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検索対象: 愛といのちと
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1. 愛といのちと

るべき真の生命ある芸術の花は、この最も根づよい、そして最も広い、未開地の胸から生れ 出た、新しい生命でなければならない。 ここで吉江教授は、フィリップの主要作品について、その梗概を語り、そして最後に、つ ぎのように結んだのであった。 「日本の古い大地に面を接して、黙々として終生を送り、かって適当なる自己表現の意識さ え持てずに、時代から時代へと、暗い生命を送ってきた大多数の同胞がいる。けれども、今 や彼らの中に、黒い大地の面から、その長い眠りを振りおとし、黒い顔と黒い笑いを現わし ちて、日本の土壌が持っ生気と、その土壌とともに生棲して来た人間の、生きた歴史を表現す の る幾多の人々の現われ出ずることを、切に望まずにはおられない。 この人々のカの中にこ そ、新しい日本の文明が、新しい日本の芸術が、すなわち真に独創的な日本の表現が、可能 愛性の形で横たわっている。 このアッピールに応じて結成されたのが、「農民文芸研究会」であった。 当時、一方では、プロレタリア文学が、都市労働者中心に、盛んに呼びかけをし、そし て、それらマルクス主義文学者たちによって「文芸戦線」が発刊されて、文壇に新気運を注 入しつつあった。 しかし、この人たちは、農民については関心が薄かった。それに対抗するわけではなかっ こら′がい

2. 愛といのちと

のは小母さん自身なのだ。小母さんは、昼夜の別なく、ヒステリー症の鬼に、ちくり、ちく りと心臓を刺され、片時も安らぐひまがないのだから それは終戦直後だったと思う。ある日ラジオのスイッチを入れると、ちょうど平林たい子 さんと、井上秀子さんが、天皇制の問題を中心に、対談をやっていた。平林さんが、天皇制 あらひとがみ 廃止の立場から、皇室の責任をうんぬんして、きのうまで現人神だった人たちをののしる と、井上さんは、しきりに、皇室の人としての善良さ、至純さを説いて、その戦争責任をば とかそうとする。 ち私はその時も思ったことだった。史上、有数の凶悪犯人と目されている人たちでも、も の し、日本の皇室に生を享けて、あのような生活環境に呼吸をしていれば、きっと、井上さん とが最高最善の人格として、敬愛、尊崇措くあたわざる、その神に近き人たちと寸分違わぬ性 愛格になっていただろうと。ことは、同じである。後藤病院の、長期入院患者であるこの〃根性 曲り〃の小母さんも、もし、生れどころが少しちがっていたら、神に近き人格でないまで も、その家族から追放されるような憂目は見ずにすんだであろうに。 「戦争前、朝鮮からきた牛は、おとなしくてほんとうに使いよかったが、この頃のやつは、 みんな日本うまれだから、気が荒くて、男でもやられることがあるんだよ。牛みてえな畜生 さえもこのしまつだかんな。百代からもこの貧乏な日本に生きてきた俺たちが、ちっとばか し気が強くても、そんなに不思議じゃないんだよ。」

3. 愛といのちと

しんぎん それにしても、夫の魂は、なぜあのような闇黒に呻吟しなければならなかったのだろう さくそう ) 。け・れど か。原因は、もちろん、複雑、錯綜。とうてい、完全に解きほぐすことはできなし も、貧農の小せがれという宿命的な劣等感と、同時に人間としての自覚からくる、既成権力 への強い抵抗が、この頃いわれるところの〃ストレス〃をよび起し、なおその上に持病のゼ ンソクが加わって、ますます夫を病的心理に引きずり込んだと見るのは、さして誤りではな しょ一つだ。 と 昭和十七年八月四日の夫の日記に、「日本的とか、日本から、とかいわれる時代になっ ちて、すべて日本や日本人がえらく、まるで宇宙の中心的存在でもあるかのようにいわれる の が、こんな困ったことはない。、 ドイツの例のヒットラーも、人類の文化はアリアン族がいて ぼうとく ちょうじ と こそ開化する、アリアン族は神の寵児であり、神の寵児に手をふれんとするものは神の冒濆 しゃ 愛者であるといってるが ( ヒットラー『わが闘争しこれなども困ったものだ。 人間はけつきよく人間であり、どんな未開地の、どんな未開人も、人間であることに変り はあるまい。民族とてもそのとおりである。どの民族が尊く、どの民族が尊くないというよ うなことはありえない。 それよりは、・ (.-5 ・ウエルズのように、文明はおよそ三百年くらいで交代する。すなわ ち、他民族、他国家、他人間の上に立って、支配権力をふるうところの民族、国家、人間の くらかましだ。 : と、こんなふうに見る方が、い 運命は、三百年が限度だ :

4. 愛といのちと

196 ときどき腹を立てて、女房や子供をなぐりつけるくせ悪の百姓が、先日、私にこんなこと を言った。その百姓には、女房や子供をなぐりつける自分の気の強さと、飼い主の無法なむ ちに抵抗する牛のそれとが、実は同じように見えて、まるで質がちがうということが理解で きないのだ。私から見れば、百姓が思っているその気の荒さは、実は荒さではなくて病的な ゆが 歪みーーーすなわち、神経症の一種であり、飼主のむちに抵抗する牛のそれは、生きんとする ものの自然の強さである。こうなると、百代日本に生きた人間は、二代目の朝鮮牛よりも、 ずっと哀れな、取柄のない、腰ぬけ野郎ということになるのだが、それにしても、日本には、 ちなんとその腰ぬけ野郎が多いことか。いや、厳密にいえば、自分を含めて、全日本人が腰ぬ の けなのだ。 ヒステリー小母さんは、いわばその腰ぬけの、一つのサンプルに過ぎない。私には小母さ 愛んのあの笑いの底に、こんな言葉が横たわっていそうな気がする。 「代々、代々、貧乏百姓でいじめぬかれてみろよ。人間は、誰だって、こんな風に変質する ハ母さんに酷似している そういえば、私の周囲の小母さんたちも、なんとこのヒステリー」、、 ことか。昨日も八十二になる近所の老婆から私は聞いた。 「俺は、ちっとタ飯が不足らしいとみると、むりにも一、二杯、よけいに食ってやるんだ よ。風呂も、あとの奴らがぬるくて困るように、わざと水を入れてやるんだ。だって、奴ら

5. 愛といのちと

神の国だとか、太陽の子孫だとかいう迷信的思い上がりは、どこの国にも、また、民族に もある。そして、その国、その民族が未開であればあるほど、その迷信が強いのはあたりま えである。現在、いわゆる大東亜戦下、日本の文学者や思想家といわれる連中までが、神国 うんぬんと言い出した。へドの出る思いである」としるしている。 ところで、貧農の小せがれの宿命をせおった夫が、とにもかくにもペンで自分の意思表示 うせん ができるようになったのは、一つには画家の小川芋銭先生の援助のおかげである。 くわ 水戸のエ兵隊から、三年の現役を終えて帰郷した夫は、家で鍬をとること二年、やがて先 すいよう 生の世話で、茨城笠間の出身である、俳人、石倉翠葉氏の下で、その俳誌の編集を手伝うこ とになった。その後、間もなく博文館の編集に職をみつけた。 さて、そのままで行けば、あるいは夫も無事平穏なサラリ ーマンの一生を過すことができ たかもしれぬ。けれども、大正七年の米価暴騰による米騒動一件を契機に、夫は貧農ーーー生 産農民・ーーーの社会的、経済的無力を痛感し、ここに文学による農民解放を念願して、ペンの 生活をはじめることになった。 たまたま、大正十一年十二月、フランスの作家、シャルル・ルイ・フィリップの十三回忌 記念講演会が、神田の明治会館で行われ、当日、夫は、日本のフィリップともいうべき農民 ながっかたかし 作家、長塚節をしのぶ一文を読売紙上に寄せた。そんないきさつから、やがて結成された農 民文芸研究会に参画、ここではじめて、その年来の主張が認められた。その主張とは、他で

6. 愛といのちと

159 こう 徨 ( 犬田 ) 二月の三日 ( 入院以来、百十余日 ) の夜明け方、夢の中に、ふと、筑波らしい紫の山波が うかんだ。 ( あるいは青年時代に旅したことのある日本アルプスの連山のようでもあった とが ) とにかく、じっとしてそれを見つめていると、急に気持が晴れ晴れして来て、思わずロ らに出していった。 の 「仕事がしたいなあーーああ、仕事ができそうだぞ。 死や自殺しか考えなかった矢先きである。これは私にとっても意外なことだった。朝、は 愛つきり眼がさめてからも、不思議に忘れない。大概の夢は、そのまま消えてしまうのだが、 これだけはあざやかに残っている。 なお 「俺はきっとこれで癒るよ ! 」 力強く妻に言い、彼女の看護の労苦に今さらのように感謝した。 ばかばかしくて神仏にもたよれず、そうかといって自殺へも行きえない私は、ここに初め て自己打開の道を見たのである。いや、それは「初めて」などではない。過去何十年、常に 歩んで来た道だったのだ。 う 彷

7. 愛といのちと

きにされ、奴隷化されてしまっている、わが日本の農民たちの魂にとって、それは一つの大 きな光りでなくて何であろう。 封建的搾取政治、神聖視された国王の絶対権というものを、粉みじんに踏みにじってしま ったフランス農民たちのその偉業、カ。それに対して、わが農民たちも感奮、感激しないで はおかぬであろう。 太閤秀吉に源を発し、徳川期にいたってますます暴威をたくましうした「生かさず殺さ ず」の農民搾取制度は、その根底に「農耕民こそ一国の大本」という考えのひそんでいたこ ちとは、あまりに周知の事実。あえてここに持ち出すまでもないが、しかしわが農耕人が、な の にゆえに、一国の大本たるみずからの力に気がっかず、ただただ、おめおめと搾取されてい とたのか ? 愛問題は複雑である。それを解きほぐす鍵が、この『フランス革命』の中に含まれているよ うに思える。そこで、 「一日も早くこれを訳し終えて : と、どんなに肉体上の苦しみが加わろうが、五枚でよしとこうと思ったのが、つい八枚に なり、十枚になり、十五枚になってしまうのだった。

8. 愛といのちと

「ゆめ」ということは、しかし、この場合、言うまでもなく、実現可能の理想ということ ある。いや、理想というよりは、現代においては、そういう形をとらざるをえないが、本 的に農耕人の持っている境地ということであり、そしてさらに、それは全人類の持たねばわ らぬ基本的な生活態度、人類的なモラルでもあるのだ。 すなわち、他人の労働の成果を盗まず、また盗まれもせず、全人類が共働して生きて行ノ 社会ということだ。 だが、われわれの仕事が、ジャーナリズムに乗らないのに、きっとあきあきしたのだプ ちう。一部の人々は無言退会し、残ったものだけで『農民』を盛り立て、主として農村に働〔 の ている青壮年たちに呼びかけて行った。そして新人の発掘、紹介につとめた。 と同時に、われわれの創作活動である、よい作品をつくることと、それと併行して、新 , 愛い理論を打ち立てること、また、外国ものの翻訳紹介にも力を入れた。 吉江氏の言われたとおり、フランス文学の中には、その黒い大地から麦の穂波となって 気を発するように、葡萄の紫となって香気を立てるように生れ出た作品が、求めればかな【 あったのだ。 それに日本の読書人というものは、どういうものか、日本人の生んだ作品よりは、妙に いや、高く評価する傾向がある。むろん、そこに理ー 国人の作家の手になる作品を好む なしとはしないが。それはともかく、われわれが一つの目的をもった運動を、文学によっ

9. 愛といのちと

残されて来たのでした。そして、このことは何も、わが日本ばかりでなく、世界中のあらゆ る農民がなめて来た苦しみでもあったのです。 そこで私たちは、このずるい猿奴を、木から叩きおとさなければならない。でなければ、 これから先き、子々孫々、私たちの社会のつづく限り、私たちは、渋柿ばかりを食っていな ければならぬ。 では、どうして叩きおとしたらよいか ? 実に、ここに、新しい土の文学、農民文学の課 無論、こうなりますと、それはたびたび述べるよう 題が、ないし使命があるのです。 ちに、実際運勲、ーー政治・経済方面、すなわち社会革命運動と関連して来るわけですが、それ おお の はさておき、とにかく、ここでは、われわれの新しい文学は、われわれの上に被いかぶさっ ているあらゆる支配者、搾取者ーーー猿ども , - ーーーを叩きおとして、そして自分たちの生産した 愛「熟柿」は、自分たちで : : : といった一つの新しい社会の建設、そういう目標をもった文学 というところに、在来の農民文学と違った新しい境地を見ているのだ、ということを述べる とど に止めておきましよう。 ところで、農民文学というものの中には、小説ばかりでなく、詩もあり、劇もあり、俳 いうまでもありません。そしてそれらのものも、ま 句、短歌、さまざまの形式があること、 た、根本においては、小説と同じ考えに立って考えて行くべきであること、一一一一口うまでもあり ません。

10. 愛といのちと

れを悲観しましたが、しかし常日頃、あなたの健康のために、あなたの肉体の浪費を一番警 戒していた私は、かえってあなたに、無意味な昻奮を避けさせようとしました。私はそうす ることで、一日でも二日でも、あなたがより長く生きてくれると思ったのです。けれども今 となっては、それは私の誤算でした。それともやはり私の配慮で、やっとあれまで生き延び てくれたあなただったのでしようか。 さて、自分の分担原稿を書き終えたあなたは、昭和十三年から三十二年まで、約二十年に 紙わたる日記の整理に取りかかりました。これは、私がすすめた仕事でした。私は、こんどあ 手 なたと共同執筆するについて、はじめてあなたの厖大な日記に目を通したのでしたが、たち る くまち、そのおもしろさに魅せられました。そこには、戦中・戦後の日本の姿ーーー特に農村の お それが、ありのままに記録されていたからです。しかも、それは、単に物資のヤミ値の記録 夫だけではありません。そこには、一農民としての批判があり、憤激があり、警告があり、理 想がありました。 「こんなのを埋れさせておくてはない。都合がつけば、自費で出版してもいい。」 私は、強く、日記の価値を主張しました。あなたは、初めはためらい気味でしたが、 「じゃ、一つやってみるか」と、ペンを取り出しました。ペンをとりはじめると、あとはあ なたの性分として、もう止めることが出来ないらしく、朝、私が目をさますと、もうあなた は机の前にすわっています。時には、すでにお茶をいれていて、私にもすすめてくれまし