163 戸田は眼をあげて真黒な空を眺めた。あの六甲小学校の夏休み、中学の校庭にたたされて いた山口の姿、むし暑かった湖の夜、薬院の下宿で小さな血の塊をミツの子宮からとり出し た思い出が彼の心をゆっくりと横切っていった。本当になにも変らず、なにも同じだった。 「でも俺たち、いっか罰をうけるやろ」勝呂は急に体を近づけて囁いた。「え、そゃないか。 罰をうけても当り前やけんど」 「罰って世間の罰か。世間の罰だけじゃ、なにも変らんぜ」戸田はまた大きな欠伸をみせな がら「俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰 する連中かて同じ立場におかれたら、どうなったかわからんぜ。世間の罰など、まずまず、 毒そんなもんや」 だが言いようのない疲労感をおばえて戸田はロを噤んだ。勝呂などに説明してもどうにも あきら なるものではないという苦い諦めが胸に覆いかぶさってくる。「俺はもう下におりるぜ」 海 「そやろか。俺たちはいつまでも同じことやろか」 勝呂は一人、屋上に残って闇の中に白く光っている海を見つめた。何かをそこから探そう とした。 ( 羊の雲の過ぎるとき ) ( 羊の雲の過ぎるとき ) 彼は無理矢理にその詩を呟こうとした。 ′」と ( 蒸気の雲が飛ぶ毎に ) ( 蒸気の雲が飛ぶ毎に ) つぐ
く罪を責める良心の眼でもなかった。同じ秘密、同じ悪の種をもった二人の少年がたがいに かしやく 相手の中に自分の姿をさぐりあっただけにすぎぬ。ばくがあの時、感じたのは心の苛責では なく、自分の秘密を握られたという屈辱感だったのだ。 この子はだれとも遊ばなかった。休み時間に皆がドッチ・ポールをしていても校庭の隅に あるプランコに靠れてじっとこちらを眺めているだけだった。体操の時も首に白い繃帯をま いて見学をしている彼の姿が遠くから見えた。組の者から話しかけられても「イヤだ」とか 「うん」とか弱々しく答えるのである。ばくと同じように髪の毛を伸ばし、都会風の洋服を 薬 着ていても力も強くなく勉強もあまり出来ないことがわかると皆はこの女の子のように青白 おそ 毒い彼を迦にしはじめる。ばくもやがて彼を怖れなくなり、あの日の恥ずかしさも怒りも忘 れていった。 そんなある日、彼は組にいる百姓の子供たちからイジメられた。放課後の当番が終ったあ 海 と、校舎を出て帰ろうとしたばくは、運動場の砂場で、マサルとススムという子が彼の髪を 引張っているのを見た。はじめはあの子もたちむかっていたが、やがて体を突かれて砂の中 けんか に仰むけに倒れた。たち上る所をまた転がされる。それを眺めながら、ばくは喧嘩をとめよ かわいそう うという気も起きなかったし、あの子を可哀想とも思わなかった。いや、むしろマサルやス なぐ しとさえ、考えていたのだ。 スムかもっと撲ればいい、髪の毛を引っぱればいゝ 教師の影が不意に校舎の窓から見えなかったら、ばくは運動場にたったまま、しばらくこ の争いを眺めていただろう。だがその影・が廊下を渡り運動場に出てくるのがわかると、ばく もた すみ
答えた。「あの時の記事を見せてもらえませんかー 「紹介状は持っとられますか , 「イヤ、それがないんです , 三階の資料課の隅で私は一時間ちかく当時の新聞記事を読ませてもらった。 それは戦争中、ここの医大の医局員たちが捕虜の飛行士八名を医学上の実験材料にした事 件だった。実験の目的はおもに人間は血液をどれほど失えば死ぬか、血液の代りに塩水をど れほど注入することができるか、肺を切りとって人間は何時間生きるか、ということだった。 薬 解剖にたち会った医局員の数は十二人だったが、そのうち二人は看護婦である。裁判ははじ 毒めは市で、それから横浜で開かれている。私はその被告たちの最後の方に勝呂医師の名を みつけた。彼がその実験中何をやったかは書いていない。当事者の主任教授はまもなく自殺 し、主だった被告はそれぞれ重い罰をうけていたが、三人の医局員だけが懲役二年ですんで 海 いた。勝呂医師はその二年のなかにはいっている。 資料課の窓から古綿色の雲が低くこの街を覆っているのがみえた。私は時々、記事から眼 をあげ、その暗い空を眺めた。新聞社を出てからは私は街を歩いた。小雨が斜めに顔に当る。 。雨にしっとりと濡れた歩道を青や赤 車や電車が東京と同じような騒音をたてて動いてい くすぐるよ 珈琲店からは甘い、 など色とりどりのレインコートを着た娘たちが歩いていく。 うな音楽がきこえてくる。江利チェミがこの街に来ているのか、彼女のロをあけた笑顔が映 画館の壁に飾られていた。 すみ こ . さめ
ゞおどけた声をあげた。「もう、あと半時間もすりや、こいっ殺されるとも知らん : : : 」 殺されるというその一一一一口葉が戸田の胸にうつろに響いてはねかえった。殺すという行為は、 まだ実感として心にのばってはいなかった。人間を裸にする。手術台の上にのせる。麻酔を かける。そうしたことは学生のころから今まで、幾度となく患者にやってきたことである。 つぶや 今日だって同じこと。やがておやじが「礼」とひくい声で呟き、解剖の開始をつげるだろう。 はじ はさみ 鋏やピンセットがカチ、カチと響き、電気メスが乾いた弾けるような音をたててこの栗色の だえんけい 毛に覆われた乳首のあたりを楕円形に切りはじめるだろう。だが、いつもの手術や解剖とそ 薬 れは何処がちがうのだ。無影燈のまぶしい青白い光も、海草のようにゆっくり動いている白 毒い手術着をきた人間たちの姿も自分には長年、見馴れてきたものである。天井をむいてじっ と横たわっているこの捕虜の姿勢だって普通の患者たちと少しも変りはしない。殺すという せんりつ 戦慄は戸田の心にすこしも湧いてはこなかった。すべてが事務的に機械的に終ってしまうよ 海 うな気がしてならなかった。彼はのろのろとカテーテルの細い管を捕虜の鼻孔にさしこんだ。 先端の赤らんだ高い白人の鼻である。これに酸素吸入器をつければ準備は終るのだ。エーテ いびき ルの麻酔はもうすっかり効いたのであろう、捕虜は管の間から小さな鼾をかいて眠っていた。 草色の作業ズボンに包まれた脚と両手を厚い皮帯でしつかりと縛られて、彼は周りの者の視 くちびる 線を受けながら天井をむいている。唇のまわりにはかすかな微笑さえ漂っているように思わ れるほどうっとりとしたその表青だった。 「はじめますかな」 137
か。まさか、あれじゃなかろうな。ちと早すぎると思うばって : : : 」と一一一口うのでした。一日 中船室の丸窓から東支那海の黒い海面が、浮んだり、沈んだり、傾いたりします。その海の 動きをばんやり眺めながら、わたしはあああこれが結婚生活なんだと考えたものです。 四日目の朝、大連港につきました。雨が石炭を入れた倉庫の屋根を濡らしています。ピス トルを腰につけた兵隊に怒鳴られながら支那の苦力が痩せた四肢をふんばって大きな大豆袋 を肩に背負い船に登ってきます。「あいっ等、ピアノでも二人で運ぶんだぜ」丸窓に顔を当 てているわたしの耳もとで夫が指さしました。 ふとう 薬 耳の長い驢に引かせた馬車が幾台も埠頭で客をまっていました。「驢馬じゃなか。満洲 みち 毒馬たい。市にくる前、四年間もこの大連の本社勤務をしていた彼は港から社宅にむかう路 やまがた すじで得意そうに説明しました。「これが山県通り。あれが大山通り。大きな路はみな日露 戦争の時の大将の名ばつけとる」 海 「支那人とっき合うこと、あるん ? 、わたしは不安そうに夫の汗ばんだ指を握りしめ、この 男よりこの街で頼る人はいないのだと自分に言いきかせました。 たち わたし達の家は大連神社のすぐ近くにありました。冬の寒いこの街には木造家屋はありま せん。わたし達の家も黒ずんだ煉瓦で建てられた小さな平屋で、周りには全く同じ形をした だんぼう 社宅が数軒ならんでいます。部屋数はおのおの二つしかなかったが壁にはペチカという煖房 の設備がとりつけてあるのが面白うございました。 はじめの頃、わたしはこの植民地の街をめずらしく思いました。手入れの行き届いたアカ
108 「ほんまに世話やかしよって。マサル。ススムもお前も少しは級長のマネをせい。級長の しか 級長とはぼくのことだった。なにも知らぬ教師が彼等を叱りつけている間、あの子は黙っ かばん て頬の砂を落し、地面に落ちたズックの鞄をひろい、まるで他人ごとのように一人で帰って っ一」 0 し / 翌年の春、この若林は転校した。あの日と同じように教師が首に白い繃帯をまいた彼を教 壇に連れていった。あの日と同じように彼は白墨で黒板に足尾という字を書いた。 薬 「ヨシマサ。足尾とは、どういう町かね」 「トミオ」 「銅 : : : 銅のとれるところ」 海 「そうだね。この間、お友だちになったのに、若林クンはまた、お父さんの都合で足尾に行 くことになりました。だから明日からこの組にはいなくなる」 こんな日には教師は急にやさしくなるものだ。ばくはこの子が行く銅のとれるという町を はげやま おも 心に想いうかべた。その町は小さな禿山にかこまれ、黒い煙突の煙が空をよごしている。そ の間、彼は女の子のように眼を伏せて床をみつめていた。 「戸田クン。皆を代表してサヨウナラを言いなさい」と教師は言った。 「さようなら、若林君」 ひと
100 しいことでした。 しまいか、どうでも ) 「部長先生はそのこと、ヒルダさんに打明けたかしら」 「冗談じゃないよ。君も誰にもしゃべっちゃ、いけないよ あの夕暮、看護婦室で神さまがこわくないかと叫んだヒルダさんの言葉を思いだして、わ たしは微笑しました。それは少し勝利の快感に似ていました。自分の夫がやがてなにをする ゝ。けれども、わたしは知っています。 かヒルダさんは知らなし 「そうね。聖女みたいなヒルダさんではまさか、部長も打明けられないわね」 薬 その夜、浅井さんにだかれながら、わたしは眼をあけて太鼓の音のような暗い海鳴りを聞 よみがえ 毒いていました。ヒルダさんの石鹸の香りがまた蘇ってきました。彼女の右手、うぶ毛のはえ はだ とた西洋人の女の肌、あれと同じ白人の肌にやがてメスを入れるのだなとわたしは考えました。 「白人の肌って切りにくいかしら , 海 「馬鹿な。毛唐だって日本人だって同じだよ」寝がえりをうって浅井さんは呟きました。 わたしはもし、自分があの大連で赤ん坊を生んでいたならば、夫とも別れなかったろうし、 自分の人生もこれとはちがったことになっただろうと、ばんやり考えたのです。 医学生 なだ 昭和十年ごろ、神戸市灘区の東はずれにある六甲小学校で髪の毛を長く伸ばしている男の
ほ′」り・ すべてがだらしなく乱雑になってくる。破れた窓にも廊下にも白い埃がたまり、附添婦たち は仕事を怠り、患者も安静を守らなくなった。 「日本もこの第一外科も、もうガタガタやな」戸田は火のない部屋の中で足ぶみをしながら じちょう 自嘲する。「もう、なるようになれ。お前も早く見習医官になってこんな所、出てしまえ」 「なるようになれ、か」勝呂は眼をしばたたきながら「俺あ、もうどうでもよいんや。それ にしても、お前あ、どうして短期現役を志願せん」 はず 医学部の研究員は短期現役に志願すればみじかい訓練の後、見習医官になれる筈だった。 薬 「だれ ? 俺が ? 」戸田は例によってうすい嗤いを口にうかべた。「いやだよ」 毒「でなければ二等兵やろ」 「その時はその時や。俺は兵隊で死んで結構なんや」 「なぜや」 海 「何をしたって同じことやからなあ。みんな死んでいく時代なんや」 その頃、勝呂はもう一度、トラックで運ばれたアメリカ人の捕虜を、第二外科の入口で見 けんじゅう た。二人の若い兵隊があの時と同じように拳銃を腰にさげて車のドアにたっていた。勝呂が その前を通りかかった時、捕虜たちは芋を片手で齧りながらトラックに乗りこむ所だった。 彼等は自分たちの高い背丈や手脚よりも更に長い、だぶだぶとした作業衣を着せられている。 まつばづえ その中の一人は松葉杖をついていた。 かれら わら
「ガべット液が足りんのや」 勝呂は同じ研究生の戸田と話をする時は何時も片言の関西弁を使う。学生時代からいつの 間にか二人の間ではそういう習慣が作られていた。昔はそれも彼等が自分たちの友情を暗黙 ふちょう のうちに証明する符牒だったのだ。 「だれの痰や、それは ? 「おばはんーーの」と答えて勝呂は顔をあからめた。戸田が葡萄糖の白い粉のついた唇の周 りに皮肉な嗤いを浮べてこちらを見詰めているのに気がついたからである。 「なんやと。まだお前」戸田はわざと驚いたように声をあげて、 せりよう 「やめとけよ。何時までお前あんな施療患者の面倒をみるねん」 「面倒みるわけや、ないねんけど」 むだ ステル 「けどどうせ死ぬ患者じゃないか。ガべット液を使うだけ無駄やで。 けれども勝呂は眼をしばたたきながら痰を染色しはじめた。硝子板の間で火にあぶられた おばはんの痰が卵焼の茶色い縁のようにくつついていた。その痰のむこう側に勝呂はこれと かのじよ 同じように茶色くしなびた彼女の細腕を思いうかべた。戸田の言う通りなのだ。あの女はも あか う十カ月は保たないだろう。毎朝、臭気のこもった大部屋に行くたびに、垢じみた布団に身 を横たえているおばはんの眼に光が次第に消えていくのを彼はとうから気づいていた。 あれは門司が空襲で焼かれた時、この街に妹を頼って逃げてきた患者である。街にいって みるとその妹も家族と共に行方不明になっていた。警察からこの大学病院に施療患者として もじ わら かれら ふとん
にとったり、 体操の時間の運動パンツを忘れたことを心配しただけだった。 こんな経験はいくら列記しても仕方があるまい。程度の差こそあれ、これと同じような本 質をもった行為はばくの幼年時代から少年時代をほじくれば幾つでも並べることができるの だ。ばくはただ、その中から目だったものの一つ、二つ思いだしたにすぎぬ。 ) 間、ばくは自分が良心の麻痺した男だと考えたことはなかった。良心の苛 そのくせ、長し 責とは今まで書いた通り、子供の時からばくにとっては、他人の眼、社会の罰にたいする恐 もちろん 薬 怖だけだったのである。勿論、自分が善人だとは思いもしなかったが、どの友人も一皮むけ 毒ば、ばくと同じだと考えていたのだ。偶然の結果かも知れないがばくがやった事はいつも罰 をうけることはなく、社会の非難をあびることはなかった。 と なにわ かんつう たとえば姦通という罪がある。この罪だってばくは五年前、浪速高校の理科にいた年頃で 海 既に犯していたのだ。それなのに、ばくはそのために傷つくことも裁かれることもなく平然 れん として生活している。一人の医者の卵として毎日、研究室に通い、患者を診察している。憐 びん 憫も同情心もばくは病人に持ったことはないのだが、その病人たちから平気で「先生。とよ ばれて信頼されているのだ。 あの姦通を犯した時もばくは決して自分が破廉恥漢だとも裏切者だとも思わなかった。多 けんお 少の後ろめたさ、不安や、自己嫌悪はあったが、それもこの秘密がだれにも嗅ぎつけられな いとわかると、やがて消えてしまった。ばくの良心の苛責は長く保ってもせいぜい一カ月ぐ 115 まひ とし′」ろ