「土のモラル』から来る農民生活そのもの、ないしは一般社会生活そのものの批判から生れ る、という意味である。 現在、農村にあって、実地に土の生活をいとなんでいるからといって、彼がただちに、そ の「土の意識』に眼ざめているとはかぎらない。否、多くの場合、かれらは自分自身を知ら ない。歴史あって以来、つねに支配され、搾取される階級として宿命づけられて来た彼ら は、いつの間にかそれになれてしまって、自己を失い、奴隷的な生活にあまんじ、あきらめ とてしまっている。 その氷結した魂に、自覚の炎をさしつけて、然え上がらせること ちそこにわれわれの文学の使命がある。 の これまでにも、農民生活を描いた作品はずいぶんあった。ここに数え上げるまでもなく、 諸君は知りすぎるほど知っている。しかし、農民それ自身の中から、土から生れた作品とな 愛ると、さて、誰が自信をもって、「ここにそれがある』と断言しえよう。あの、もっともそ ちゅうちょ れに近い長塚節の『土』ーーあれでさえ、「土から』というには躊躇しなければならないだ ろう。少し酷な、意地わるな言葉だが、やはり「地主様の若旦那』から見た、すなわち上の 方から見下ろした土の文学という域を出ない。別言すれば、あれもやはり農民生活を描いた ものであって、農民生活から出た文学ではない。 この、「を』と「から』との相違ーーここにこそ、在来の農民文芸と、われわれの新しく 主張する農民文芸との、根本的な相違があるのである。
す精進努力して、ほんとうに土の中から芽生え、土に育った作品を書かなければならぬこと を痛感するのです。 話は少し飛びますが、日本の昔話にある『狐山伏』や「三年寝太郎』などには、この噺を 生んだ時代の百姓たちの「ゆめ - が物語られています。昔ばなしに限らず、すべて文学とい うものは、そのように、そこに、人々の夢「ーー苦しい日常の生活から解放され、そして未来 の明るい生への希望を燃やす、というところに、大きな「はたらき . を持つものなのです。 とところで、現代のわれわれの生活ーーー土の生活というものは、『狐山伏』や「三年寝太郎」 ちの噺を生んだ時代より、決して「明るい」とは言えず、むしろ見方によっては、より以上の の 苦しさ、暗さ、惨めさを含んでいるということができるでしよう。すなわち、大資本家、こ と れと結びついている政治屋などといった一部の支配階級を肥やすために、戦争なんかに引っ 愛ばり出され、こんどはその敗戦の、尻ぬぐいまでしなければならないのですから。 さるかに 同じわれわれの昔噺に「猿蟹合戦」というのがありますが、まったくあの通りで、われわ れは、せつかく、朝なタな、せっせと水をそそぎ、高い肥料を施して生産した食糧にもかか わらず、無理に供出をさせられ、いりもせぬ外米や、アメリカ小麦などを押しつけられなけ ればならない。 農耕階級というものは、昔から、頭上に猿という支配階級をいただくことを余儀なくされ じゅくし て以来、今日まで、実に何千年という長い間、熟柿はすべて彼らに奪い去られ、渋柿のみを はなし
たことのない流れる涙だ。 しかし私は、その涙には気づかぬふりで、 「あの仕事というのは、『フランス革命』の翻訳のことだろう。なるほど、あの仕事には、 一時間おきに注射をして、二十年もの歳月を費しているから、たしかに生命がけに見える。 けれども、それは修辞的な生命がけで、ほんとうは生命などかけちゃいなかったんだ。」 「いや、生命がけだった。俺としては、生命をかけたつもりだった。」 夫は、さすがに、無念らしくいった。その夫を、私は容赦もなく反撃した。 ち「もし、あの翻訳をはじめ、創作、評論、研究など、自分の仕事に対して、ほんとに生命を の かけているなら、あなたは、たとい、他人から殺されても死なないほどの、強い意志と生命 力を燃やして、自分の生命を守るはずだ。それではじめて、生命をかけたということができ 愛るんだ。私はこれでも、私なりに生命がけの仕事を持っている。だからこそ、三十数年、あ やくじ なたを看病し、時には、あなたの薬餌を十分にするために、自分だけは一日一食ですごすよ うな貧乏にも耐えて生きてきたんだ。それをあなたは、暑さ、寒さも、防げるだけは防ぎ、 生活の負担もなるべく負わせないようにと、これほどまでに私が気を使っているのをよそ 死にたいとか、生きていられないとかいって騒いでいる。それというのも、仕事にぜん ぜん生命をかけていないからで、あなたの生命がけの仕事というのは、やはり、一つの虚栄 的表現に過ぎない。 もし、ほんとに生命をかけているというなら、とことんまで生きて、そ
145 時の忌わしさを今更のように呼び起し、憤怒と反抗とに燃えなくてはいられなかった。 とどま しかもなお、小作百姓であるが故の屈辱は、それには止らない : ・ : 単に上地を所有している という一片の紙上の権利、勝手なその権利だけで、指一本触れるでもなく、眼一つあてるで ふところで もなく、懐手をしていて、他人が生命がけで生産したものの半分以上も「納入ーさせるなん て ! しかもそれが地主様なんだ。人類の生命の糧を生産する人間は、ああ、何と悲惨な、 卑しい畜生なんだろう。「勝手にしやがれ、誰がのめのめと、こんな馬鹿臭えことが出来る とんだ ! 」〉 ( 『土に生れて」より ) ち夫は土をすてた。そして文筆生活をするようになった。けれども、夫は、決して土を忘れ の 去ったわけではなかった。むしろ、親のもとを離れての都会生活は、夫に、農村を客観する 機会を与えた。夫は、農村に生まれた魂のすべてが通らなければならない運命を、はっきり 愛認識した。 彼らのために闘わねばならぬ。いや、″彼ら〃ではない。自分自身の解放の ために。 そこで、地方に出かけて、不得手な講演もした。売れない原稿も、根気よく持ち廻った。 しかし、農地解放を叫ぶ講演は、当然、警察の尾行や監視の憂目にあい、原稿もまた、排斥 ちょうしよう と嘲笑の運命にさらされた。 しようぜん 今でも、その日の夫の顔をはっきりおばえている。原稿をふところに、悄然と帰ってき
大勢の乗客の命を救うため、雪の塩狩峠で自 上下らの命を犠牲にした若き鉄道員の愛と信イ : 貰かれた生涯を描き、人間存在の意味を間う。 教員生活の挫折、病・ーー絶望の底へ突き落 三浦綾子著 ( 廻亠のり , さとされた著者が、十 = 一年の闘病の中で自己の ー青春編ー 青春の愛と信仰を赤裸々に告白した心の歴史。 自伝「道ありき」で、その愛と真実に満ちた交 生命に刻まれし わりが深い感動を与えた著者三浦綾子と前 愛のかたみ 正の往復書簡、彼の残した創作などを収録。 少女時代、短い結婚生活、家も子も捨てて奔 瀬戸内晴美著 った恋。やがて文学に志し、いっしか出離の ずこより 相 5 いに促されるまでを 5 輙る〕肢瀾の・目払小 " 況。 苦悩と絶望の淵から安らぎの世界へ。嵯峨野 にを結んで七年余、いま浄福の境地に住む 瀬戸内晴美著風のたよ、り・ 著者が美しい言葉で人間と人生について語る。 心が離れ離れになってもなお夫婦の絆は繋ぎ 瀬戸内晴美著ま 、つとめるべきなのか。それとも情熱の赴くまま ( 全二冊 ) に生きるのが幸せなのか。女の生き方を問う。 三浦綾子著皿 三浦綾子著 ど一
る人が、案外少ないようである。 そこで、煩をいとわず、ここに少し彼の思想を跡づけてみよう。 彼は周知のように貴族の生れである。したがって農民に対する考えも、貴族的見地から出 発した。すなわち一八四七年、十九歳のとき、彼は母親の領地ャスナヤ・ポリヤナに行き、 そこで農奴状態の改良に着手したのであった。そのことは、作品『地主の朝』で語られてい る。しかし農民のことについては、まったく何も知らなかった彼は、かえって自分の実行し とよ一つとしたこと とくに、土地の分配といったようなことは、農奴たちの疑惑をひき起す ちだけで、何の役にも立たなかった。 の 書物を読み、そこに盛られている思想から実際へ入って行った彼は、まんまと幻滅したの である。夢にえがいた農民の純真素朴ーーーそれらの代りに、彼は、無智、懶惰、無気力、あ さいぎしん 愛らゆるものに向けられる猜疑心、等々を得たにすぎなかった。 しかし、決して失望してしまったわけではなかった。一八六一年、農奴解放令が出るや、 彼はヤスナヤ・ポリヤナに農民学校を起した。それは、ルソー的独自の教育法をもった、独 自の学校だったが、官憲の圧迫によって閉鎖しなければならなかった。 ほうちゃく その頃、彼は大きな悩みに逢着していた。すなわち日常生活においては上流貴族の搾取生 くもん 活、思想的には農民の持っ生産思想ーーその二元的な悩み、矛盾、彼はそのために苦悶し た。「私の立っているところは崩壊してしまった。もう立つべきところがない。生活すべき らんだ
210 しかし、狂気における人間的驕慢の至上例は、あえてフランスの狂人にまっこともないよ うだ。われわれの国にも、神武この方、新興宗教の教祖諸君を含めて、実に数え切れないほ あらひとがみ どの現人神がいましますではないか。 それはともかく、ことの序に、もう一例だけ引用させていただくことにする。 「一人の宣教師が彼の熱烈な講釈と地獄の責苦の巧な描写で、迷信深い葡萄作りの百姓をお どかした。そのあげく、百姓は自分は明らかに地獄の火の中に落ちねばならぬと信じ込み、 と自分の家族を救い、家族の者に殉教の勝利を享けさせることばかり考え続けた。聖徒の生涯 ちの愛読が、彼にこの殉教の、最も誘惑的な光景を想像させた。そこで、彼はまず、自分の妻 ちゅう の を犠牲にしようとした。ところが妻は、運よく夫の凶手からのがれることができた。彼は しちょ 躇することなく、年弱な二人の子供を殺した。彼は、子供たちに永遠の生命を与えるつもり 愛で、二人を犠牲に捧げたわけなのだ。彼は裁判所にひつばり出され、その未決の間にも、自 しよく」い 分と一緒にいる一犯人を、やはり贖罪の目的で虐めつづけ、とうとう、その発狂が証明され て、ビセートル監獄への終身懲役が宣告された。 あお ところで、長い監禁の隔離生活は、彼の空想を煽るに役立ち、彼は、自分は裁判官に死刑 かかわ の判決を受けたにも拘らず、死刑をまぬがれたのは、全智全能だからと誇大に妄想するよう になった。しかし、彼の錯乱は、宗教に関するものだけで、他の事柄には理性を失っている ようには見えなかった。こうして、十年の窮屈な監禁生活を経過して、彼は病院の広間で恢 ささ
166 術はもうない 「もし妖精がやって来て、私の願いをかなえてやろうと言っても、自分が何 を求めているのか、私にはわからなかった」と、彼は『わが懺悔』の中で書いている。 貴族生活は、彼にとって、嫌悪そのものだった。さらにそれは彼を駆って、人生そのもの をまで無目的に思わせた。 彼は長い間悩んだ。自滅、死、そういうものが歓迎すべきものとして迫って来た。彼もノ イローゼだったのである。しかし、自殺するには、彼はあまりに強い人間だった。遂に彼 とは、今まで単に思想として、単なる観念として貴族生活と対立させていた農民の生活、上の ち生活、それをみずから生活するところにーーー・農夫と共に、土の勤労生活を生活するところに、 の 一つの出口を見出した。 彼はヤスナヤ・ポリヤナへ行って鍬を取った。 愛当時、彼の周囲には「農民の中へ ! 」の大運動が起っていた。この運動の精神は、今、ト ルストイが到達したところと同一のものであると言ってよかった。若き血に燃える幾千の貴 族、上流社会の青年男女が、あるいは農場へ、あるいは村の工場へと出かけ、そして百姓と 共に動 ) こ。 しかしトルストイは、この運動には加わろうとしなかった。五十歳という年齢の故でも無 論あったろうが、とにかく彼は、一人で考え、黙々として土を耕した。そしてこれまでロシ ヤの農民たちが簡単に受け容れていた信条、すなわち労働の生活は、宇宙の創造者、神の意 みいだ ようせい くわ ざんげ
市人、ないし半都市人の眼にうつった地方・農村の生活場面から、珍奇なものを大写しにし ただけのもの、ということになる。 このような方法ーーーすなわち農民生活の中に、今なおのこっている旧さ、ないし珍奇なも のを、殊更に探し出して来るということ、それはずっと前からあった一つの傾向である。し かしこれと、大正末期から昭和初年にかけて興った私たちの農民文学ー・ー・生産農民自身の中 というものとは、はっきり区別して考えなければならぬものである。 から生れる作ロ叩 かねがね私は、機会のある度ごとに言って来た。農民文学者はーー生産農民の意識の代弁 ち者、彼らに代って、彼らの意識を表現しようとするものは、その身近かな農村生活自体に取 の 材することは無論よろしいが、それと同時に、一そう視野をひろげて、一般社会の生活 特に都市生活面に取材して、農民としての立場から、これを徹底的に分析し、批判し、その 愛内奥をあばき出さねばならぬと。 そこには驚くべき世界が、在来のあらゆる文学も描き現すことのできなかった、現代社会 の上層部の相貌が、新たにあらわれてくるはずである。 言いかえれば、それは、生産労働者階級からの搾取、浪費生活の描破であり、被支配者層 これまでのどんな から支配者層に対して光を当てることである。こうして新しい世界が 文学もさぐりえなかった領野が展開されるのである。〉 237
236 をつくるものは、決していわゆる英雄や偉人ではなく、彼らは、単に生産と創造の世界に便 乗し、利用しているにすぎないのだ。 従って、人間生活の基本条件を正しく把握し、描き現わすということは、反面、それら英 雄・偉人なるものの本質をばくろし、また作家諸君が今、おそらく何の反省もなしにペンを 走らせているような浪費、不生産の悦楽生活が内包する社会的意義をも、正当に明るみにあ ばき出すことになろう。 とそして、言うまでもなくそれは、読者大衆の眼をひらき、社会正義に対する「義憤」をも ち生起さすことになろう。〉 の とそのニ 「農民文学の新生面」・・・・ーー都会生活をも描けー ならやま 〈昨年後半期、「荷車の歌」や「楢山節考』など、農村生活に取材した二、三の作品が世評 に上るにつれて、はからずも、ここにまた、農民文学の問題が、文壇の一角に持ち上がるこ とになった。 しかし、ふつう言われている農民文学は、旧態依然、暗くて古くさい、みじめな封建的遺 制にむしばまれた、わが農民の日常生活の表現という域を出ない。 これを一言いかえると、都