しゅぎよう での信であります。いわば、これから仏法を学び修行していくための、入門とな るものであって、さとりはどこまでもその後の修行にかかっているわけです。 浄土真宗の信心は、そういう信とは異なり、対象はつねに明確であり、信ずる ひとつで救いが完全になしとげられるのであります。 なにをどう信ずるのか 親鸞聖人は「真実の信心」を明らかにし、信心ひとつで救われることを説かれ ほんがんりきえこう ました。それは、信心は人間の迷い心がつくったものではなく、本願力の回向に よる信だからであります。では真実の信心が仏になる因であるとしたら、信心は その条件であるかというと、けっして条件ではありません。如来は「信じたなら ば救う」といわれるのではなく、「かならず救わねばおかない、わたくしのまこ 六九 浄土真宗の教え しんらんしようにん こと いん によらい
四〇 じりきしようどうもん なんぎよう ので、それにはすさまじい身心の努力を必要とするので、自力聖道門とも、難行 どう 道ともいわれます。 しやくそん しかし、 いつぼうでは、時代は釈尊をへだたることすでに遠く、仏性をもっと はいわれてもこの自分をふかくみつめてゆけば、みがけば光るどころか、皮をめ くるほどみにくい自己の本性に絶望するほかありません。その、もっとも身近な 事実から出発して、そういうわたくしをこそ救わずにはおかぬと働きかける、阿 ほんがんりき 弥陀如来の本願力に救いとられ浄土に生れて仏になるのが、他カ浄土門であり、 いぎ - ようどう 易行道ともいわれます。聖道門、浄土門と道はちがっていても、迷いをはなれて 仏になることを目ざす点においては、いずれもちがいはありません。 ことに浄土門は、わたくしたちのような愚かなものも悪人も、如来の本願力に 、もんこ よって平等に救われていく点において、すべての人類に門戸をひらいて釈尊の真 だいじようぶつぎよう 意を伝えてゆきました。その大乗仏教ーー・・浄土門という、仏教の幅と深さの展 ぶつ ぶっしよう
六〇 くおん しまさぬ」この久遠の仏である法性法身が、迷いの世界にむかって動きだし、わ しゅじよう たくしのおろかな心をめざめさせ、迷いの衆生を救おうとして、仏になられたの あみだによらい が、阿弥陀如来であり、この如来を方便法身と、 しいます。 すなわち、阿弥陀如来は、わたくしたちを救ってくださる真実の救主であり、 しやくそん 釈尊は、この阿弥陀如来の救いを説いて、如来の本願を信ぜよとすすめてくださ しんらんしようにん る、歴史のうえにあらわれた教主であります。親鸞聖人は「釈迦・弥陀は慈悲の 父母」 ( 和讃 ) といわれましたが、阿弥陀如来は救いの母であり、釈迦如来は教 えの父であるといえましよう。 救わずにはおかぬ本願 だいむりようじゅきよう あみだによらい さてこの『大無量寿経』には、阿弥陀如来の本願が説かれています。わたくし ほっしようほっしん ほうべんほっしん
二四八 らいはいちょうもん 〇わたくしたちの盆は、礼拝と聴聞を大切にします。家庭の仏壇だけでなく、 必ずお寺に参詣しましよう。 〇大体において関東では七月、関西では八月の十五日を中心につとめられ、こ のときは遠くはなれている家族たちも、故郷に帰っていく習慣があります。 もくれんそんじゃ うら・ほんえ ばんえ 〇盆会は盂蘭盆会を略したもので、釈尊の弟子目連尊者の母が、仏法によって かんぎえ 餓鬼の世界から救われたという故事からおこったといわれており、歓喜会とも しいます。また盆おどりも、目連尊者が、その母の救われたことを躍りあがっ てよろこんだ姿に由来するともいわれています。 お取りこし報恩講 〇一月の御正忌報恩講には、門徒・僧侶ともども本山に参拝するのがたてまえ なので、一般の寺院では取りこして一月以前につとめます。「おとりこし」「お そうりよ しやくそん おど
ます。 どんなばあいでも、ひとつのことが完成するには、「、 原し」と「実行」がとも なわねば、できあがりません。いま、ひとりの人間が救われて、さとりをひらき がんぎよう 仏になるという一大事にあたっても、やはりそれに相応する願と行とが必要であ ります。けれどもわたくしたちは、そのような願や行を、どうしておこすことが なも できましようか。それがとうていおぼっかないわたくしにむかって、願 ( 南无 ) 、 行 ( 阿弥陀仏 ) を、ともにそなえた完全なすがたとなって、はたらきかけてくだ さるのが如来の本願力すなわち他力であり、このはたらきがわたくしに恵まれる たりきえこう ことを「他力回向」というのであります。 浄土真宗の教え
開の頂点に立たれたのが、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人であります。 ぎよう きようしゅしやくそん 教主釈尊からこのわたくしにまで教えがとどくには、二千五百年もの時間と、 幾千キロの距離をとおして、無数の高僧や先覚の信者たちの努力が、つみ重ねら れてきました。そういう先輩たちのなかから、親鸞聖人はとくに七人の高僧をえ しようしんげ こうそうわさん らんで、教えの師と仰いでゆかれました。「正信偈」や「高僧和讃」にうたわれ りゅうじゅだいじてんじんばさっ どんらんだいしどうしやくぜん ている七高僧がそれで、インドの竜樹大士、天親菩薩、中国の曇鸞大師、道綽禅 じ・せんどうだいし げんしんかしようげんくうしようにん だいじようぶつ 師、善導大師、日本の源信和尚、源空上人です。この七高僧はいずれも、大乗仏 教・浄土門の教えを正しく伝え、多くの著書をのこされました。なかでも七番目 の源空上人は、別の名を法然上人とも、 しいますが、親鸞聖人は直接にこの源空上 釈尊とその教え しちこうそう 七高僧 ほうねん しんらんしようにん 四一
〇中陰は、命日から数えて四十九日の期間のことであって、その間、七日目ご まんちゅういん しいます。 とに仏事をつとめ、四十九日目を満中陰と、 はつがっき 〇死亡の翌月の命日を初月忌といい、 また百か日にも勤行をいたします。 そうじよう ひや しゅうこっ ちゅう しずかに唱和してください。 しゆっかん 出棺勤行 葬場勤行 火屋勤行火葬にするとき 収骨勤行遣骨を拾うとき かんこっ 還骨勤行遣骨をもちかえったとき 中 作法と行事 陰 さんばうげ 帰三宝偈 しようしんげそえびぎわさん 正信偈・添引和讃 げ 重誓偈 ぶつ 讃仏偈 ぶっせつあみだぎよう 仏説阿弥陀経 御文章 ( 白骨章 ) じゅう さん 二五九
したので、延暦寺もそれで一応なっとくし、さいわい事なきをえました。しかし せんじゅねんぶつ 翌年になると、こんどは奈良の興福寺から専修念仏を禁止するよう、九ケ条の奏 じようもんちょうてい 上文を朝廷にさしだしたので、ついに念仏を禁じ、教団を解散せよという命令 が出されたのであります。 しようどうもん 、よう・ほう 「聖道門の諸寺の僧侶たちは、教法にくらくて真仮の別があることを知らず、 ぎようほうせいじゃ こういうわけで興福寺の学 都の学者たちも、行法の正邪の区別をわきまえない。 としちゅう だじようてんのうごとば しようげんひのとう きんじようてんのうっちみかど 僧たちは、太上天皇 ( 後鳥羽 ) 今上天皇 ( 土御門 ) の御代、承元丁卯の歳、仲 春上旬のころに奏達した。主上も臣下の者も、正しいおきてによらず正義に違っ うら ぎようぎようしんしよう て、怒り怨みの心を起こした」と、『教行信証』の後序に激しい調子でしるし てあります。 しゅん 親鸞聖人の生涯とその後 えんりやくじ そうだっ そうりよ しんけ ごじよ みよ たが そう
「すぐ、その夜明けに六角堂をお出ましになり、後世のたすかるご法縁にあわ よしみずそうあんげんくうしようにん せていただくためお訪ねあそばして」吉水の草庵で源空上人に会われたのであり ます。それから聖人は、 親鸞聖人の生涯とその後 うに祈念あそばされましたら、九十五日目の明け方、夢の中で、聖徳太子が偈 もんとな ごせ 文を唱えられて、後世の問題を解決する道をお示しくださいました。後世のこ とは、よき人にもあしきにも同じように迷いをはなれる、ただ一つの道であ りようげ・ る」 ( 恵信尼文書 ) ことを領解せられたのであります。 ・せかんのん つまり聖人は、この救世観音のお告げから、これまで悶えつづけてきた問題 に、ひとつの示唆を感じとられたのでありましよう。 よき師にあ一つ たず ごせ ほうえん
力いとうしゃ 一四四 しんぎ 代表者は、聖人に会って真偽を問いただそうと、はるばる十余ヶ国の境を越えて ・せんらん 上京してきました。その人たちに対して聖人は、善鸞のいう密伝のうわさを否定 するとともに、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし しさい と、よきひとの仰せをこうむりて信ずるほかに別の子細なきなり」 ( 歎異抄 ) と、 ご自身の信念をあきらかにされました。 つぼう善鸞は、その野望がなかなか果たされそうもないことを知ると、たま じんぎ たま鎌倉幕府が、神祇や諸仏を軽んじたり、人倫の秩序を乱すといって、念仏者 を取り締っているのにつけこんで、自分の意志にそわない有力な門弟たちをその しようしんばうにゆうしんぼう 該当者として訴え出たのです。その結果、性信房や入信房などがとらえられ、重 大な事態におよんだことを知られた聖人は、 しもつけひたち ク親について無実のことをいいふらし、下野や常陸の念仏者を動揺させ、幕府 ろくは 4 り や六波羅に訴えた罪は許せないク しんらん じんりん