権兵衛峠 - みる会図書館


検索対象: 汝! 怒りもて報いよ
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1. 汝! 怒りもて報いよ

「われわれは世俗の警察とは無縁です。警察に干渉さをこすり合わせて啼く。いまに自分もそうなるのだろ とりこ れることはありません。天地のすべてのことは、司祭うか。この男たちの虜になり、幽閉されて、キリギリ 様がお決めになるのです , スが薄い翅をうちふるわせるように、自由のない身体 まだ若い男だった。三十歳前だろうか、ずしりとしをもだえさせて泣くのだろうか。 た信仰心に満ちた声に、京子にはきこえた。 美津子は、司祭を狂人だといった。男たちを狂った 美津子は黙った。 坊主どもだといった。邪淫教だともいった。 車は権兵衛峠を下っていた。深い樹林が続いている。 犯されるのか。 月の光が道を銀色に染めていた。ヘッドライトがそれ体の奥深いところでぶるツとふるえが走った。美津 子はそこまではいわなかったが、たんなる邪宗ていど を割いて行く。 前方に一台の車が走っていた。ワゴンタイプの車だのものなら、美津子はこの深夜に、いのちがけで逃げ った。その車を見たとき、京子は、救けてもらえるか出すことはなかったのではあるまいか。 くろみさ しかし、す邪淫教だというからには、西洋にあるときく黒弥撒 もしれぬと、いちるの希みを抱いた。が、 ぐにそれは絶望の深い淵に消えた。運転をしている男的なセックスを主題とした悪魔宗教ではないのか。 それとも、子供を殺して悪魔を呼び出し、その悪魔 はス。ヒードを落とさなかった。ワゴンにはあの司祭が と交わるという悪魔術の一団なのか。 乗っているのだと京子は気づいた。 深夜にこの権兵衛峠を越す車があろうとは思われな車は権兵衛街道から脇道にそれていた。 カった。かりにあって遭遇したところが、どうにもな 京子の神経は硬直したままであった。車がどこを通 っているのか、それすらも見定めることはできなかっ らないことを思い知った。三人の男が同乗している。 むしかご 虫籠に入れられた夏の虫のように無力であった。 た。恐怖が心眼に蓋をしていた。ヘッドライトが照ら キリギリスを、京子は思った。キウリを与えられてす樹木や道は見えるのだが、それらはただの流れる黒 キリギリスは、夏の間中、捉われの悲しみを、薄い翅と白の線にすぎなかった。女が出現したショックで凍 とら たす はね モチーフ ふた

2. 汝! 怒りもて報いよ

片倉と山沢は車を捨てて、登った。 もし、そうなら、これは容易な相手ではなかった。 それそれが懐中電灯だけは用意していた。 山深くの廃村を買い取り、外界と断絶した生活をし 「君は、乱闘術を知っているかー ているという男女の一団。想像通りなら、その邪教の 出発前に山沢が訊いた。 一団は宗教の仮面をかぶった死臭のにおうひとびとで 「学生時代に柔道と空手をやった。君はどうなんだ」 あるかもしれない。 「おれか。おれのことは、心配するな」 妻がその邪教の一員に。 「心得が、ありそうだな」 片倉は戦慄を感じた。 三州街道を北上して伊那に入り、伊那から権兵衛街「ないわけではない」 それだけ、山沢は答えた。 道に向かった。 寡黙な男だった。山沢の前身を片倉は知らない。弁 伊奈市で腹ごしらえをして入ったから、権兵衛峠に 護士事務所に勤めてから紹介された男であった。知的 登ったのは夜の十時前であった。 車は一台も通っていない。権兵衛街道そのものが自な風貌に秘めた冷たさから想像すると、かなりの過去 を抱いているものと思えた。 動車道ではなかった。かって馬が通った路である。 「行くかー ずれ自動車道として開通するが、いまはひどい険路で 片倉は先に立った。月明が樹林を皓く濡らしていた 9 あった。 天地教の棲む廃村に分け入る路は、さらに荒廃して「いっておくが、今夜は偵察だけだ。君の奥方を確認 、た。路か樹林かわからなかった。村があれば村人がしたら、引き返す。計画はそれから樹てよう」 「わかっている。しかし、もうじきに夜半だ。連中は 道路だけは充分に手入れをするが、その村はすでにな 。廃村には外界との交流を阻む男女が住みついてい寝静まっていよう。どうやって、確認する」 「そいつは、行ってみてからだ , る。路が荒れ放題で雑草に埋まっているのは、とうぜ 「よし んであった。 3 しろ 幻の機関

3. 汝! 怒りもて報いよ

れば、それまでだ。片倉も殺される。 められて、妻ともども狂言者たちの奴隷にされる。そ 鷹が上昇気流に乗って旋回しながら回廊に近づいての光景は、想像するだけでも死に勝る苦痛であった。 きた。翼は動かさないで、ゆっくり昇っている。すぐ 生か死か この最後の闘いには、それしか残され 近くにきて、鷹は山沢と片倉を見下ろした。妖しく炯ていなかった。中間はないのだった。 る金色の眸がみえた。 鷹はいつの間にか遠ざかって小さくなっていた。 「いやな眸だ」 片倉はそれを見ていた。 片倉はそれをみて、つぶやいた。何か呪術的な双眸 にみえた。ふっと、左が鷹に変身してきたのではある京子は足に鎖をかけられていた。鎖は錠でとめられ まいかという気がした。 てある。どうにか歩けるていどの長さの鎖だった。 暗示にかかるな。 歩けようと歩けまいと、もうどうでもよかった。生 片倉は自身にいいきかせた。鷹の眸をみて左の変身還は不可能だった。かりに逃げ出したところで、岩山 を思うようでは、自ら暗示を求めているようなものでの回廊まで辿り着けるかどうか。権兵衛峠の隠れ家と あった。 ちがって、ここは厳重であった。 山沢が左と闘って勝っとはかぎらない。山沢が殺さ権兵衛峠は何軒かの家に男女が分散して住んでいた れる場面もあり得るのだ。そのときは片倉が死力をふが、ここでは一つ家たった。畳を百畳ほど敷けそうな り絞って左と対決しなければならない。それを、闘う大広間に男女三十人あまりが共同生活をしていた。両 前から暗示に陥っているようでは、むもとなかった。 側の壁に木製のダブルべッドが造りつけられている。 いざとなれば、死のう。 夫婦がそのべッドに寝た。夫婦はここでは毎日交替 あらためて、片倉はそのことを思った。山沢が殺さする。女が一つずつべッドを移って交替するのである。 とりこ れて自分だけ擒になるようなことはなんとしてでも避京子だけはべッドが与えられなか 0 た。一人で板の岳 山 けなければならなかった。擒になれば、手枷足枷をは 間に寝かされた。 てかせ ひか 339

4. 汝! 怒りもて報いよ

京子は輪から外れて、突っ立っていた。動くにも足 が凍ってしまっていた。目の前の光景が信じられなか った。この異形の男女の一団と司祭は、何かの幻術を 使ったのだという気がした。まさか、ほんとうに美津 子を生きたまま焼き殺すなどと、そんなわけはない。 何かの幻術だ。ま・ほろしだ。 そもそも、自分が権兵衛峠を登ってきたこと自体、 幻覚ではなかったのか ? 目の前で断末魔の叫びを発 して焼死した美津子に、絶壁の上の道で出遭ったのも いぎ 幻覚なら : この廃村も幻覚だ。そして、ここに囲 よう 繞する異形の僧たちも、すべて幻影か、白昼夢だ。 「消えて。消えて ! 」 京子は顔を両手で覆って、叫んだ。 おそろしい夢魔から逃れようと、京子は両手で顔を 覆ったまま走りだした。周囲に立っ無一言の僧たちは悪 夢が生みだした幻影であった。幻影だが、いまにもわ っと自分に襲いかかって来そうな気がした。

5. 汝! 怒りもて報いよ

よう。夫も山沢も、何人もの警官を殺している。だれ「京子、ちょっと来い 司祭だけは個室にいる。その個室の近くにいる男が、 かに応援を頼むことはできないから、二人で乗り込ん 京子を呼んだ。 でくる。二人でどうにかなる相手ではなかった。 そのときが最期たと、京子は覚悟をしていた。夫た「はい」 ちの死を確認したら、自分も舌を噛んででも、いのち 京子は立った。 その男は水島謙二であった。 を絶っつもりだった。 権兵衛峠から東京の自宅に 戻って息をひそめるようにし ていた京子を、迎えにきた男 である。最初に司祭がやって きて応接間で京子を犯して失 神させた。目醒めてみたら、 別の男が京子に乗っかってい た。それが水島だった。 水島も、高木、吉野と並ぶ 司祭の高弟だった。 京子は黙って水島の足元に うずくまって見上げた。水島 が顎をしやくった。その意味死 はわかっていた。水島は肛門岳 山 性交が好きなのだった。観念 3 引

6. 汝! 怒りもて報いよ

「あたりまえだ , 「権兵衛峠から突き落とされていたよ。大破だ」 「かねは、あるか」 「傷はもういいのかー 山沢は水割りを飲んでいた。 山沢が訊いた。 「まだだ。強引に出てきた。不自由だから、警官が尾「連中は、はしたがねには興味がなかったらしい。か ねは無事だった , 行してきたのを、まくのに苦労した」 「明朝一番にレンタカーを借りよう」 山沢は無造作に答えた。 「誘拐するのか , 「なら、ウイスキーは、よせ」 「そうだ」 「消毒になるだろう」 山沢は深くうなずいた。 山沢は取り合わない。 「車を返しにきたやつをとらえて、殺す。片端から殺 「君は、どうなんだ」 してやるー 山沢が訊いた。 「おれは肩を脱日した。あとは擦過傷だけだ。ところ「いいだろう。おれもそのつもりだ。 憎悪は山沢に負けない。 で、連中は引っ越したぜ , 「だろうね。で、行き先は ? 」 「で、その廃村は燃え落ちたのか」 山沢は、めずらしく、真っすぐに片倉をみた。その 「ああ。最後までは見届けなかったが、魔窟は、たぶ 双眸に小さな炎が宿っていた。 ん、灰になっているだろう」 茅原で別れてからのいきさつを、片倉は説明した。 「痕跡を消すためだな」 「車は、あす、返しにくるのか : : : 」 「だろうな。指紋ゃなにかを調べられることを、おそ跡 き 山沢は、京子が膣に蛇を入れられたことをきいても、れたのだと思うー 驚かなかった。 「うん・ : ・ : 」 山沢はグラスをみつめた。そのままの姿勢で動かな 「君の車は、どうした」 尾 9

7. 汝! 怒りもて報いよ

せた。今朝方、二人で買ったものだった。するどい刃 片倉が先に立った。片倉もナイフを握っていた。そ しんがり を持つ、刃渡り二十センチはあるナイフだ。 の後に高木、吉野、殿は山沢だった。四人は無言で峠 「こいつを投げるおれの腕は、たしかだ。弓にも負けの樹林に踏み込んだ。 ない。逃けたら、背中に突き刺さるぜ」 「ここらで、 いいだろう」 「わかっている 片倉は足を停めた。道路から五百メートルほど離れ 背の高い男が、かすれた小声で答えた。 ていた。樹林の中の、ちょっとした平地だった。 「おまえの名前は ? 」 「そこに坐って、両手を前に出せ」 「高木だ , 山沢が命じた。山沢はポケットから針金を出した。 「そっちは」 それで二人の腕を縛った。二人とも逆らっても無駄だ と悟っているようだった。 「吉野」 「ます、訊く。おれの妻はどうしたー 「高木に吉野か : : : 」 片倉は、高木と吉野の前に立ちはだかった。 高木も吉野も青ざめていた。 「ぶじだー 「この前は、世話になったな」 吉野が答えた。 山沢の口調はおだやかだった。 高木も吉野も答えなかった。 ぶじときいて、ふっと肩からカの脱ける気がした。 片倉は無言で峠を登った。何かをいうと、声がふる「で、どこにいる。おまえたちは、どこへ巣を替え た」 えそうな憤怒があった。 やがて、車は権兵衛峠に着いた。 「知らんー 片倉は峠の頂上で車を停めた。 吉野は、ゆっくり首を振った。おびえに黒ずんだ顔 「降りろ」 だが、妙に目が据わっている。 「そうか」 山沢にいわれて、高木と吉野は黙って車を降りた。

8. 汝! 怒りもて報いよ

片倉は叫んでいた。二人の男は権兵衛峠から人間鳥「また、人間世界に戻ってきたんです」 になって空に消えた、あの高木と、吉野だった。 表情に余裕が戻っていた。 男たちはしかし、身を翻していた。すばやい動作だ「こんどは、何になりたい」 った。一瞬で小径に反転した。片倉は恐怖をお・ほえた。 片倉が訊いた。 そのまま男たちは消え去りそうな気がした。 「できるなら、また鳥に : : : 」 「停まらないと、撃ち殺すぞ ! 」 高木は、苦笑した。 「よし。鳥にならせてやろう」 山沢は拳銃を向けていた。高木を狙って撃鉄を絞っ た。高木の登山帽が飛んだ。 答えたのは、山沢だった。 「どこにでも飛んで行け。そのかわり、鳥になれなか 二人の男はそれで、停まった。 ったら、この場で殺す。覚悟をして羽搏け」 「こっちへ、来い」 山沢は拳銃を向けて、命じた。 片倉は、山沢をみた。もし、またあの奇妙な幻術に 高木と吉野はゆっくり、歩いてきた。 たぶらかされることになっては、元も子もなくなる。 片倉は二人の体を調べた。拳銃を持っていないとも かぎらない。だが、二人とも武器は所持していなかっ危険だと思った。 「心配するな」 山沢はうなずいた。 「妙なところで遇ったな」 「こいつらは、ここで死ぬことになる。鳥にはなれん 山沢は拳銃を下ろした。 「おまえたち、鳥になってヒマラヤ山脈かどこかへ飛さ。もし、鳥になれば、おれは黒い鷹になってこいっ らをみ潰してやる」 死 んで行ったのでは、なかったのか」 「あの節は、どうも 山沢の双眸がぶきみに沈んでいた。冷たい光がある。岳 山 その光が、高木と吉野を見据えていた。 高木がちょっと頭を下けた。 329

9. 汝! 怒りもて報いよ

「いや、なんでもない」 「たぶん、な」 「そうか : ・ : ・」 片倉のいに、山沢は首を振った。 人間鳥が空に浮かぶわけはないのだから、山沢の解「なら、 しし、刀 もう今夜は、引き揚げよう」 釈は正しい。片倉は自分の見た光景を、。ほんやりと追「ああ . 山沢はうなずいた。元気がない。 「あの司祭は、おそるべき男だ。いまの光景を幻術と ホテルに戻った。ホテルは北上川沿いにある安ホテ レ。こっこ 0 いうのなら、やつは幻術使いだ 山沢の声は寒々しくきこえた。 バスを使ってから、片倉は山沢の部屋に出掛けた。 「夜食を : : : 」 九月二十一日。 誘いかけた片倉は声を呑んだ。山沢は血の気のない 片倉と山沢は、盛岡市にきていた。 顔をしていた。べッドに転がっている。片倉をみた双 盛岡駅前に、片倉と山沢は立っていた。二人とも変眸に光がなかった。 「おい、どうしたのだ , 装をしていた。午後から最終列車まで駅付近を見張っ 「ただの熱だ。心配はない , ていた。権兵衛峠から消え失せた高木と吉野は、仲間 「ただの熱だと と盛岡駅で二十二日に落ち合うといった。そのことば が嘘かほんとうかは、判断のしようがない。 片倉は額に触れてみた。炎のように熱い 待ってみるより、しかたがなかった。 四十度前後はありそうに思われた。 「やはり、明日か : : : 」 「待っていろー 跡 山沢が最終列車の乗客を見送って、顔をしかめた。 片倉は部屋を出て、支配人に会って、医師を呼ぶよぎ な 顔色がよくなかった。額にうっすらと汗が滲んでいる。うに交渉した。 日 「どうかしたのか」 三十分後に老人の医師が来た。 183

10. 汝! 怒りもて報いよ

祭の妄想を生んだのか。あるいは、女はその妄想を病「いいわ。でも、わたしは精神障害者でも、狐でもな くてよ 院にいたときから持っていたのか。それで、襲いかか った男が、その妄想の司祭になったのだ。 美津子の声は冷たい。 京子の足が小刻みにふるえていた。精神障害者を乗「わかって、いるわ , ぜているのだと思うと、そらおそろしかった。京子は 京子は、美津子に逆らうことをおそれた。声に熱が 度胸のあるほうではなかった。もし、女が被害妄想に含まれていないのは、精神障害者の特徴ではないのか。 駆られて襲いかかってきたら、どうなるのか。京子は障害のある人は自分を正常だと思い込なというのを、 二十九歳。女は二十五、六歳にみえた。歳も若ければ、きいたことがあった。それに、最近の異常者は話をし 背丈も京子よりある。争いになれば、勝てる見込みは たくらいではそれとわからない場合が多いとも、きい なかった。髪をつかんでねじ伏せられる自分の姿がみていた。経済学者を相手に小一時間も経済展望につい える。 て議論を闘わせた元左官屋の脱走患者の話を、新聞で 「あなた、お名前は ? 」 読んだ記憶があった。 訊ねる声がふるえを帯びていた。 「その ^ 青い天と地の里 > は、どこにあるの」 「多田、美津子よ」 何かを話していないと不安だった。いきなり、わっ 女は京子をみた。計器盤の光を受けて、多田と名乗と襲いかかられそうな気がする。 「たしか、四、五キロ先よ」 った女の瞳がキラッと光った。冷たい瞳にみえた。 「四、五キロ先 ? 」 「そおーーー」 はっきり、声がふるえた。 「ええ、この峠は権兵衛峠でしよう」 「あなた、わたしを、疑っているのね」 「そうだわ」 多田美津子が訊いた。 「だったら、そうよ、 、え、そ、そんなことーーー」 美津子は前方をみたまま答えた。 9 きつね 秘