たしかに料亭の料理にも愛清はこもっておりましよう。しかし、それは愛清は愛情でも、 店の看板に対する愛情なんですね。店ののれんに対するいとおしみが、みごとな料理を つくらせたのでありまして、重役さん、あなた個人のお体を心配した、味加減ではない のです。 夫人そりやね、わたくしだって主人の肉好きは知っております。でも、お医者さまが おっしゃいますには、なるべく野菜を多くしなさい、肉をひかえなさい、でございまし それであたくし心を鬼にしまして : ホラ、どうです。どこの料亭で、心を鬼にしてあなたにフクレられるのを覚悟のう 資えで、野菜料理をつくってくれますかな、重役さんよ。 たまには愛清を召し上がって下さい。もりつけが不細工で、出しかたが気がきかなくっ 掫たって、それを補ってあまりある愛情のこもったお料理を : 亜重役そんなにいうんなら食べましよう。なんせ、ありゃあとから勘定書がまわる心配 がないからねえ :
重役その通りですよ。わたしはね、うちへ帰ってサシミだの、アライだの、アユの蓼 ず 酢だの、形ようつくった料亭みたいな食いものを出されると情なくなるねえ。わたしら はねえ、そういうものは、毎晩イヤになるほどみてるんだ。 それをアンタ、女房どもは、どう勘違いしたもんか、亭主がうちでメシを食わんのは、 わたしどもの料理の腕が至らんせいだ、なんて思いこみおってねえ、料理を習いに通っ たはいいんだが、習うにこと欠いて懐石料理とくるんでねえ : : : ありや、キミ、逆効果 だねえ。 重役さんの食べたいもの : わたくしの統計によりますと、 ひじきと油あげの煮たの。 納豆にたくあん。 イワシの塩焼き。 たけのこのかか煮。 里ィモの煮ころがしに、田舎風のみそ汁。 かくや漬け。 シャケの頭をぶつこんだ三平汁・ :
花嫁学校 重役さんといっても、これは一流重役に多いんですが、ゆきつけの料亭でお客さ をなさる、なんてときに、正規のお膳のほかに、。 こ自分用の特別料理をご注文になっ るかたがおいでになりますね。いや、ご注文というよりも、そのへんはすでにおかみし ツーカーでして。 重役あのな、おかみ、あの、 これ、辛口です。 むしず おべんちゃらをいわれて、虫酸が走らなかったり、歯がうかなくなったらオッムのほ , ( も、内臓のほうもガタのきた証拠でしよう。 ときどきはキューとおのれをひきしめて下さい。日当りのいいところで、バラバラに 4 ってるブッコワレオケみたいにタガのゆるみつばなしってことのないように、毎朝、 げそるときに、ようく鏡をごらん遊ばせよ。 : ホラ。
146 をみながら、オープンで三分か五分あたためればいし というインスタントな晩ごはん が毎日つづく : つまり、家庭料理によって母と子に通じあうほのばのとしたものが、 もうなくなっている : : : それが非行少年を増やしている、というんですが : ところがこれは、アメリカの少年だけの問題ではないと思うんですが : 重役さん、あなたが頭がいたい、胃が重い、ああ胸がドキドキするよ : : : とお体の不調 をうったえられるようになったのはいかがです、そとでお食事を召し上がるようになっ てからじゃありませんか ? そうでしよう ? これはわたくしの思うところでは、宴会料理なんそは、アメリカのインスタント食品と おんなじだと思いますね。 まあ、みた目には美しいんでありますが、愛情がたりないんであります。 重役いやいや、そんなことはありませんよ。あの、器の選びかたひとつ、刺身のツマ のもり合わせかた : : : あれが愛情ぬきで出来るかい。そこへいくと、うちの料理 : : : わ というと、ああそうですか : たしが菜っ葉の煮浸しが食いたし : もうバカのひとっ覚 えみたいにそれ一本槍だ。もりつけなんぞも不細工でね : なるほど、なるほど。
154 おかみは、はい社長、いつものでごさいますね。 重役うん、それからホラ、あれもたのむ。 おかみそうお声がかかるだろうと思いまして、用意してございますから : といっておりますうちに、重役さんのところだけにはこばれてきましたのが : : : 何 とオカラの煮たのに、イワシの塩焼きだったりいたします。 しかも、当の重役さんが、さもおいしそうに舌つづみをうっておいでなんですからねえ オカラにイワシぐらい、ご自分のお宅で、「あれが食いたい」とひとことおっしゃれば よろしいのに : : と思いましたら、なかなかそうもいかないんだそうで : ある重役さんは、こう、こばしておいでになります。 重役いや、それでもまだわたしなんかはいいんだけどね。かわいそうなのは家内だね え。 いや、宅は、うちのお手伝いの子がね、こないだから料理学校へ通っとるんだ。それで ね、習ってきた新しい料理を、さっそくうちでつくってみるわけだな。それでね、この 秋からこっちは、わたしのとこじゃ、サンマの塩焼き、なんてね、食べさせてもらえな
いわ 日く、犬の皮膚病がハカバカしくないから、この際思い切って獣医さんをとりかえたほ うがよくはないであろうか。 日く、二番目のお嬢さんが、お料理のけいこをやめて、フラワーデザインをやりたがっ ているが、許してかまわないであろうか。 日く、日く、日く : 重役ああ、寝るよ。 ベスや 重役いやあ、失敗やった , 失敗やった ! 重役さんは、こういって、頭をかいておられます、一体どうなさいました ? 重役キミ、犬飼うんだったら、メスに限るね。 、いかんね。 間違っても、オスは飼っちゃ どうも判りませんなあ。
57 Ⅱ重役またぎ こんなところだそうで : どれをみても、さほど高価でもないんですが、どういうわけか重役さんの食膳にはのば らないんですねえ、代りに猫またぎ、じゃなかった重役ならどなたもまたいじまう、と いう凝ったお料理がならぶんですね。 夫人そうでざんしたか、それでやっと飲み込めましたわ。今日はさっそく、里ィモと カボチャを煮ときましよう。 でも : : ということは、でござんすよ。重役というものは、いつも、お座敷やらバーや らで、若くておキレイなかたにチャホャされていらっしやるから、もう美人なんかちっ : ってことなんでしようねえ、そうすると、うちには、あたくしみた とも珍しくない : しに所帯じみたのがおりましたほうが : : : ねえ : : : オホホ : おさしみと美人は重役またぎ : : : であるかどうか : : : まあ、このへんが、理論と現 実があやしく食いちがう、日くいいがたし、というところなんでございましようねえ。
とおっしゃいますと : 重役つまりサンマのグラタンとかね。イカのケチャップ煮とかね。いろいろと、その、 手がこんどるわけだ。ところがそういうのはどうも、こちとらの舌には合わなくてねえ それならそうとおっしゃればいし 、じゃありませんか。オレは、サンマのグラタンな んて、キビが悪くていやだ。サンマは塩焼きでスダチで食わせろ : 重役冗談じゃない。そんなこといったら、あの子たち、出ていってしまいますよ : ま、当分は、うちは花嫁学校だねえ。 資 なるほど、きびしいもんですなあ。 物 重役いや、しかしねえ、それでも、まだ料理つくろう、という気があるからいいです 掫よ。そこいくと、うちの娘なんぞは、車の運転とスキーとギターはプロ級だといっとる 亜が、あいつは、みそ汁ひとつつくれんのだからねえ : これは内緒の話だが、 ワシの友達が、この間、黒い霧でちょっとっかまりよってな、四、 五日入っとったんだが、うむクサいところへ。ところがそいつが出てきてのいいぐさが
誰にも遠慮せんと、ソースをジャプジャプかけて食いたい、そのためなんですよ、あた しが社員食堂へ通うのは。 考えてみりや、女なんてのは、みえつばりなもんですなあ。え ? 家内なんて、今は、 : なあに、二十年前は、アン えらそうな顔してフランス料理なんか突っついとるけど : 夕、コロッケひとつにソースジャプジャプかけて、オカズにしたんじゃないの、それを、 いうことが変わってしまったんだからねえ。 重役になったっていうんで : : : ねえ、 「あなた、ウースターソースは、そんなにジャプジャプかけて召し上がってはいけませ んのよ。お下品てされてるんですのよ。そうだわ、テープルの上に置いとくからいけな いのよ、しまってしまいましょ , つ」 なんて : ソースしまっちゃうんだからねえ。実はね、わたしはね、苦学生の頃からソースメシが 好きでさ、今でも、ソースジャプジャプかけないと、洋食食った気がせんのですよ。 役カキフライ、エビフライ、ライスカレーね。それから、それからカツレッね。うすい うすい紙みたいなやつ。あれ、こまかく切ってさ、ソース、ジャプジャプにかけてキャ べッとメシをまぜてやると、キミ、カッ一人前でドンプリふたつはいけるからねえ :
236 ンにありますね。事実、お父さんは東邦生命の幹部社員で、最後は本社の部長職を務め あげた方だと洩れうかがいました。 重役氏の短所は私を観察していた。トイレの戸を開けつばなしにして : : : なんて書い てあると、ゾッとしましたね。やつばり、私のコトを識っているとしか考えられない。 普通のひとの暮しのなかから、人間のもつ情けなさ、俗物根性、弱さをそっと取り出 そじよう して、悪意なく俎上にのせて好意的に料理する。こういった向田さんの熟練技の萌芽が 「重役読本」に、読みとれるのではないでしようかね。 私は思います。向田さんのテレビ、ラジオの台本はただの台本ではない。戯曲に近い ぜいたく 台本だ。贅沢な中身でおっゆがたつぶり。この「重役読本」から日本映画なら映画の、 『父は悲しき重役なりき』てな本が一本まるごととれるのです。 「重役読本」の放送中に何度も「向田さん、これ、出版物にしたらどうだい。一冊の本 をつくんなさいよ」と勧めたものです。その度に彼女は「うそ、うそ。こういうのは一 回限りの命よ」とテレること、テレること。一回でバッと開いて終る花火と同じでいし というのです。