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検索対象: 新老人の思想
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1. 新老人の思想

老人が増えている、というのは、先日、病院に立ちょったときの私の実感だ。そこで 順番を待つ人びとのほとんどが老人だった。寝たきり老人の数も、半端ではあるまい ぼうぜん なによりも、私自身が現在の自分の年齢に呆然としているのである。 未来図よりも、いま現在、そして十年前、二十年前とくらべてどうかが問題なのだ。 なにしろ十年先には自分はもう生きていないだろうからである。 二〇五〇年あたりの将来を論じているケースがいちばん多いようである。それなりに 説得力のある卓論だが、私個人の興味はそんな先のことではない。五十年先に、この国 の人口が増えていようがへっていようがこっちには関係ない、 といってしまえば叱られ そうだ。しかし、正直なところ、国家百年の大計よりも、いま現在の現実のほうが私に は心配なのである こんにち 未来予測は天才たちにまかせて、私たち凡人は今日ただいまのことを気づかうことに ーレしょ , フ 一方で「老人」の概念を変えよう、という積極的な提言もある。六十五歳あたりを 「老人」とするのは時勢に合わないというのだ。しかし、人は二十歳から老いはじめる、

2. 新老人の思想

51 「高齢者層」ではない、「老人階級」である 戦争や、さまざまな災難で、早世を余儀なくされた人びとには申し訳ないが、これか らほとんどの人は、長生きしなければならない。 その将来は、たぶん大多数が要介護か 寝たきりの生活だろう。六十から九十歳、プラスの三十年以上を、私たちは生きなけれ ばならないのだ。その世代を「第三世代」、もしくは「老人階級」とよぶことにしたと して、その時期を完走する覚悟が今の私たちにあるのか。 これまでの思想や哲学などは、ほとんどが六十歳以前の人びとのためのものだった。 体のケア、養生、健康などのためのマニュアルも、「第三世代」にしぼったものは少い。 たとえば、老人とは、「転ぶ」生きものである。つまずいては転び、バランスを失っ ては転ぶ。転べば骨折するのが老人の常だ。 二足歩行をするのが人間だ。それがおぼっかなくなったとき、私たちはどう生きるか。 例外的な話ではない。国中に老人があふれ返る現実が、もう目の前まできているのだ。 私はこれまで、あまり転ぶことなく生きてきた。これからは、そうはい うれ 故・井上ひさしさんが、あるとき私に嬉しそうにいったことがある。 「イッキさんの『養生の実技』を読んで、片脚立ちで靴下がはけるようになったんです

3. 新老人の思想

読物を書いた。そしていま、私たちは確実に「老人は荒野をめざす」時代にさしかかっ ている。 ふかざわ 楢山とは、老人が捨てられる場所だった。しかしいま、私たちは深沢七郎の小説の女 主人公のように、みずから楢山をめざして歩きつづけなければならない。「アングリ ・ヤングメン」が時代の注目を集めたのは、第二次大戦の戦後だった。「ロ笛を吹き たいまっ ながら夜を往け」という一一口葉は、私たちの松明だった。 せとぎわ いま、老人の大集団が暴走するか、自滅するかの瀬戸際に立たされている。選択は私 たち自身の手にある。さて、どうするか 新しい階級闘争の始まり 「未来の若者たちにツケを残すな」 とは、よく耳にする一一一口葉である。

4. 新老人の思想

リ 6 れば、それはまちがいなく実在するからである。しかし、浄土への激しい憧れは、地獄 とう世界への戦慄と恐れに対応してあるのであって、地獄の実感のない現代人には浄 土への希求もほとんどないのではあるまいか えしんそうすげんしん 言の浄土を語る言葉は、地獄のリアリティーに支えられている。 恵心僧都源イ、 「生きて地獄、死んで地獄」 というギリギリの地点に立たされたとき、人は信じることに賭けるのだ。現代の私た ちの不幸は、地獄を信じることができない点にある。この世の地獄の実感も、これほど 長く続いた平和によって失われた 私たちには生きている確かな手ごたえもなければ、死後の世界へのイメージもない。 だからこそ、生きるだけでも大変なのである。 ーが二つ連続してあった。 先頃、雑誌のインターヴュ よみもの 『オール讀物』と、『週刊文春』である。 私が『オール讀物』にはじめて書かせてもらったのは、一九六六年のことだった。た ぶん私が三十三歳のときだったと思う。 せんりつ

5. 新老人の思想

193 豊かさについて考える 夕日はあっというまに沈んでい 私たち二人は、声の続く限り大声でその歌をうた った。あの時ほど歌を全身でうたったことはないだろう。日が沈むと山頂は暗く、なに やらおそろしげな雰囲気が漂ってきた。私たちはあわてて下山にかかった。大した山で なくとも、迷うことはあるのだ。 あの時の歌の文句はさだかではない。だが、私たちが感激して歌をうたった時間のこ とは今も忘れない。 歌に感激する、かってはそういう時代もあったのだ

6. 新老人の思想

180 なっとく しばらく考えて、それは無理だと納得した。 私たちの日々の生活は、いやおうなしに変ってい カセットテーフか消 使えなくなり、プラウン管テレビも去った。そして、いやおうなしにデジタルの時 生きなければならない。 私の手もとには、若いころからの仕事の記録として、ドーナッ盤のレコードが沢山あ る。これらの品々を、過去の記念品のようにとっておく気は、私にはない。わざわざ レコードのために針を用意して昔の音を再現する趣味もない。 二十代の終りのころ、 O ソングを書いていて、いろんな賞をもらったことがある。 私自身ですらすでに忘れてしまっているが、古い賞状とか記念品はのこっている。しか し、そんなモノこそちゃんと片付けてしまうべきだろう。まして昔の免許証など、どん な気持ちで保存してあったのか。 〈自分の時代に忠実である〉ことは、モノを大事にすることではあるまい。自分の時代 の感覚を失わないことだ。 先日、『麦と兵隊』という戦時中の歌をうたってみた。『加藤隼戦闘隊』という軍歌 はやぶさ

7. 新老人の思想

0 経済大国から老人大国へ とんでもないことになってきている。 この国がである。私たちの住んでいる日本列島がである。 バブルの崩壊とか、ハイハーインフレの襲来とか、そんなわかりやすい間題ではない。 景気の変動ぐらいなら、百年に一度の、とか、二百年に一度の、とかいっていればよい。 たが、いま私たちが直面しているのは、千年に一度の体験なのだ。い や、二千年に一度 の大変動かもしれない。 有史以来の、と、 ってもまちがいではないたろう。だから、とんでもないことにな ってきた、といっているのだ。 「オオカミがくるぞもうすぐ山からオオカミがやってくるぞ」という話は、もう聞き あきた。しかし、 いま私がいっているのは、明日のことではない。

8. 新老人の思想

55 「高齢者層」ではない、「老人階級」である すわ 立つ。歩く。坐る。寝る。 私たちの生活は、ほとんどこの四つにつきる。 、バッグを片手にさげて歩いている 私は比較的よく歩くほうである。しかし、常に重し バッグの中には、数冊の単行本、原稿用紙、筆記用具、電子辞書、その他いろんなもの が投げこまれている。 私のバッグを親切心から持ってくれようとする人は、ほとんど、一瞬、オッという顔 をする 。ヾッグの重さにびつくりするのだ。 そんなバッグを右手にさげて、私は半世紀ちかくも歩きつづけてきた。 体の片方に重量をかけて歩くことは、当然、体のバランスを崩すことになる。歩行の 姿勢が歪み、それをなんとか補正しようと体の中心線がねじれてくる。 そで 上衣を買うと、いつも左袖が長い感じがある。右手が長いわけではなく、右肩がさが っているのだ。 重いバッグを片方の手でさげて何十年も歩きつづけてきたせいで、体が傾いているの 4 んつつ , っ うわぎ

9. 新老人の思想

II 「高齢者層」ではない、「老人階級」である と た ー 1 と 少笑 な 超 少 そ と ま し ち し と い か 、ん 、た は ま 子 っ の か だ 老 オ 軽オ 化 同 人ガ し そ し オ フ 、ん齢 、の も ッ 、人 オ く オ オ カ 聞 そ怪カ な 私 ざ イ匕 そ 大 カ カ い れ物、 ん国 ど の ら き が り リ と 流 す 言舌 と の い さ な の は つ の に も鼻 す話 れ 現 な し は る つ と 実何 だ カ ) 自、私 、て 顔 る ら か や ち い も さ た か る か か と わ ん ち る 目 が た ら 感 に 十 ち も の の フ ず 年 問は浮 じ が お 目リ : 題 る後 い ら カ ) の 目リ 私場左 か な れ が な そ ぶ た所右 ら い る の フ ち れ に を い と 0 と は で ⅱ間 大 る り あ オ さ オ 問 と れ ろ る カ 題 で て で は る 牙盞い の あ な よ 姿や る を の 直赤オ と 宅見 ( は し舌す わ よ も で か っ 目 に と の き て は て 則 る あ ま な が い る つ の 私 議 しまさら人口論を持ち出すのは古い、

10. 新老人の思想

よ。これまで物につかまってしか靴下をはけなかったんだけど」 何にもっかまらずに片脚立ちで靴下をはくのは、高齢者にとってはかなり難儀なこと なのだ。私も無理をして不用意に片脚立ちで靴下をはこうと試みて、ふらっくことが多 立っこと、歩くこと、そんな当り前の行動ですら不用意にはできないのである。 長生きがめでたいことだった時代は終った。『老人は荒野をめざす』という歌でも作 って、なんとか転ばぬように歩いていかなければならないのだ。その覚悟ができている かどうかを、私はあらためて自問自答しているところなのである。 立って歩くことの重要性 「自立」 という言葉がある。普通は精神的に他に依存せず、独立する姿勢をいう。 しかし、私たちは必ずしも自分の力だけで立っことはできない。