同じ - みる会図書館


検索対象: 海と毒薬
42件見つかりました。

1. 海と毒薬

136 「今日は何か , 横あいから何時ぞや研究室にほまれを持ってきた丸く肥った軍医が指で自分 の坊主頭を指さして「ここを切るんか」 「脳の摘出はやりません。明日、権藤教授と新島助手とが別の捕虜に実験なさるそうです , 「すると、君らは肺だけか」 「はあ。軍医殿には申し上げるまでもありませんがね、他の将校の方たちには御参考までに 御説明しておきましよう。本日の捕虜にたいする実験は簡単に申しますと : : : 肺外科に必要 な肺の切除がどの程度まで可能か、どうかを調べることにあります。つまりですねえ。人間 薬 の肺はどれだけを切りとれば死んでしまうか、この問題は結核治療にも戦争医学にとっても 毒長年の宿題ですから、捕虜の片肺の全部と他の肺の上葉を一応、切りとってみるつもりです。 要するにです : 浅井助手の甘ったるい声が手術室の壁に反響してキンキンと響いている間、おやじは背を 海 まげてじっと床を流れる水を見おろしていた。その落ちた肩が妙にうすくわびしかった。 からだ 大場看護婦長だけが無表情な顔でマーキュロ・クロームを手術台に横たわった捕虜の驅に ぬりつづけている。薬液が太い首や、栗色の毛の密生した厚い胸や乳首の上を赤く染めてい くにつれ、まだぬられていない、 少し凹んだ腹部の白さがうかび上ってくる。戸田は今はじ めてのようにこの捕虜が白人であったこと、日本軍に捕えられた米国の兵士であったことを、 今はじめて、その金色のうぶ毛のはえた白い広い腹を見ながら考えていた。 「よか気持で寝とりますやなあ。奴さん」緊張した空気をほぐすためか、背後の将校の一人 ごんどう やっこ にいじま ほか

2. 海と毒薬

でくるが、そんな雰囲気のなかで、銭湯が遠くて困るとか、義妹の結婚式が近づいたとかい ききよう った、「私」の何の変哲もない日常生活が進行する。そして、ふとある日、「私」は気胸に通 っている近所の無愛想な医者が、事件の当事者の一人だったことを知るのである。何気ない 日常生活の軌道のすぐわきに、ふと気がつくと、ポッカリ暗い穴が口をあいている。平凡な しんえん 日常性がそのまま不気味な深淵へと道がつながっている。こうした導人部は、グレアム・グ ざっとう リーンのお得意の手法で、人出でにぎわう海水浴場の雑沓や、のどかな慈善バザーのくじ引 き場が、たちまち恐るべき犯罪の場になり変ったことを読者は思い出されるだろうが、『海 と毒薬』の冒頭の不気味な不意打ちの効果もそれに劣るものではない。い や、たんに不意打 ちではないので、作者は注意深く伏線をはりめぐらしている。銭湯で顔を合わすガソリン・ スタンドの主人が、頭にシャポンをつけたまま中国での暴行の思い出をしゃべり出したり、 近所の洋服屋が元憲兵だったりする。数年前に残虐な暴力をふるった男たちが、そ知らぬ顔 で、いや当人にはその意識すらなくて、平和な日常生活に立ちもどっているのだ。とくに効 果的なのは、冒頭からさり気なく描きこまれた洋服屋のショーウインドーの「白人の男子人 なぞ 形」である。「謎のような微笑」をうかべて、店先に立っているこの人形は、くり返し現わ うつ れて、不吉な予兆のような役割を果す。動かぬ空ろな微笑は、「スフィンクス」のように、 たび たちま その度に、微妙な陰影を深めてゆく。四たび、この人形が姿を現わすや、ばくらは忽ちあの 不気味なドラマの中核へと、じかに連れこまれるのである。 もっともその際でも、作者は用心深く、周囲の日常的な条件から描き始めてゆくことを忘