へ 西 妻はまだ私を信用していなかった。 「大丈夫やて、もう離れ離れにはならん。わしがすっと面倒みるて」 五ヶ月ほど前の秋、私は妻に何も告げずに、ひとり行方をくらませたことがあった。 借金が膨れ上がっていた。私は金策のため車で出掛け、そのまま放浪はひと月続い た。妻はその時の心細さを忘れていない 「ほら、寝るよ。安心せえて」 私はそう言い、座席を倒した。 ポンゴの後部シートはべッドになった。七尾で積み込んだ荷物を車の尻のほうに重 ね、空いた荷台に一組の布団を敷いた。 私は布団で寝るのも二ヶ月ぶりのことだった。それまでは同じ場所で、ひとり毛布 くる に包まるだけの日々を送っていた。 「新婚以来やな」 私は冗談めかして言った。 七尾のアパートでは寝室は同じだったが、一緒の布団で寝たことはほとんどない。 結婚して間もない頃、何度かあった程度だ。 「ふたりで寝るのは窮屈ゃ。寝られんわー しり
返事はなかった。 あわ 私は慌てて後部座席に擦り寄り、妻を見た。 ふとん 妻は車の尻の方に頭を向けていた。白い布団の端から、少し頭が見える。短く刈っ た髪が寝癖で変にカープしていた。 私は倒れそうになりながら枕一兀に顔を寄せた。妻は枕に顔を半分、伏せていた。 言葉が続かない。私は代わりに何度も何度も妻の名前だけを呼んだ。 まぶた てのひらまっげ 妻は目を見開いたままだった。瞼にそっと触れる。掌に睫毛が当たる。 の 「ひとみ : ・ 鈴布団の上から揺する。ゆっくり、そして次第に激しく揺らしていた。しかし妻は首 が据わらず、両腕はだらしないほどに垂れていた。肩に手をかける。肩の骨が手にあ たる。布団がめくれ、白い腕が覗いた。 掌が何かを握るように、強く閉じていた。私の指は固く震えていた。 いろあ 薄い紫色のパジャマが少し色褪せて見える。突然、私は妻を抱き寄せた。カ一杯、 あふ 抱き締めた。一気に涙が溢れた。 「すまんかったな : ・ 音 191 しり
死にゆく妻との旅路 194 を取り出した。そして花柄のパジャマを着せた。 「寒いやろ」 靴下を穿かせる。白い靴下だった。布団を掛け、髪に櫛を通す。三日前、私が切っ たばかりだった。 わしがあげた指輪ゃ。 妻は結婚記念日に私が贈ったファッションリングをはめていた。 確か四万円くらいやった : は何度も妻の瞼を閉じさせようとした。何度も何度も試みた。 「ひとみ、目を瞑れよ」 波は穏やかに続いていた。かすかに潮の音が聞こえた。
私はそう言っては、いつも妻と離れて休んでいた。 「お母さん、狭くないか。 妻は黙ったままパジャマに着替え、布団に入る。 「寒くないか」 「平気やよー 「ほんとか 衄「大丈夫やて、オッサン , の すぐ隣に妻の顔があった。妻の息を感じた。 妻 久しぶりに間近で見る妻の顔は、やつれていた。私は冷静さを装って、妻に話しか ゅ 「これから少しでも、仕事が見つかるとええな」 とりあえず京都に向かおう。姉ともう一度、話もしたい。途中、通る町の職安に必 ず寄って行こう。ひとつひとっ全部、見てまわろう : 妻には繰り返し、そう言った。でも私は同時に別のことを考えていた。 あちこち名所を見せてやるんや。 妻には黙っていた。 よそお
の 金の問題じゃあない、そんなこともわかってる。 みなも 水面に目を落とした。 入江の海面は波立っこともない。穏やかに、柔らかい波紋を描き続けていた。 「大事にしてやらな、いかん」 結婚を決めた時、そう考えていたことが、しきりと頭を巡った。 音「オッサン、トイレ : 妻は五十メートル先の公衆トイレまでも、歩けなくなっていた。私は車を移動させ ては、トイレに連れていく。 こんなに軽うなって : てのひら 妻を支えながら、病気が進行していることを今更ながら知った。掌に触れるあばら もろ がはっきりとわかる。妻の身体の脆さを感じた。 「しんどかったら、寝てればええよ」 ふ 妻は助手席の後ろ、ボンゴのシートに臥せたままになっていった。布団の中で一日 を過ごす。 「寒くないか、ひとみ」 181
それはそうなんやろ。刑事が言うてることはわかる。けどな : 手錠が冷たく重く、手に伝わる。 形式上病院へ行ってどうするんや。医者が「もう面倒は見られません。家へ帰して 下さい」一一一一口うたらどうなるんや。病院へ行って生かされてるだけっちゅうのも、違う やろ、つか : うなず よ何も言いはしなかった。黙ったまま、刑事の説明に頷いていた。 りようわき 廊下に出ると冷気が漂っていた。私は両脇を抱えられ、同じ階の留置場に連れて行 かれた。 またた てつごうし 看守が鉄格子のついた重そうな扉を開く。長い蛍光灯が一一本、瞬いていた。細長い、 冬狭い部屋だった。 「頭をこっちに向けて寝て下さい 薄い布団を敷いていた私に、看守が声をかけた。 「女房はどうしてるんでしようね」 「僕はちょっとわからんわ」 毛布を二枚重ね、私は横になった。 ひとみはどうしているだろか。 日 ( の 0 0
自分の身体だから、痛くて我漫できなければ言うだろう、そうも田 5 った。 「殺してくれたほうが楽や : 妻はそう言った。 一九九九年十一月二十一日。妻は一日中、布団の中で唸ってばかりいた。 妻のその言葉が一瞬理解出来ず、私は耳を疑った。 路 今、何いうたんや : 旅 の 私の頭は錯乱し、まともに思考が出来なかった。言葉など出ない。 妻 佃いうたんや : ゅ めまい そのひとことが、頭の中で激しく何度も鳴り響く。私は目眩を催した。 : しかし、妻は確かに一度だけそうロにした。 私が妻の足にパウダーを塗っている時のことだ。身体の向きを変えたその時だった。 私は答えようがなく、黙って足のマッサージを続けた。 しばらくして私は異変に気づいた。妻の手首に血が滲んでいる。 「どうしたんや」 「切ろうとした」 186
「背中が痛いわ」 「水が飲みたいー 妻はしよっちゅう、私を呼んだ。私はそのたびに釣り竿を置き、車の中を覗いた。 ひごと 日毎に妻が弱っていくのがわかった。 「病院へ行こう」 「嫌や」 路時々、その会話が繰り返される。どうしても入院費の話になる。私は申し訳なくな とり、話はいつもそこで途切れた。 妻 「一緒にいられなくなるわ : ゅ くる か細い声で、妻がほっりと言う。布団に包まった背中が震えていた。私はどうしょ 死 うつむ うもなくなって俯いた。何も一言えず、妻に声もかけられず、腰を上げた。 外に出て、竿を垂れる。秋空を見上げる。 空は澄みきり、雲が薄く棚引いていた。 「オッサンといられれば、それでええ」 九ヶ月前に七尾で聞いた妻の声が、私の全身に響き渡る。 しかし、ほっといたらひとみは : 180 ふとん のぞ
冬 の 続けてかけたのは警察だった。 「そのままにしておかんといかんのですね」 兄貴の声を背中に聞きながら、私は車に戻った。 この車でよう走ったわ。 私はしばらく、車を前に立っていた。玄関から漏れる灯りが、車の輪郭をかろうじ て浮かび上がらせていた。 紺色のマッダのボンゴ。ワゴン車の小さな窓に手を触れた。顔を近づけ中を覗く。 暗くて何も見えない。運転席にまわる。背中をまるめ、後部座席に身体ごと向いた。 そこにひとみかいる : ほの 窓から射し込む薄明かりが、仄かに照らし出す。白い布団を肩まで被り、妻はそこ に横たわっていた。 もう病院へ運ばんで、ええんか。 私はそんなことを繰り返し思っていた。 ハトカーが到着したのは、三十分もそうしていた頃だった。 あわたた 警官たちは荒しく動き始め、私は何をするでもなく、車の近くでそれをばうっと眺 めていた。 ふとん かぶ のぞ
あつみ その夜は渥美湾に面した海陽ョットハー ー。海の近くの公園に車を停めた。波の 音を聞きながら、いつの間にか眠りに落ちていた。 翌朝、窓ガラスをノックする音で目が覚めた。時計を見ると、まだ六時前だった。 起き上がるとパトカーが近くに停車し、警官が二人立っていた。 「旅行ですかー うなず 警官の質問に私は頷いた。 路私の車は石川ナンバーだった。ただでさえ目立つ。近くで何かあったらしい。私は たず の 早く立ち去って欲しいから、自分からは何も訊ねなかった。警官に免許証を見せる。 妻 それを控えると、 ハトカ】は去った。 ゅ ふとん 妻は布団の中でじっとしていたようだ。借金はほったらかしだが、別に刑事事件を 起こして、逃げているわけではない。娘によれば、捜索願も出てないはずだ。ただ、 あまりいい気分はしなかった。 間を置かず、今度はバイクに乗った警官が近づいてきた。 「今、話したよ」 「ああ、そうですか」 駐在所の警官のようだった。 118