と言われた。この時ばかりは多喜二も、珍しくむっとしたと言っていたがね。わだしは 慶義あんつあまに、とにかく感謝しているの。 そりゃあねえ、慶義あんつあまは金持ちだよ。末松つあんの兄さまだよ。先祖伝来の田 畑やら家をなくしたのは慶義あんつあまだよ。だから少しぐらい助けてもらって、ありが たく思うなって、人は思うべけど、慶義あんつあまだって、失敗したくて失敗したわけで をなし、・ すいぶんと苦しい思いをしたんだべし、わだしは、子供たちがそれそれ世話にな ったこと、ただありがたいと思っている。 とは言っても人間だねえ。何もうちの多喜二ば、店員同様にこき使わんでもいいのにな んて、つい思ってしまったりしてね。もし働かずに、ただ学資をもらっていたら、その金 はお恵みだもんね。人間滅多に、ただで金なんか出してもらってはならんわね。たとえ年 むく がいかなくても、働けるだけ働いて報いなければ、そりや乞食というもんだ。 ち 立考えてみるとね、小樽に住んでいる者でも、みんながみんな、商業学校だの、中学校だ の、女学校だのに進むわけではないのね。なん・ほか中学に行きたいとか、女学校に行きた 章 あきら 第いと思った子供もいたのね。みんな諦めて働きに出たのね。それば思うと、やつばりあり : こいと、つくづく思うんですよ。 まめい チマもね、女学校に行きながらよく働いた。秋になるとね、近所の豆炒りエ場が忙しく あに
118 だしは同じ貧乏人の仲間だ ) って、思ったことはない。 タミちゃんは、あん時、自分は多喜二の嫁さんになれる女じゃないって、はっきり思っ たにちがいない。高商を卒業した多喜二には、。ヒアノを弾ける学校出のお嬢さんがちょう あきら としいと、諦めたにちがいない。人間って、知らんうちに、人の心ば淋しくさせているも んなんだねえ。 それでも、タミちゃんは次の日もにこにこして、ご飯炊きしたり、掃除したり、流れ木 拾いに行ったりして、ほんとにくるくるとよく働いた。多喜二も、小説が思うように進む と言って、喜んでいた。けど、うまくいけばいくほど、一日も早く東京に行って、向こう で小説書きになりたいと思っていたようだった。 「母さん、おれが東京に行ったら、タミちゃんば頼むな」 と、タミちゃんのいる前でも一言うようになった。多喜二としては、東京で食べられるよ うになったら、タミちゃんを嫁に迎えるつもりだったかも知れないのね。だどもタミちゃ んは、わだしにこう言っていた。 「多喜二さんは、わたしがここにいたら、東京に行きづらいかも知れないわね」 「そんなことあるもんか、何ば遠慮してるの」
れたの。わだしが嫁入りした小林の家の、すぐ近くの駅前に建っていた。わだしはそれを 見て、何とも一言えん気持ちだった。あの小林の家は、わだしが十三の時に嫁に行った家だ からね。まだ子供のわだしば、末松つあんはめんこがってな。字は読めんくても、一度だ って馬鹿にしたことはなかった。よく小説を読んでいた。あの末松つあんの血が、多喜二 わらぞうり に流れていたわけだ。多喜二は、あの石碑の建った辺りば、藁草履はいて走りまわってい たもんだ。わだしと末松つあんが、工事場のトロッコさ乗って汗ば流してた時、多喜二は 何べん現場までわだしらば見に来ていたべ。 そう、あそこは多喜二の生まれた場所だ。多喜二の小っちゃな胸に、父親と母親がトロ ッコ押しをしている姿が、どんなに映ったもんだべか。きっと、たびたび思い出していた んでないべか。今はもう聞くすべはないども、多喜二が監獄に七カ月も入れられた時、あ の生まれ故郷の夢ば見なかったとは言えないべ。思い出さんかったとは言えないべ。何せ 貧乏村だった。あの辺一帯は貧乏だった。十五、六の娘たちは売られていった。父親につ れられて、自分の親きようだいばふり返りふり返り、売られて行った姿ば、多喜二は死ぬ までに何べん思い出したことだべか。 まさか、その故郷に、自分の石碑が建つなんて、想像もしなかったべな。あの多喜二の 最期はむごたらしくて、末松つあんは何も知らんで死んでよかったと思ったけど、あの村
でもねえ、時代というのかねえ。あの時代は、村全体がだんだん貧しくなる一方の、 りぎれん時代でもあったのね。それまではね、貧しい農家は、みんないろいろ手内職を 1 ていたもんだったの。それがね、東京辺りから、どんどん安い品物が村々に入って来たか うちわ ら、団扇作る内職なんかも、立ち行かんくなってしまった。 うそ にしん ちょうどその頃ね、北海道では鰊景気に湧いていた。嘘かほんとか、北海道の浜には市 が押し寄せてきて、こんまい子供でも、手づかみで鰊ば取ったっちゅう話だった。 秋田から北海道っていう所に行くには、なんせしよっぱい海を渡って行かねばならない ふところ ずいぶんと遠い所の気持ちがしたども、それでも鰊場さ稼ぎに行けば、何十円か懐に入 て帰って来られる。そう言って男たちは、北海道さわれもわれもと稼ぎに行くようになっ 荒海渡って北海道に行く気になれん者は、近くの山の造材に雇われて、ひと冬家さ帰っ て来んかった。それでも、無事にひと冬終わればよかったども、時々怪我する者が出てね その頃、 「怪我と弁当は手前持ち」 って言ってね、親方は見舞金一銭くれるわけでなし、怪我した者は充分に医者にかかる っえ わけにもいかず、一生足ば引きすって歩くようになったり、杖をついても歩けんようにな
ぜん ったり、そりゃあ惨めなもんだった。 今考えると、どうしてあんなにひどい扱いを受けたもんだか。怪我した者も、怪我した 自分が悪いみたいに、ちんこくなって、医者代くれだの何だのと、言い出す者もなかった。 中には恥を忍んで、医者代ば親方の所に借りに行った者も、たまにはあったらしいけど、 「怪我と弁当は手前持ちだ ! 」 と怒鳴られて帰って来るのがおちでね。今みたいに健康保険があるわけでなし、まあひ どい世の中だったもんだった。 あれはまだ、長男の多喜郎の生まれない明治二十六年頃だったと思うがね、青森から大 おうう 館までの、奥羽本線の工事が始まったの。そして、大館から秋田までの鉄道工事が、川口 でめんちん で始まったらね。何せあの頃で出面賃が一日八十銭というの。貧乏人にとっては、大変な 銭こでね。男も女もみんな張り切って日雇いに出たもんだ。 ああ、仕事かね。それがさ、危ない仕事で、トロッコ押しが主な仕事だったの。のたの たトロッコば走らせるわけにいかんべさ。トロッコに土ば一杯積んで、線路の上を走って 行く。そのトロッコが山を削った曲がり角を、勢いつけて走って行く。その時、急ブレー キをかけてね、うまくカーブば曲がって行かねばならん。これがむずかしかった。下手を
三星の慶義あんつあまのところさ走って行って、こうこうこういうわけでございますと、 よっぽど言ってみるべかと思った。しかし、おいそれと返せる金ではない。返しもできん 金を借りることは、わだしらにはできんかったもんね。 したらどうしたらいいべ。あん時は頭を抱えた。そしてふと考えついた。んだ ! 簀の 子をくぐって、指輪はとうに流されていたと思っていたけど、万が一、流し溝の先に落と し口か何かあって、いったんはその箱のようなところに、お湯がたまる仕掛けになってる んではないべか。もしそうだら、指輪は重い物、落としロの底に沈んでいるかも知れん。 さ、そう思ったら、指輪が風呂屋の落とし口にあるような気がして、一軒置いて隣の、 大工さんの家に駆けこんだ。大工さんは、 「さてなあ、風呂屋が承知するか、どうかなあ」 ひ′」ろ と、手を組んで考えていた。が、日頃可愛がっていたチマの一大事ということで、とも かくも、一緒に札幌まで行ってけさった。大工さんと、わだしとチマの三人で、がったん がったん汽車に揺られて、札幌まで行った時の心配といったらなかった。 札幌に着くと、まっすぐに銭湯さ行った。風呂屋はわだしらの話を聞いていたが、造り つけのものを剥がされたり、壊されたりするのは迷惑だと、にべもなく断った。そして、 「お湯はじゃんじゃん流れていくんだからねえ。そったら小さな指輪、沈んでいるとは思
「まさか、目と鼻の先に逃げこむ間抜けもあるめえさ」 あき 末松つあんが、呆れたように言った。わだしは、あん時ほど末松つあんが頼もしく思わ れたことはなかった。だってねえ、顔つきがちっとも険しくならんのね。ちっともびくび くしておらんのね。 「それもそうだな」 棒頭が納得すると、末松つあんはわだしの顔みて、こう言ったのね。 「ああ ! おセキ、したらばさっきの走ってった足音、あれタコだったんたべか」 わだしは大きくうなずいた。胸がまたドキドキした。棒頭が殺気立って、 「何足音 ? それ、どっちさ行った ? 」 と声ば、うわずらせた。わだしは左のほうば指さして、 「はい、あっちのほうさ、駆けて行ったようだったね、ね、あんた」 おおうそ と、大嘘ついた。 「おおう ! あっちか 2: じゃ、朝里のほうだな」 疑う様子もなく、棒頭は手下の者と一緒になってすっ飛んで行った。朝里のほうばなん ・ほ追っかけたって、追いつくわけないわね。うちの押入れの中にいるんだもの。 けど、どうして人間、あんなに簡単に人の言葉ば信ずるもんだか。押し問答してると、 あさり
110 顔に輝きが出てきた。体にも力が漲ってくるように見えた。が、そのうちに、店にパンを 買いに来た近所のおかみさんが、わだしに声をひそめてこう言った。 「こんなこと言っちゃなんだけど、お宅の兄さん、奥沢のほうに女ば囲ってるって聞いた けど : わたしはそれを聞いてびつくらこいた。あわてて手を横にふって、 そりやちがう。独り者の多喜二が女など囲うわけないべし」 「とんでもない ! って言ったら、 「ああそうかい。したら、兄さんの嫁さんかい。えらいきれいな人だっていうじゃない と、独り合点して、よかったよかったと、帰って行ったのね。わだしは、 ( こりやまあ、どうしたもんだろう ) と思ったが、次の日別の人が来て、 「おばさんおばさん : : : 」 と、同じことを聞きに来た。タミちゃんは器量よしだから、街の中におけば目につくが 田舎におけばなおのこと、ばっと評判になった。多喜二に言うと、そのことは多喜二の耳 にも入っていたらしく、 のー みなぎ
しんせき 親戚ば頼って行った先が、函館のほうの森っていう町だった。どういうわけだか、貧工 人の親戚というものは、貧乏な者が多い。タミちゃんの家とどっちこっちの家だ。そこ《 文無しの九人家族がころけこんたわけだから、どうなるかは目に見えているわね。こっ、 は懐かしくて頼りにして行ったが、十五のタミちゃんを頭に、ごしやごしやとたくさん ( ちやわん 子供がころがりこんだ。ものを食べるにも茶碗もないような有様。子供たちは、 「腹減った」 「腹減った」 につ と騒ぎ立てる。それでも、ひと月余りは何とかかんとか凌いだが、もうこれ以上は二 さっち も三進もいかなくなった。 そこで「背に腹は変えられず . というかね、器量よしのタミちゃんに目をつけた周旋〕 むろらん に勧められて、まだ男のことも何も知らないタミちゃんば、室蘭の店に売ってしまった。 でも十五の子供だからというので、初めは客を取らせなかったというけど、親たちはタ、 ちゃんば売った金がなくなると、やれ誰が病気だの、誰が怪我をしただのと、金をせび , 手紙をよこす。その金を主人に都合っけてもらえば、タミちゃんの借金が増える。で、 ミちゃんは無理矢理客を取らされることになってしまった。 可哀相に十五やそこらの娘がねえ。わだしも十三で嫁になったども、売られたのとは、 はこだて しの
おんなじものを着せてやりたい、人の食べてる白い米のまんまを、誰にも彼にも食べさせ てやりたい、人の行く学校に、みんな行かせてやりたい、そう思ったのが、どうして悪か ったんだべ。 そうそう、多喜二がよく言っていた話があったけ。 にんとく 昔々、仁徳天皇っていう情け深い天皇さんがいたんだと。お城の上から眺めたら、かま ぼそぼそ どの煙が、細々と数えるほどしか上がっていなかったんだと。それで天皇さんは、国民は みな貧乏だと可哀相に思って、税金ば取らんようになったんだと。したらば、何年か経っ て見たらば、・ とこの家からも白い煙が盛んに立ち昇っていたんだと。天皇さんは大喜びで、 国民が豊かになったのは、わしが豊かになったのと同じことだって、喜んだんだと。 この天皇さんと、多喜二の気持ちと、わだしにはおんなじ気持ちに思えるどもね。天皇 さんとおんなじことを、多喜二も考えたっちゅうことにならんべか。ねえ、そういう理屈 にならんべか。天皇さんば喜ばすことをして、なんで多喜二は殺されてしまったんか、そ こんところがわだしには、。 とうしてもよくわかんない。学問のある人にはわかることだべ カ それはそうと、末松つあんが大正十三年の八月に死んだ話は、もうしましたね。脱腸の 手術なんかで死ぬとは、夢にも思わんかった。多喜一一が高商卒業して、その年の三月から