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検索対象: 母 (角川文庫)
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1. 母 (角川文庫)

たけど、恥ずかしがり屋のタミちゃんとはちがって、よく笑う娘だった。タミちゃんが モニカば吹」、 てから、一度わだしの家さ来て、三吾がバイオリンば弾き、ツギがハー 喜二とお嬢さんが、「荒城の月ーとか、「故郷の何とか」とか、声ば合わせてうたったん だよね。タミちゃんにも、 「一緒にうたおうや、タミちゃん」 って、多喜二は楽譜ば見せたけど、タミちゃんは頭ば横にふって、みんなが遅くまでら しゃべ たったり喋ったりしているのを聞いていた。あん時、タミちゃんは何を考えていたんだべ さび とっても淋しい顔していた。ずーっと笑顔は見せていたけど、あれは淋しい顔だった。今 でもあの顔、忘れられんの。多喜二としては、自分が音楽が好きだから、うたって、タミ ちゃんば慰めてやったつもりかも知れね。 「楽しかったか ? タミちゃん って多喜二が聞いたら、タミちゃんは大きくうなずいて、 出 章「とっても 第と、につこりと多喜二の顔を見た。あれは、「とっても淋しかった」と言いたかったの かも知れん。でもタミちゃんは楽しそうに、 につこりと笑った。あん時のタミちゃんば、 わだしは今日まで、何べん思い出したかわかんね。あん時ぐらい、 ( ああタミちゃんとわ

2. 母 (角川文庫)

多喜二は音楽会さ行っても、チマのことばっかし思って、首っこ下げて、一人でぼとぼ と涙ばこぼしていたんだべと、今でも思うことがあるの。多喜二つて、そんな優しい男の 子だった。 いやいや、このチマに子供はできんかった。それでね、藤吉さんの一番末の弟さ んば、養子にもらったの。さっき、庭先にいたのが、その養子になった佐藤光雄っていう 人なの。 さてねえ、多喜二よ、、 をしくつの時から小説ば書いていたのやら、親のわだしにもよくわ かんないども、確か商業学校に入って間もなく、絵だの小説だの書いていたって聞いたか ら : : : 。何せ商業学校の時は、慶義あんつあまの家から学校さ通っていたから、よくは知 らんども、その頃から書いていたもんだかねえ。 けどなあ、あんた、わだしは小説を書くことが、あんなにおっかないことだとは、思っ てもみなかった。まさか、小説書いて警察にしよっぴかれるだの、拷問に遭うだの、果て は殺されるだの、田舎もんのわだしには全然想像もできんかった。そったらおっかないこ となら、わだしも多喜二に、小説なんそ書くなと、両手ばついて頼んだと思う。 あの子だって、そんな恐ろしいことになるとは、夢にも知らずに書いていたんでないべ

3. 母 (角川文庫)

「助けてくれーっ ! 」 けものうめ とか、獣の呻くような声が聞こえたりしてきてねえ、それが布団さ人ってると、よく闇 こえるの。それでも初めのうちは、 「何だべな」 「あれ何だべな」 と思っていたわけ。そのうち、店に来る客たちの話で、それはタコ部屋の棒頭が、タコ まき やけひばし せつかん たちの背中に、焼火箸ば押しつけたり、薪ざっぽで、殴りつけたりして、折檻しているつ ていうでないの。何でそんなことしなきゃならないんだべかと思ったども、労働があん本 つら り辛くて、タコ部屋ば逃げ出す者がいるんだって。それで、焼火箸だの、薪ざっぽで、 い折檻するんだって近所の人や、店に来る人たちがわだしに言って聞かせたの。 空ああ、タコって、知らんべねえ、あんたさんたちは。金ば前借して、労働する人夫た の のこと、タコって言ったのね。どうしてタコっていうかわかんないども、海の蛸のように 自分で自分の足ば食うような生活するから、タコっていうんだと、聞いたどもね。 章 第それはともかく、わだしはタコたちが可哀相で可哀相で。タコだって、親もあれば、 供もあるべし。労働が辛くて逃げたからって、折檻までしなくたっていいべに。ひどい は砂ば掘って生き埋めにするって聞いたどもね。わだしらがトロッコに乗って労働した一、 たこ

4. 母 (角川文庫)

んような子供が、嫁に来たわけでねえ。第一、嫁こになるということが、どんなことか、 さつばりわからんかった。 それでも、どこの嫁さんも、きりきり舞いして働いていることだけは、知っていた。 にかくその日は寒くて、うれしいより悲しいより先に、足の冷たさが我慢できんかった。 十三の嫁こを乗せた馬橇がね、右に左に揺れてね、誰か男の手に、背中ばしつかり支え れていたもんでした。 がんぜ なんで昔は、あんな頑是ない子供ば、嫁に出したもんだかねえ。やつばり貧乏で、ロ〕 らしのためだったべか。わだしより貧しい小娘が、街さ身売りさせられていた頃だから 婿さんはね、二十一で末松つあんと言った。背の高い、優しい人だった。わだしは馬 とから降りるや否や、 る「寒い寒い」 と小林の家に駆けこんで、囲炉裏のそばに、冷たくてしびれそうな両足を、火にあぶ ( 章 ~ たら、婿さんがそれはそれは優しい顔をして、じー「と見ていなさ 0 た。 たかしまだ つのかく 嫁入りといってもね、高島田結うわけじゃなし、角隠しするわけじゃなし、桃割れに、 ぼたん 花模様の銘仙の着物着せられてね。そうだ ! 赤い牡丹の柄の帯をしめさせられていた ( めいせん ろり

5. 母 (角川文庫)

あらし 物にも行かない。ほかの学校には、嵐のような拍手が起こるのに、潮見台小学校には「ナ ンポロ小学校」「オンポロ小学校」と笑う声がする。 多喜二は、親が悲しむべと思ってか、親のわだしに一度もそんなこと言わんかった。い や、チマも他の子供らも、そんなことわだしに聞かせたことはなかった。ほかの学校の生 徒たちがね、みんなで声を揃えてね、 「潮見学校、貧乏学校、 運動服ないとて ペソかいたーっ」 と、囃し立てたもんだって。言ってみれば、潮見台の生徒たちは、わざわざ貧乏さら に運動会さ行ったようなもんだ。ほかの学校に笑われるために、運動会に出たようなもん だ。そりゃなん・ほ口惜しかったもんだか。 ち 立けど子供たちは、一度だって親のわだしらに愚痴ったことないの。愚痴ったところで、 あきら 運動服など作ってもらえるはずはないと、諦めていたんだね。親の財布ん中ば知っていて 章 親ばいたわってくれていたんだね。運動会のたびにそんな辛い思いばして、多喜二もチマ も学校ば卒業したわけなのね。今思うと、おにぎりを腰に、元気よく運動会さ出かけて行 った姿が憐れでならね。多喜二がもの書きたくなった口惜しさが、わだしの胸にも沁みて はや あわ

6. 母 (角川文庫)

も知れないどもね。 多喜二はそん時、小学生だったそうだ。小学校はね、潮見台学校といったけど、誰 3 「潮見台小学校」なんて呼ぶ者はいなかった。みんなね、「オンポロ小学校」って言って、 たの。何しろ、潮見台小学校の子供らが通う街並みときたら、ごちやごちゃしていて、 くな身なりの子供はいなかった。 その当時は、たいていの子供は着物で、服なんそ着ている子は、ほとんどいない。そ ( 着物が若布みたいなポロ着物、そして前垂れをしめて、生徒たちは学校に通っていた。 くら貧乏人の子供の学校だからと言ったって、学校に校章もなければ、校旗もなかった んて、ひどい話だよね。ほかの小学校には、何だかんだと言ったって、校旗だって、校 だってちゃんとあったわけだからね。 その頃小樽に小学校が幾つあったか知らんけど、毎年五月の末近くになると、小樽中 ( ち 立小学校が合同運動会をした。花園公園のグランドでやることに、毎年決まっていた。何法 ね、小樽中の小学校の生徒が集まるわけだからね。見に来る人も大変な数だ。みんな手 章 第手に茣蓙を持ったり、重箱ぶら下げたり、その重箱には巻寿司やら、いなり寿司やら、 で卵やらぎっしり詰めて、お祭りのような騒ぎだった。いや、お祭りよりも大変な人出 っこ 0 ござ わかめ まき于・し

7. 母 (角川文庫)

あん時、もし多喜郎が死なんかったら、わだしら、小樽には渡る気はなかったかも知 ん。んだども、あの病院の部屋で死んだ多喜郎の姿が目に浮かぶと、何だかまだ多喜郎 さび 一人淋しく、あの病院のあの部屋で、死にそうになっているような気がしてね。可哀相一 可哀相でならんかったの。 わだしは多喜郎のそばにいるつもりで、半病人をつれて、子供たちと、一家を引きつ」 て、小樽さ移り住むことに決心したの。慶義あんつあまも、 「小樽さ来い、小樽さ来い。パンこ売ってでも、小樽だば生きていける」 にぎ なんていうもんだから、わだしも本気になったわけね。ま、一度小樽の賑わいば見て たこともある。慶義あんつあまの繁昌ぶりを、ちらっとでも見て来たっちゅうことも、 だしば決心させたかも知れないね。 わず わだしは、前にも言ったとおり、嫁入り前から、僅かな客だども相手にして、そば屋。 かご かぼちゃ るたこともある。嫁っこになってからも、毎年、豆だの、南瓜だの、人参だの、野菜籠ば北 負って、 章 第「ええーー南瓜」 「ええーー大根」 などと呼ばわりながら、大館の町さよく野菜売りに行ったこともある。人に物売って、 おおだて

8. 母 (角川文庫)

あんたさん、あん時も悲しかったよ。辛かったよ。ふるさとを離れるってね。大地にヘ 引っぱがすみたいな思いだった。生まれて育って、嫁こになって、子 ばりついてる体ば、 供ば五人生んで、一生懸命畠ば耕して、貧乏だって何だったって、懐かしいふるさとだ。 しんせき 辛かったなあ、あん時は。親戚や近所の人たちが、 「蝦夷は寒いからなあ、大事にせえや。あんまり寒かったら、我慢せんで帰って来いや」 ばそり ってねえ、みんな口々に言ってくれてねえ。馬橇が見えなくなるまで、みんな小雪の中 を、手をふってくれたつけ。その姿が、次第に影絵のようになって、雪の中に消えてった。 そして、大館の駅から汽車に乗ってさ。あん時の馬橇の鈴が、りんりんと音を立ててね : ・ ・ : その音の淋しかったこと、一生忘れられんね。 えっ ? 何で年の暮れに引っ越したかって ? 何で春になってから来なかったって ? なるほど、そう思うべなあ。そりやねえ、あんた、わだしらだって、あったかい春にな るるまで、故郷ば離れたくなかったども、わだしら百姓だべし、春になって土の顔ば見たら、 土がめんこくて、畠ば起こしたくなるもんね。何も耕やさないなんて、畠ば置いてき・ほり 章 第にするようで、そんな冷たいこと、とてもできないもんね。雪かぶっているうちに、そっ と逃げて来たってわけなのね。それに、思い立ったら吉日っていうじゃないの。一冬過ぎ たら、決心も鈍るべしね、そんなわけですよ。ええ、あれは明治四十年の十二月下旬だった。

9. 母 (角川文庫)

わだしの婿さんのお父つつあんは、多吉郎という名前でね : : : ああ、そうだ、今言った ばかりだったかね : : : この人が、平田何とかいう偉い学者の、ま、弟子っていうわけで衣 ないべけど、とにかくそのお陰を受けて、かなり学のあるお父つつあんたったのね。若い 頃は、あちこちの有名な学者ば訪ねて勉強していたとかで、大変な物知りだったそうだ。 えきてい このお父つつあんが、街道を行く人やら馬やら見て、駅亭を始めることに決めたんだっ て。ああ、駅亭って知ってなさるかね ? 昔はあちこちの村に、駅亭つつうもんがあっ ね、郵便物や荷物を隣村の駅亭から運んで来ゑその郵便物や荷物を、また次の駅亭に届 けてやるの。そしてね、この駅亭に、旅の人や馬だの泊めてやって : : : まあそうだね、言 ってみれば、旅館の親方みたいなものかねえ。ま、羽振りもよかったらしい 何せ学はある、金はある、財産はある、村の人たちはみんな、この多吉郎さんに会う 深々とお辞儀をしていたもんだとか。いや、貧乏になってもお辞儀されていたのね。 とにかく、このお父つつあんが貧乏になったのは、長男の慶義さんが、なんていうのか 山師根性っていうのか、事業好きっていうのか、相場になんか手を出したらしいんだね。 あに 、そうです。この慶義さんが、わだしのつれあい、末松つあんの兄さんでした。 ざた 明治十六年頃から、だんだん借金がかさんで、裁判沙汰になってね、秋田市の裁判所や ら、仙台までも出かけて行って、金と時間ばかけて争ったけど、負けたんたって。 けいぎ

10. 母 (角川文庫)

128 多喜二はよく演説など聞きに行っていたが、 「母さん、母さん、今日の演説会は目茶苦茶だ。三百人入る演説会に、何と巡査が五十人 しゃべ も六十人も入っていた。弁士が一分喋ると、もう弁士中止だ。客が怒ると、巡査がどなっ て、文句を言う客ば引っ張ってった」 なんてわだしにさえいろいろ教えてくれる多喜二だから、タミちゃんに会ったらそんな 話ばかりしていたんでないかね。 そうそうこんなことも言ってた。 「母さん、タミちゃんは、本当に勉強好きの娘だね。いつも真剣に、・ほくの言葉に耳を傾 けてくれている。この手紙にもね、・ほくがこの間教えてやった英語の短い言葉ばまぜて、 書いてきたよ」 って、そりゃあうれしそうだった。多喜二は、 「母さん、そのうち必ずタミちゃんを嫁さんにもらうよ」 って、よく言っていたが、タミちゃんに何か教えるのが、その結婚の準備のつもりだっ たんかねえ。わだしは男と女というものは、もちょっと甘い言葉ばかけたり、かけられた りするもんかと思っていたけど、多喜二は、夫婦というもんは、もっと話し合うもんだと か、お互いの考え方を話し合うもんだとかって、タミちゃんと喋っていたようだったなあ。