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検索対象: 母 (角川文庫)
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1. 母 (角川文庫)

東京で、同じ屋根の下に住むということだけは、はっきりしたわけだ。 それでもねえ、多喜二は長い念願の、タミちゃんと一緒に住めるわけだし、出たい出た さび いと思っていた東京に出られるわけだし、うれしそうだったなあ。でもわだしが淋しがる かと思ってか、 「母さん、母さんば迎えられるようになったら、すぐに手紙書くからね。東京に出てくる んだよ。三吾と一緒に出てくるんだよ なんそと言ってくれたの。そして、とうとう多喜二は三月、タミちゃんは四月に東京さ 行ってしまった。多喜二は築港駅から汽車に乗ってね、窓から身を乗り出すようにして、 「母さん、体大事にしてな。いいか、体だけは本当に大事にしてな」 って、私の手を強く強く握ってくれた。汽車が動き出すと、いつまでもいつまでも手を ふってね、わだしはあとでタミちゃんも行くし、これからは多喜二もいいことつづきだべ 行 尾と思って、一生懸命手ばふって見送ったの。 章そして次の月、タミちゃんも東京さ行った。タミちゃんは小樽の駅から、心細げな顔し 第て見送りに来たおっかさんだの、ちっちゃい妹たちだのを、じっと見つめていた。それで も、多喜二と同じように、わだしの手を握って、 「お母さんも、きっと東京に来て下さいね」

2. 母 (角川文庫)

218 「おれは元右翼だけどね」 と言い出した。いったい何言い出すかと思ったら、 「あんたがた、小林多喜二つて小説家知ってるか」 すわ ってきたもんだ。助手席に坐っていた三吾が、 「うん、まあ と、ロの中でもごもご言った。するとね、その運転手さんがまた言った。 「おれはさあ、元右翼だけどさあ。小林多喜二の時の警察のやり方だけは、絶対に悪いと 思う」 とね。わだしはもうびつくらこいて、 「そんなに悪いかね」 って言ったら、 「うん、悪い。あれじや多喜二は可哀相だった」 って言い出すわけ。そしてあとはもう知らんぶり。 。いったい何だったべ」 「あの運転手さんよ、 って、時々三吾や浩子さんと話し合うの。あの運転手さんはああやって、乗る客乗る客

3. 母 (角川文庫)

の生まれ故郷だども、この歌うたうと、あの辺りが何とも目に浮かぶのね。んだ、多喜一一 幻ば生んだところも大館在の川沿村だから、多喜二の生まれ故郷でもあるわけね。あの辺り の山ば、イエスさまの手にすがって歩いて行く自分の姿が、はっきり見えるみたいで、こ の歌うたうと、何とも一一一一口えず安らかな気持ちになるんだ。 近藤先生、この正月にも来て下さってね、この歌ば先生とけいこした時、先生にそう言 っこら、 「安らかになる ? お母さん、この歌の文句の『身は安けし』というのは、『心が安らか だ』という意味だからね。この歌をそれだけわかったら、大したもんですー って言って下さってね、わだしとてもうれしかった。この安心が信仰だってね。今もこ うして目をつぶると、故郷の山路ばこの歌うたいながら歩いていくわだしの姿と、手ば引 いて下さるイエスさまの姿とが、目に浮かんでならないの。 しかし、チマの旦那の佐藤藤吉という人は、何と偉い人だべ。近藤先生に、 「わだしの葬式はキリスト教でやって下さい。先生がわだしの葬式ばして下さい , って頼んだら、近藤先生それはそれはうれしそうな顔をして、 「一緒の所に行こうね」 ひざ って、わだしの手ば握ってくれた。膝をきちんと折ってな。その目から涙がぼとんぼと だんな

4. 母 (角川文庫)

85 第三章巣立ち か。まさか小説書いて殺されるなんて : : : あの多喜一一が殺されるなんて : あれは銀行に行ってた時だったべか。いや、高商に通ってた時だったべか。チマの妹 ( ばんめし ッギが、晩飯の時にこんなことを言った。 「あんね、母さん。今日ね、果物買いに来た女の人がね : ・ ああッギはね、果物屋で臨時で働いていたの。 「 : : : ね、母さん、その女の人、赤ん坊をおんぶして、小っちゃな子の手を引いて、少 , 腐れの入ったひと山なん・ほのりんごの前で、買おうか買うまいかと、手を出してはひっ一 め、ひっこめては手を出してねえ、 しいりんごのほうを見たり、ひと山なん・ほのほうを たり、そりゃあ何度も何度も思案してるの。そして、とうとう腐れの入ったりんごばひ 1 山買って帰って行ったの。わたしね、自分が金持ってたら、新鮮なびかびかのりんご持亠 してやりたいと、つくづく思ったよ」 ッギの言葉にわだしは、 「ツギ、お前は優しい心だな。その心が何よりの宝だなあ」 って、ほめてやったの。そしたら、じっと傍で始めから終わりまで話ば聞いていた多書 二が言ったの。 「母さん、優しい心はむろん大事だよ。だがね、ツギの優しい心で、その女の人にして宀

5. 母 (角川文庫)

は目と鼻の先にあるからね。汽車が入ってから多喜二は、大急ぎで汗ば拭いて、ワイシャ ッば着て、背広に手を通して、家を飛び出して行くの。多喜二が構内ば走って汽車に飛び 乗ると、汽車は小樽のほうさ、シ = ッシ = ッと出て行ったもんだった。 ええ ? なんで多喜二が餅ば搗いたって ? 誰でもそう思うわね。多喜二は小樽の拓銀 さ勤めていた。銀行で一日一杯働くんだから、出がけに餅など搗くことなど要らねべと、 誰もが思うわね。 でもね、うちはパンやら大福餅を売っていたからね、毎朝ひと臼餅ば搗かねば、間に合 わないの。三吾の店だし、三吾のほうが若いし、本当なら三吾が餅を搗けばいいわけだべ し。でも、多喜二は三吾に、その餅搗きをさせたくなかったのね。な。せかといったら、三 吾の手はバイオリンを弾く手だ、重い杵など持って餅ば搗いたりしたら勘が狂う。そした ら、三吾は決していい。ハイオリンの弾き手にはなれないべってね。多喜二はそんな弟思い ち 立の兄貴だった。 章本当にねえ、自分だって毎日銀行さ行って、一日一杯働いて帰ってくると、飯もそこそ 第こに小説書いて、夜中までごそごそ起きているというのに : : : 。餅搗くために、それだけ 早く起きねばならないわけだからねえ。私は、わが子ながら偉い奴だと、なん・ほ思ったか わからん。 きね

6. 母 (角川文庫)

えないね」 と、そっ。ほを向いた。けどわだしは必死だった。 「もし指輪が出てこんかったら、この娘は離縁になるかも知れんのです。どうか、おね飛 いだから、探させてください」 わだしとチマがあんまり頼むもんだから、風呂屋の主人もしぶしぶ承知して言った。 「その代わり、見つかっても見つからなくても、元通りにしてくれにや困る」 ってね。さてそれから大工さんが、洗い場に行って、簀の子やら板やら、一つ一つ慎重 に外した。するとやつばり、流し溝の先には落とし口があった。 それを見るなり、わだしは腕をまくって手を突っこんだ。下がぬるりとして、ヘャー ンだの、櫛だの、布だの、髪の毛だの、何やら気持ちの悪いものばかりが手に触れる。 : なかなか指輪は見つからない。 ち 立 ( 駄目か : : : ) 一瞬力の失せていくような思いになった時、わだしは思わず、 章 第「あっ ! 」 と叫んだ。 「どうしたの母さん ! 」

7. 母 (角川文庫)

186 たりの神さまが忘れても、やおよろずの神さまがいるんだもの、安心なもんだ ) ってね。ほんとに安心して手を合わせてきたもんだ。そのわだしが、 「神も仏もあるもんか と、ロに出して言うようになったんだから、大変な変わりようだ。それでも、つい習慣 で、おまんまを頂く時、手を合わせて、 「神さま仏さま、頂きます って言ってしまったりしたが、気がついては、 「何が神さま仏さまか」 と、荒々しい気持ちになってねえ。 どこの親だって、わが子は可愛い。わが子ほど可愛いものはない。命ば代わってやりた いほど可愛いもんだ。子供に死なれるって、ほんとに身を引きちぎられるように辛いもん だ。まして多喜二のように死なれては、わが身ば八つ裂きにされたような辛さでねえ。し ばらくは飯も食いたくなかった。夜も眠られんかった。いつもいつも、 「おばば、おばば ひざ と、わだしの膝に寄ってくる孫の昌久でさえ、わだしの傍に寄りつかんようになった。 どんなに恐ろしい顔をしていたもんだか。どんな辛い涙を流していたんだべ。たった二歳

8. 母 (角川文庫)

とにかくある時、小樽の慶義あんつあまから手 そのわけはあとでわかったんだども しん 紙が来た。末松つあんがランプの芯を太くして、その長い手紙ば読んでいたが、 「何なに ? なんだって と、声に出して驚いた。末松つあんは、ふだん大きな声など出さない人だから、わだし は胸をどぎんとさせて、 「末松つあん、何が起こったの ? 慶義あんつあまが病気にでもなったのかね」 って、モンべに継ぎを当てていた手をとめて、思わず聞いてみた。 末松つあんは黙って頭を横にふって、おっかない顔をしたまま、手紙を先に先にと読ん ていく。 ( 何か一大事が起こったにちがいない。なんだべ ? なんだべ ? ) と、わだしは心配でね、息を殺して、手紙の読み終わるのを待ってたの。 とうとう読み終わった末松つあんは、ふーっと太い吐息ば洩らしてね、そしてわだしに 一一 = ロった。 「いいか、おセキ、驚くなよ。幸蔵の野郎がヤソになったんだとよ」 ャソと聞いて、わだしもぶったまげた。 「な、なんだってャソになったって ? それはまたごっぺ返したね

9. 母 (角川文庫)

「おれは元右翼だけど、小林多喜二は可哀相なことをした」 って言っているんだべか。もしかして、多喜二が死んだ時、警察さ勤めていたんだべか : なんて思ったりもしたけど、ほんとにあれは不思議な話だよ。けど、あの運転手さん のことを思い出すと、何か慰められるのね。多喜一一ばわかってる人が、まだまだいるんだ べってね。あの人、今日も、 「 : : : 元右翼だけど」 しゃべ って喋っているべか。多喜二ば調べた特高の一人が、狂い死にしたって聞いたことがあ しんせき るが、もしかしたらあの運転手さんの親戚だべかと思ったりしてね。 わだしが思うに、右翼にしろ、共産党にしろ、キリスト教にしろ、心の根っこのところ は優しいんだよね。誰だって、隣の人とは仲よくつき合っていきたいんだよね。うまいほ て 9 た餅つく 0 たら、つい近所に配りたくなるもんね。むずかしいことはわからんども、それ 山が人間だとわだしは思う。 章そりゃあ人間だから、悪いことも考えるべさ。ある時は人ば怒鳴りたくもなるべさ。で 第も本当は、誰とでも仲よくしたいのが人間だよね。 それだのに、人間は、その仲よくしたいと思うとおりには生きられんのね。ちょっとの ことで仲違いしたり、ぶんなぐったり、あとから後毎するようなことばかりして、生きて

10. 母 (角川文庫)

カ月ばかりだったとあとから聞いた。タミちゃん、そこさ通ってたのね。タミちゃんは感 心な娘だ。洋髪の学校へ行くのに、、 月樽のホテルで、汽車賃やら授業料やら、ちゃんと積 立てしてたんだと。そこまで多喜二に言われた自立っていうことを守ったんだと。 そしてね、多喜一一が捕まってからは、美容学校の寄宿に入って身を守ったんだと。タミ ちゃん本気で、多喜二の足手まといにならんように、いい嫁さんになろうと、一生懸命だ ったのね。 四カ月で洋髪の学校出たタミちゃんはね、そこで助手で働いていたんだと。でもね、住 込みで一カ月三円だったと。手に職は持っても、大変なもんだったのね。多喜二は監獄の 中でそのこと知って、 「小樽の小林の家に行って、母さんと一緒に待ってれ」 って言ったども、 行 尾「多喜二さんが監獄にいるのに : 章って、東京で頑張ってたのね。あとでタミちゃんから、その頃のこと詳しく聞いて、わ 第だし泣けてねえ。あれからもう三十年近くも経っているけど、そのことだけは忘れられな とにかく多喜二は、あちこちの警察をたらいまわしにされた挙句に監獄さ入れられた。