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検索対象: 母 (角川文庫)
234件見つかりました。

1. 母 (角川文庫)

がうもんね。それでもタミちゃんのおかげで、一家は何とか食いつないで、小樽に戻って 来た。いや、高島じゃなくて、長橋っていう所ですよ。父親は、日雇いになって、来る日 も来る日も、朝早くから夜遅くまで、一生懸命働いた。 けど、何しろ子供が多い。父親はくたびれ果てて、もう生きる力もなくなったのかねえ。 何日か・ほゃーっとして、独り言いってたそうだども、とうとう汽車に轢かれて死んでしま った。その踏切がねえ、なんとわだしらのいた店のすぐそばの若竹の踏切だった。これも 何かの縁だべか。そう一一一一口えば、ちょうどその頃、汽車に轢かれた人がいると聞いて、みん なが見に行ったことがあったつけ。 これやあもう、末松つあんより哀れな話だわねえ。末松つあんと言い、タミちゃんのお 父つつあんと言い、しし冫 、目こ会えない人がこの世にはいるものなのね。 しんせき 何べん聞いても、涙の出る話だども、この通夜の席にね、貧乏な親戚が何軒か集まって、 このあとどうしたらいいべという相談になった。タミちゃんのおっかさんは、思いもかけ たまげ ないつれあいの急死に魂消て、しばらくはものも一一 = ロえんようになった。働き手のつれあい に死なれては、明日からどうして食わせていくか、それさえ考える力がなくなった。 そりゃあ無理もないわね。で、親戚の者たちは、 「子供らば誰かにもらってもらうより仕方ないべ」

2. 母 (角川文庫)

おんなじものを着せてやりたい、人の食べてる白い米のまんまを、誰にも彼にも食べさせ てやりたい、人の行く学校に、みんな行かせてやりたい、そう思ったのが、どうして悪か ったんだべ。 そうそう、多喜二がよく言っていた話があったけ。 にんとく 昔々、仁徳天皇っていう情け深い天皇さんがいたんだと。お城の上から眺めたら、かま ぼそぼそ どの煙が、細々と数えるほどしか上がっていなかったんだと。それで天皇さんは、国民は みな貧乏だと可哀相に思って、税金ば取らんようになったんだと。したらば、何年か経っ て見たらば、・ とこの家からも白い煙が盛んに立ち昇っていたんだと。天皇さんは大喜びで、 国民が豊かになったのは、わしが豊かになったのと同じことだって、喜んだんだと。 この天皇さんと、多喜二の気持ちと、わだしにはおんなじ気持ちに思えるどもね。天皇 さんとおんなじことを、多喜二も考えたっちゅうことにならんべか。ねえ、そういう理屈 にならんべか。天皇さんば喜ばすことをして、なんで多喜二は殺されてしまったんか、そ こんところがわだしには、。 とうしてもよくわかんない。学問のある人にはわかることだべ カ それはそうと、末松つあんが大正十三年の八月に死んだ話は、もうしましたね。脱腸の 手術なんかで死ぬとは、夢にも思わんかった。多喜一一が高商卒業して、その年の三月から

3. 母 (角川文庫)

あれま、慶義あんつあまの話からそれてしまって : ・ 慶義あんつあまは、その後どうにもならなくなって、東京からまっすぐ北海道の開拓曲 に志願して、行ってしまったの。何せ、一か八かの相場の好きな人だから、あっちに相 っていうカ : したり、こっちに相談したりなどしないのね。度胸がいい おたる その開墾に入ったところが、小樽の外れの潮見台という所だった。その頃の小樽とき一 せき らあんた、北海道一景気のいい所でね。でつかい外国の船が、何隻も出たり入ったりし一 たんだと。 この慶義あんつあまの長男坊は、幸蔵といってね。パン屋に住みこみに入った。わだ 1 の住む川口には、パン屋なんてものはなかったから、パンなんてもの、見たこともなか ( まんじゅう た。団子でもない、饅頭でもない、そのパンてものが、想像もっかんかった。ま、言っ とみればハイカラな食べものだったわけね。 さ る幸蔵はね、ほんとはね、最初靴屋に勤めたんだって。この靴だって、わだしら秋田の E 舎に住む百姓たちには、馴染みのないもんでね。そうだべさ、わだしらの履くものは、 章 ぞうり ぜいたく 第草履か藁靴がふつうで、下駄だって贅沢なもんだったからね。 まあそれはともかく、幸蔵は初めは靴屋に住みこんだわけだけど、どうしてだか、。ハ ' 屋に入ってしまった。

4. 母 (角川文庫)

すると、トロッコが脱線して、真っさかさまにふり落とされた人もいた。 しかし、わだしも末松つあんも、よくやったもんだと思う。でもね、二人でおんなじト ロッコに乗ってね、わだしだって、急カーブ切るのうまくてね : : : 若かったんだねえ。 せ一日八十銭もらえる。それがうれしかった。末松つあんと一緒に働くのがうれしかった あの、風を切ってトロッコに乗るのが、わだしの気性に合ってたんかねえ。過ぎ去れば、 あんな命懸けのことでも、懐かしいもんだねえ。だけど、懐かしがっているだけで、 んかねえ。 とにかくね、かけそば一杯が二銭としなかった時代だよ。一銭八厘とか、一銭二厘とか ね。そんなぐらいの頃だからね、一日八十銭は大きかった。かけそばを四十人以上にごっ つおうできるわけだからね。ほんとにありがたい出面賃だった。 とま、さっきも言ったようにさ、坂ばころがるように、貧乏になっていく真っ最中の小 るの家に、なんで嫁に来たもんだかね。わだしが十三だの十四だのっちゅう子供だったから 何の考えもなく、お父つつあんやおっかさんの言うとおり、馬橇に揺られて嫁人りしたん 章 うわさ 第だねえ。もしも十七、八になっていたら、小林の家の噂を聞いて、そんなに借金のある家 なら、こりや大変だと、ちょっと考えたかも知れないね。 だけどね、あんた、わだしは貧乏の苦労こそしたけど、末松つあんと一緒になったこを

5. 母 (角川文庫)

わだしの辛さをどうしてくれるわけにもいかない。イエスさまだら、この辛さをちゃーん とわかってくれると思うの。死ぬ時には手ば引いて、山路ば一緒に行ってくれるお方だも んね。あんまり下手で恥ずかしいども、作ったというか、書いたというか、鉛筆持ったら こんなのできたというか、ま、そんなもんだ。 あーまたこの二月の月かきた ほんとうにこの二月とゆ月か いやな月こいを、 なきたいどこいいてもなかれ ないあーてもラチオて しこすたしかる あーなみたかてる めかねかくもる これな、ほんとは近藤先生にだけは見せたんだ。したらな、先生、なんも言わんで、海 のほうば見ているの。五分も十分も黙ってるの。

6. 母 (角川文庫)

210 え ? この大きい紙さ書いたの誰の字かって ? ああ、これわだしが書いたんだよ。多 喜二が監獄に入った時、手紙書いてやりたくて字ば習ったの。ひらかなばかりだどもね。 それでこの讃美歌も書けたわけ。 この次、近藤先生が見える時まで、そらでうたえるように練習しようと思ってるの。毎 日、これ見てうたってるの。題はね、「山路越えてーっていうんだと。讃美歌は、文句も 節も西洋人が作ったものが多いそうだけど、これは日本人が節も文句も作ったもんだと。 うたってみれってか。あんたがたも一緒にうたうべ。え ? やつばりわだし一人でうた えってか。そうだね、死んだ時一人でうたって神さまの所さ行かねばならんからね。じゃ、 うたってみるか。ちょっとご詠歌に似てるどもね。六番まであるけど、三番までうたって いるうちに、神さまの所さ着くべさ。 やまじこえてひとりゆけど 主の手にすがれるみはやすけし 松のあらし谷のながれ みつかいの歌もかくやありなん

7. 母 (角川文庫)

100 ても、人を泣かせる悪い奴がいるなんて、全然思わんかったもんね。 多喜二はね、またこうも言ったつけ。 「毎晩男に体を買われて、つらい思いをしている女が、小樽だけでも何百人もいる。日本 中にはどれほどいることか。女は死ぬほどいやな思いをしているのに、男はそれが楽しみ だ。男にとって女は、単なる遊び道具なのか。人間が遊び道具、冗談じゃない。たった一 度の人生だよ、母さん。その人生を泣いて暮らす女がいる」 そう言って、多喜二はいても立ってもいられんような顔をしたことがあった。もちろん、 たった一度の人生を泣いて暮らすのは、女ばかりじゃない。男だって泣いているもんはあ る。とにかく、タミちゃんを何とか救ってやりたいって、多喜二は家にいるツギにも、た まに顔ば見せるチマにも言うようになった。チマも、まだ見ぬタミちゃんの身の上を思っ て、助け出すことには賛成した。けど、誰も、タミちゃんがどのくらい借金があるか知ら んかった。 そんな頃、ツギが一度、こっそり、わだしにこんなことを言ったことがある。 「ね、母さん。いっか、わたしが果物屋の店に買い物に来た女の人のこと、言ったことあ 、まう買うか、迷っている るよね。女の人が、ひと盛りいくらの安いりんごを買うか、ししを のを見て、可哀相だったって言ったら、兄さん、その人に新鮮な果物を買っても、本当の

8. 母 (角川文庫)

とあるせいか、タコたちもわだしらの仲間に思われてね、何とかして助けてやりたいもん だと思ってね、末松つあんに、 「警察に知らせたらどうだべ」 って言ったら、末松つあんは、 「無駄だべ」 と、。ほっりと言っただけ。 「何で警察さ、いじめないようにつて言うのが無駄なの ? 」 って、わだしが怒って聞くと、末松つあんは言った。 「なあ、おセキ。お前もいっかわかるべ。とにかく、子供たちが大きくなった頃には、 しは世の中の仕組みも変わるべ」 ってねえ、あとは黙って何か考えてるの。わだしは何かわからんども、すごくおっかな い気持ちになった。わだしは、警察は殴られてるもんを助けるもんだと思ってた。いじめ られてるもんを、助け出してくれるもんだと思ってた。 あめ せんべい わだしの生まれた家の向かいにいた駐在さんは、飴だの、煎餅だの、わだしによくくれ たもんだ。貧乏なわだしらば、ほんとに可愛がってくれたもんだ。それが警察つつうもん だと信じて育ったから、末松つあんの言うことは、どうも腑に落ちない。腑に落ちない

9. 母 (角川文庫)

中古なら安いべと思ったが、末松つあんには高くて手が出んかった。そのことを、末松っ あんは、そっとわだしに聞かせてくれたの。わだしは何げなく多喜二に、 , イオリン買いに、古道具屋に行ったんだと。だども高くて買えんか 「お父つつあんは、く ったんだと って、言って聞かせた。多喜二はそん時、 「ふーん」 と言ったきりだったから、心にとめていたとは思えんかった。 ところが多喜二は、初給料をもらったその日、バイオリンをかついで帰って来た。 ほお みんな飛び上がって喜んだ。三吾はバイオリンを抱きしめて、頬ずりをして喜んだ。そ れば見て末松つあんは、肉の落ちた肩をふるわせて泣いていたつけ。 あん時のうれしかったこと。 ( ああ、生きていてよかった ) わだしは、しみじみと思った。わだしらは貧乏かも知れん。亭主の体は弱いかも知れん。 あたい 人から見れば、何の値もない一家かも知れん。しかし人間生きていれば、こんなうれしい 目にも遇える。そんな喜びはそのあとにも何度もあった。むろん、それを打ち破るあの多 喜二の辛い目にも遭ったども : とにかく、毎日明るく楽しく暮らした家だった。

10. 母 (角川文庫)

いたのを、どういうわけだか覚えてるの。 ああ、春も終わりの頃だった。戸締まりして、寝るべと思っていたら、店の戸が何かご とごと音がする。寝巻に着替えようとしていた末松つあんが、客かと思って店の戸を開け てみたらば、若い男が両手を合わせて、わしらば拝んだ。 「助けてください」 その言葉でタコとすぐにわかった。 末松つあんは毎日、土工現場にパンば背負って売りに行っていたから、向こうは末松っ あんの顔ばよく知っている。誰が見ても末松つあんの顔はやさしい顔だ。タコはきっと、 この人なら助けてくれるべと、前々から思っていたのかねえ。 タコの拝む姿を、末松つあんと並んでわだしも見たけど、とにかくすぐに家ん中さ入れ てやらねばと思った。むろんそん時はびつくりして、一瞬、どうしたもんかと、末松つあ んとわだしは顔を見合わせたども、逃げたタコが見つかった時、どんな目に遭うか何べん も聞いていたから、外に突き出すわけにもいかなし 「まずは上がれ ! 」 と引っ張りこんで、家の押入れさ隠してやった。わだしたちの布団はもう敷いてあった から、押入れにはタコの一人や二人かくまってやる余裕があった。