柄だといっても、 今後、私を尾行し続けて、プールヾールで毎晩スコッチを飲んでおられますと、これまでうま かったお宅の晩酌の日本製ウイスキーがますくなります。そこで晩酌にも無理をしてスコッチを 飲むようになる。その結果、奥さんから文句が出て喧嘩になる。家庭がうまくいかないと、会社 の仕事にも影響する。 たとえ、社用であっても、あんたさんがいつも愛用している酒をお飲みになるべきです。私の 財布に関係するからいうのではありませんが、ミミッチイことやうす汚いことはおやめなさい。 精神衛生上もよくありません。 私の経験で申しますと、誰にも頭を下げすに、身銭をきって飲む酒が、いちばんうまいと断言 できます。酒ばかりでなく、サラリ ーマンは、常に身銭をきって、生きて行くべきではないでし ようか。生意気なことを申しましたが、何卒お許し下さい
〃エスプリみの亠月無である。あわててお断りしておくが、〃センス・オプ・ヒューモア〃というの は、たとえば舌足らすの小娘が出てきて「ヤバダカアタバシテパスカ」 ( やわらかあたましてま すか ) などという小学生レベルとしかいいようがないテレビ O の駄笑いとは無縁の、あくまで ほんもののユーモア感覚のことをさす。 第三に、表現力。これこそが、最後の難関である。喋るのなら話術、書くのなら文体、それな くして〃はんもののワイ談〃は成立しない。私なんぞは、馬齢のみ重わてきて、年齢資格こそ るものの、表現力が伴わない。だから、こういうものは書けない わが身に照らして、つくつく思う。 ふうび 一世を風靡した〃目白三平みから、いまや自称〃ナベョコ ( 註Ⅱ鍋屋横丁 ) の隠居〃に転した 中村武志さんこそ、艶笑譚の最高のである。 明治四十一一年 ( 一九〇九 ) のお生れで、いま現在 ( 一九九〇 ) 八十一歳ーー年に不足はない。 きゅう 信州の素野家に生をうけ、笈を負うて上京、国鉄 ( 現 (æ) に奉職して以来、定年退職の日ま で、〃目白三平シリーズ〃の生みの親として、一一足のワラジを履きとおして、あまりの激務ゅ に、ついに、丸の内ホテルの一室で、寝グソをお漏らしになるという悲惨な事態 ( 本書に掲載 ) 説 解まで体験なさっておられる。 のみならす、日本中の全国民が塗臓の苦しみを余儀なくされた戦前・戦中・戦後を通して、 代の文章家にして稀代のへんくっししいであった内田百閒に師事、塗炭の上塗りとでもいうべき そまうか
、つこともどちらもできないのであります。悪口はともかく、褒めることができないことを、町 新婦ならびにご両親およびお仲人にお詫び申しあげます。 話は変わりますが、私は自分の書く文章に自信はありませんし、当然のこと年々売れなくな " まして、国鉄を定年退職後今日にいたるまで、いわゆる〃目白三平シリーズ〃という看板小説」 一つも書いておりません。しかし、私には、昔から、人を見る目は備わっているのでありま , て、今日まで一度もはすれたことがございません。 先はど申しあげたように、一時間前にはじめて新郎、新婦にお目にかかりまして、私の狂わ〈 直感で感しましたことは、新郎は前途有為な青年であり、新婦は才色兼備のよき奥さまになれ , 方だということでございます。文章は下手ですが、人を見る目の正しい私のいうことですから、 祝十中八、九まで間違いはございません。 宴私は、〃目白三平〃というたいへん小心で、温厚、誠実で、女房の尻に敷かれつばなしの国 ~ 披職員を主人公にした小説を、在職中一一足のワラジをはいて十一一年間書き続けてまいりましたが、 結作者の私は、外柔内剛で、目白三平とは似ても似つかぬ封建的横暴毫王でございました。 短気で頑固一徹な祖父の血を受けついだ私は、新婚一週間も経たぬうちから横暴ぶりを発揮、 たしました。たとえば、食事中に何かごくつまらぬことで腹をたてますと、乱暴にも、すぐ食一 長 をひっくりかえしたのであります。 もちろん、茶碗、皿、小鉢はみんな割れたり、欠けたりいたします。いや、割れないと面白 ,
124 敵討ちをしたつもりでいるが、この無神経さが、なんとも情けない。 東大出ではなく、学歴は低いが心やさしい私たちなら、警官にわからぬように横を向いて、 気なく通り過ぎるだろう。 逃げられない最後の上役がいた 話を退職日に戻す。毎日新聞のかっての有名な記者で、退職後は交通評論家として活躍、ま ~ 日本交通協会の理事をし、かっ十河信一一国鉄総裁を助けて新幹線を作った、私より十歳年長者 ( 青木塊三さんが、私の親しくしている国鉄職員五名を加えて、退社後日比谷の山水楼で、定年「 職の慰労会をして下さった。円テープルをかこんで、老酒がみんなの盃に注がれると、青木さ , は、盃をあげて、 「中村さん、定年まで長い間ご苦労さまでした。特に今日までの十一一年間は、一一足のワラジを」 いて、よくやって来られました。〃目白三平〃という素朴で実直で人間味のあるキャラクター 創られたことは、国鉄職員のイメージアップに大いに役だったと思います。今後のご健闘を祈一 て乾杯しましよう」 三十九年間の国鉄生活を無事に終え、尊敬する青木さんの慰労の言葉を聞いて、はじめて目一 を熱くした。そして、ひといきに飲み干した老酒が、腹にしみわたり、上役のいなくなった後 ( 酒とはこんなにうまいものか、と感慨を新たにした。 山水楼から、銀座のバアを一一一軒まわったら午前一一時になっていた。お開きにすることにした。
にだけ金の飾りをつけるくらいのデザインの自由さがあってもいいではないか。 トイレの電話がいちばん早い 男ヤモメの生活は、なるべく世俗のシキタリにとらわれす、自由でありたい。パンツ、靴下、 靴は以上の方法で済む。独り暮しをはしめて、いちばん困ったのは、電話であった。最初それ は、狭い書斎のテープルの端に取りつけた。 トイレにおいて、わが神聖なる作業は進行中である。ゆるやかな速度で切れすに落ちて行き、 その先端が、今やまさに水面に触れんとした時、書斎の電話が鳴りわたった。 もちろん、私以外に電話に出る者はいない。今は図々しくなってしまったが、当時は、国鉄を 定年退職し、一一足のワラジの一方を脱いだばかりだから、万一原稿の注文だったら逃がすわけに ーを、乱暴にたぐり、それで惜しげもなく、根元か ーいかない。私は慌てた。トイレット らちぎって、不手際ながら、一応始末をつけ、書斎へ飛びこんだ。 ン テープルの周囲には、あちこちに本や雑誌が積み重ねてあって、足の踏場もない。その一山を プまたいだつもりだが、実際は蹴っますいて、倒れた拍子に、運悪くコーヒーテープルの角に、ひ のどく額を打ちつけた。流れ出る血を左手でおさえて、右手で受話器をつかんだ途端にベルがやん 字だ。 丁 親電話は元通り書斎にして、トイレ、応接間、サンルーム、寝室の四個所に分岐することにし いっせいに五個所で鳴りわたる。どこにいても、ベル三、四回ほ た。ひとたび電話がかかると、
食事はいっさいルームサービスにした。 ばそばそと一人で食事を終えると、すぐ机に向かう。そうしたところで、ペンが勝手に動きだ すものではないと知りながら、そうしなければいられないのが、素人の悲しさというものであっ くうそ た。頭の中は、まったく空疎であって、材料はありながら、それが文章にならない。 慌てることはない。最終回の第十回の締切りまで、まだ五日ある。そして四日、三日、二日前 になった。十九枚だから二晩あれば楽だ。しかし書くものがあってもどれにも焦点が合わない。 これまで そうこうしているうちに、ついに締切り前日になった。まだ一行も書いていない いくら忙しくても、午前一時で筆を止めた。翌日の国鉄の仕事に差しつかえるからだ。一一足 のワラジははいているが、あくまでも本職は国鉄職員である。 変なキッカケから、運よくともいえるし、考えようによっては、運悪くもの書きになったのだ が、どちらにしても、そう長続きするものではない。素人が図に乗ってはいけない。私は、定年 退職まで国鉄に勤める決心をしていた。 午前一時に机の前を離れた。睡眠薬を飲んだ。明日は、はしめて有給休暇を貰って、夕方まで 、、ツドにはいった。興奮しているせいか、薬のき に、何が何でも聿日きあげてしまおうと思って、ヘ はんすいはんせい きめがおそい。半睡半醒の状態である。 ッドのスタンドランプ それでも、一、二時間は眠ったにちがいない。ばんやり目が醒めて、べ まんじゅう をつけると午前三時である。お尻の下が、何となく変だ。何かがある。やわらかくて饅頭のよう な固形物である。