も、末松つあんという人は、考えなしにものを言う人じゃない。でたらめを言う人じゃな 本をいろいろ読んでいた人だからね。だからわだしは、何かわからんども、わだしに わからんことがこの世には隠されているんだなあと、わだしはわだしなりに思った。 けどなあ、こんな話も忘れられん。ある時発破の爆発で、一ペんに崖崩れが起きて、タ コがたくさん死んだんだって。そしたら、その死んだタコたちは、一つ穴に・ほんごぼんご と投げ入れられて、棒っこの一本も立ててもらえず、あの若竹の崖の下に眠っている。そ んな話聞いたら、どうにもタコが哀れでならない。出稼ぎはたいてい東北の貧乏百姓だべ でめんちん し。向こうで、いいだけ貧乏で苦労して、北海道さ行ったら、一日三円の出面賃がもらえ るって、喜んでやって来て、悪い周旋屋にだまされて、タコに売りとばされて : ねえ、あんたさん、売られたタコが悪いんだべか。故里に帰れば、父親もいるべし、母 ぜん 親もいるべし、女房、きようだいもいるべし、みんながいっ銭こ持って帰って来るかと、 首長くして待っていたって、いつまで経っても帰って来ねえ。まさか、一つ穴に、とうに 葬られていたなんて、誰が思うべ。ねえ、可哀相でならね。わだしは、タコが毎日棒頭に 怒鳴られながら、首ば垂れて働きに行く姿を見ただけでも、なん・ほ涙がこぼれたもんだか。 あれは大正何年頃だったべか。五、六年頃だったと思うけどね。多喜二が十かそこらの 子供だったからね。暗あい晩だった。店の戸締まりをする時、星が三つ四つ雲間から出て
どうして悪い考えだったんだべか。あんなひどい殺され方をしなければなんないほど、そ んなに多喜二の考えは悪い考えだったんだべか。わだしには、多喜一一が何を書いたか知ら んども、多喜二はわだしの腹を痛めた子た。わだしが育てた子だ。あの子がどんなにわだ しら親やきようだいに優しくしてくれたか、親切にしてくれたか、よっく見て来た。カラ スの鳴かん日はあっても、あの子が、 「母さん、無理するな」 「三吾、頑張れよ」 「父さん、体疲れてないか」 だの、優しい声で言わんかった日は、一日もなかった。 三吾が洋品店に住みこんでいた時だって、多喜二は銀行の帰りに、ビスケットやら、お もしろそうな本やら、何回も買ってきて、 「頑張れよ」 と、声をかけてやっていた。ああ、それはもう話したかね。とにかくそんな多喜一一が、 貧乏人を助けたいって考えたことが、そんなに悪いことだったべか。人が着てるものと、
166 してからは、一だんと家に帰って来ることがなくなった。三吾は素直な優しい息子で、 「母さん、あんまり心配するな。あんちゃんはあんちゃんの考えに従って、きちんと生き てるわけだから」 って、よく慰めてくれたよ。けどなあ、わだし東京さ出て来る時、これからは小樽にい た時と同じように、多喜二と楽しく話ができる、毎日顔ば見れる、と思ったわけだからね。 それが、いったん家を出ると何日も何日も帰らない。案じられてならんかった。 ( 今夜はどこの友だちの家にころがりこんだやら ) ( 今夜はどんな木賃宿に眠っているんだべか ) ( いやいや、また豚箱にぶちこまれているんでないべか ) と、心の安まる暇がないの。夜中に、玄関でがたっと音でもすると、多喜一一が帰って来 たのではなかべかと、もう心臓どかどかして飛び起きるの。そしてね、 ( 小説なんそ、もう書かんでもいい。日本一の小説家だなんて言われんくてもいい。朝晩 しゃべ 一緒におまんま食べて、冗談ば喋って、蓄音機の浪花節でも聞いて、みんなでぐっすり眠 りたいもんだ ) ってね、なん・ほ思ったもんだか。 多喜二はね、眼鏡かけたり外したり、帽子かぶったり脱いだり、ちょっといい服着たり
156 って、いつもの優しい笑顔で言ってくれた。 多喜二は東京の中野という所に家を借りた。多喜二の仲よしの斉藤次郎さんがその頃中 野に住んでいて、多喜二はタミちゃんが行くまで、一緒に住んでいたの。そして近所に多 喜二の住む家ば捜してくれたんだって。ああ、斉藤さんかね、多喜二とおんなじ小樽高商 ば出て、よく絵など描いて、多喜二とは話の合う友だちでね、考えも同じでなかったんだ べか。だからわだしは、安心して多喜二ば東京に出してやれたの。 わだしの心づもりでは、来年か再来年には、タミちゃんとの間に子供が生まれて、先ず はお産扱いにわだしが東京に出ていかねばならんかも知れんと、思ったりしていた。 多喜一一は小樽を出る前から、 「八月二日の父さんの七年忌には帰りたいと思っている。おれの好きな西瓜でも冷やして 待っててくれ」 って言ってたもんだから、七月の末には近所の八百屋ででつかい西瓜ば買って、いっ帰 って来てもいいように、井戸の水で冷やしていたの。けど、八月二日になっても、三日に なっても多喜二は帰って来ない。すると三吾がね、 「帰って来てからまた買ったっていいべや。その西瓜食べてしまうべ」 すいか
れることには、限りがあるだろ。女の人が可哀相だと思って、金を持っていたら一回はり んごを買ってやれるわな。だけど、その人が店に来るたびに買ってやるわけにはいかんだ ろ。おそらくその女の人は、一年も一一年も、いや三年も五年も、ひと山なんぼのりんごし か買えないんしゃないか。そしてなツギ、小樽の町には、その女とおんなじように貧しい 人は、数え切れんほどいるんだ。いや、それどころか、りんごなんて、腐ったりんご一つ さえ買えん貧乏な人がたくさんいるんだ。金を持っている人が、その人たちに毎日毎日買 ってやっても、追っつかんほど貧乏な人はごしやごしゃいる。ッギがなん・ほ優しい心でそ の人にりんご買ってやったって、残念ながら何の解決にもならんのだよ」 ってね、多喜二は腕ば組んで暗い顔をしていた。言われてみれば、なるほどそうだとわ だしも思った。 「そんだら多喜一一、どうしたらいいんだべ」 とわだしが言ったら、多喜二はね、 「だからね、母さん、貧乏人のいない世の中ばっくりたいと、心の底から思って、おれは 小説を書いている。おれの友だちの島田正策なんかも、貧乏人のいない社会をつくりたい って、一生懸命勉強しているんだよ」 ってね、そりゃあ優しい顔をしていたつけ。けどなあ、そんな考えがお上から見たら、
すると、トロッコが脱線して、真っさかさまにふり落とされた人もいた。 しかし、わだしも末松つあんも、よくやったもんだと思う。でもね、二人でおんなじト ロッコに乗ってね、わだしだって、急カーブ切るのうまくてね : : : 若かったんだねえ。 せ一日八十銭もらえる。それがうれしかった。末松つあんと一緒に働くのがうれしかった あの、風を切ってトロッコに乗るのが、わだしの気性に合ってたんかねえ。過ぎ去れば、 あんな命懸けのことでも、懐かしいもんだねえ。だけど、懐かしがっているだけで、 んかねえ。 とにかくね、かけそば一杯が二銭としなかった時代だよ。一銭八厘とか、一銭二厘とか ね。そんなぐらいの頃だからね、一日八十銭は大きかった。かけそばを四十人以上にごっ つおうできるわけだからね。ほんとにありがたい出面賃だった。 とま、さっきも言ったようにさ、坂ばころがるように、貧乏になっていく真っ最中の小 るの家に、なんで嫁に来たもんだかね。わだしが十三だの十四だのっちゅう子供だったから 何の考えもなく、お父つつあんやおっかさんの言うとおり、馬橇に揺られて嫁人りしたん 章 うわさ 第だねえ。もしも十七、八になっていたら、小林の家の噂を聞いて、そんなに借金のある家 なら、こりや大変だと、ちょっと考えたかも知れないね。 だけどね、あんた、わだしは貧乏の苦労こそしたけど、末松つあんと一緒になったこを
は目と鼻の先にあるからね。汽車が入ってから多喜二は、大急ぎで汗ば拭いて、ワイシャ ッば着て、背広に手を通して、家を飛び出して行くの。多喜二が構内ば走って汽車に飛び 乗ると、汽車は小樽のほうさ、シ = ッシ = ッと出て行ったもんだった。 ええ ? なんで多喜二が餅ば搗いたって ? 誰でもそう思うわね。多喜二は小樽の拓銀 さ勤めていた。銀行で一日一杯働くんだから、出がけに餅など搗くことなど要らねべと、 誰もが思うわね。 でもね、うちはパンやら大福餅を売っていたからね、毎朝ひと臼餅ば搗かねば、間に合 わないの。三吾の店だし、三吾のほうが若いし、本当なら三吾が餅を搗けばいいわけだべ し。でも、多喜二は三吾に、その餅搗きをさせたくなかったのね。な。せかといったら、三 吾の手はバイオリンを弾く手だ、重い杵など持って餅ば搗いたりしたら勘が狂う。そした ら、三吾は決していい。ハイオリンの弾き手にはなれないべってね。多喜二はそんな弟思い ち 立の兄貴だった。 章本当にねえ、自分だって毎日銀行さ行って、一日一杯働いて帰ってくると、飯もそこそ 第こに小説書いて、夜中までごそごそ起きているというのに : : : 。餅搗くために、それだけ 早く起きねばならないわけだからねえ。私は、わが子ながら偉い奴だと、なん・ほ思ったか わからん。 きね
あん時、もし多喜郎が死なんかったら、わだしら、小樽には渡る気はなかったかも知 ん。んだども、あの病院の部屋で死んだ多喜郎の姿が目に浮かぶと、何だかまだ多喜郎 さび 一人淋しく、あの病院のあの部屋で、死にそうになっているような気がしてね。可哀相一 可哀相でならんかったの。 わだしは多喜郎のそばにいるつもりで、半病人をつれて、子供たちと、一家を引きつ」 て、小樽さ移り住むことに決心したの。慶義あんつあまも、 「小樽さ来い、小樽さ来い。パンこ売ってでも、小樽だば生きていける」 にぎ なんていうもんだから、わだしも本気になったわけね。ま、一度小樽の賑わいば見て たこともある。慶義あんつあまの繁昌ぶりを、ちらっとでも見て来たっちゅうことも、 だしば決心させたかも知れないね。 わず わだしは、前にも言ったとおり、嫁入り前から、僅かな客だども相手にして、そば屋。 かご かぼちゃ るたこともある。嫁っこになってからも、毎年、豆だの、南瓜だの、人参だの、野菜籠ば北 負って、 章 第「ええーー南瓜」 「ええーー大根」 などと呼ばわりながら、大館の町さよく野菜売りに行ったこともある。人に物売って、 おおだて
114 か電球を明るいのと取り替えでもしたように、うちん中が今までより明るくなったような 気がした。 春になると、三吾やッギたちは、毎年のように海べに流れ木ば拾いに行ったもんだ。タ ミちゃんのいたそん時も、三吾やッギたちが、流れ木ば拾いに行く。家の裏に築港駅の構 また 内があってね、そこの構内の線路ば何本も跨いで、海べまで行く。打ち上げられている流 れ木を、それそれが拾い集めて、縄で括って背負って来る。 するとね、あんた、それと知ったタミちゃんが、うちの娘らと一緒に、線路ば跨いで浜 まで行くの。うちの子らは、山木の店にいて水仕事ひとっしなかったタミちゃんが、流れ 木拾うのを見てびつくらこいて、 「いいから、 ととめるども、タミちゃんは、 「わたし、みんなと一緒にこんな仕事をするの楽しい ? って、人の心融かすみたいな、あったかーい笑顔見せるもんだから、ますますうちのツ ギたちはタミちゃんば好きになってね。 ええ、わだしが店でお客さんの相手ばするから、タミちゃんはご飯の仕度までしてくれ
たら、足がざわざわとして、カが脱けた。 「多喜郎 ! 多喜郎ー と、ゆすったって、叫んだって生き返らん。多喜郎のだんだん冷たくなっていく体ば抱 きしめて、わだしも死んでいくような気持ちだった。 ・ほんやりしていた末松つあんが、不意に叫ぶような大声を上げて泣いた。あんな悲しい 目に遭ったのは、わだしには生まれて初めてだった。 はあ、忘れもしない、明治四十年の十月五日のことでした。人間、生きるって、大変な つら ことだねえ。それよりもっとひどい死に方をした多喜二のことを思うと : : : 生きるって辛 いもんだねえ わだしら夫婦は、多喜郎の骨箱ば抱えて、川口さ帰って行った。もう末松つあんもわだ しも、話す気力さえなくなった。飯食う元気さえなくなった。 そのうちに末松つあんも、長い間の心労に加えて、多喜郎の悲しい死に遭って、すっか り半病人になってしまった。 ええ、末松つあんって、そりや、優しい人だったからねえ。 破産ですっかり心臓を弱め、百姓仕事で身体をすっかりいため、多喜郎でがつくりやら れ、もうすっかり参ってしまったのね。