三、第三捕虜に対しては肺を切除し、その死亡までの気管支断端の限界を調査す。 執刀、橋本教授柴田助教授 第一助手浅井宏 第二助手戸田剛 第三助手勝呂二郎 薬 第一捕虜にたいして行う実験は戦争医学にどうしても欠くべからざる要請だった。普通、 じようりゅうすい 毒血液に代用される生理的食塩水は蒸溜水一〇〇に対して食塩を〇・八五 % 混合したもので ある。この代用血液を輸血を必要とする患者にどの程度まで注入することができるか、これ ふめいりよう は人体を対象とした場合、まだ不明瞭なのである。大体二リットルや三リットルは大丈夫と 海 言われているがそれ以上はわかっていない。 うさぎ 第二捕虜にたいして行う実験は空気を血管に注人するものなのだが、兎の場合は五 o o の 空気を人れただけで即死してしまう。しかし人体にたいしてはどうか。 第三捕虜にたいする実験こそ肺の外科医がどうしても知りたい門 ロ題である。成形手術より 更に望ましい肺の切除療法は東北大の関口博士や大阪帝大の小沢教授によって行われたこと があるが、問題の一つは気管支の端をどの程度まで切ってよいかと言うことである。 勝呂はこの予定表を見ながら第一実験と第二実験はおやじではなく、柴田助教授の提案な
答えた。「あの時の記事を見せてもらえませんかー 「紹介状は持っとられますか , 「イヤ、それがないんです , 三階の資料課の隅で私は一時間ちかく当時の新聞記事を読ませてもらった。 それは戦争中、ここの医大の医局員たちが捕虜の飛行士八名を医学上の実験材料にした事 件だった。実験の目的はおもに人間は血液をどれほど失えば死ぬか、血液の代りに塩水をど れほど注入することができるか、肺を切りとって人間は何時間生きるか、ということだった。 薬 解剖にたち会った医局員の数は十二人だったが、そのうち二人は看護婦である。裁判ははじ 毒めは市で、それから横浜で開かれている。私はその被告たちの最後の方に勝呂医師の名を みつけた。彼がその実験中何をやったかは書いていない。当事者の主任教授はまもなく自殺 し、主だった被告はそれぞれ重い罰をうけていたが、三人の医局員だけが懲役二年ですんで 海 いた。勝呂医師はその二年のなかにはいっている。 資料課の窓から古綿色の雲が低くこの街を覆っているのがみえた。私は時々、記事から眼 をあげ、その暗い空を眺めた。新聞社を出てからは私は街を歩いた。小雨が斜めに顔に当る。 。雨にしっとりと濡れた歩道を青や赤 車や電車が東京と同じような騒音をたてて動いてい くすぐるよ 珈琲店からは甘い、 など色とりどりのレインコートを着た娘たちが歩いていく。 うな音楽がきこえてくる。江利チェミがこの街に来ているのか、彼女のロをあけた笑顔が映 画館の壁に飾られていた。 すみ こ . さめ
れようが同じことですな。エーテルはかけてもらえるんだから眠っている間に死ぬようなも んだ」 どうでもいい。俺が解剖を引きうけたのはあの青白い炭火のためかもしれない。戸田の煙 草のためかもしれない、あれでもそれでも、どうでもゝ しいことだ、考えぬこと。眠ること。 考えても仕方のないこと。俺一人ではどうにもならぬ世の中なのだ。 眠っては眼があき、眼があくとまたうとうとと勝呂は眠った。夢の中で彼は黒い海に破片 のように押し流される自分の姿を見た。 薬 あの日から戸田と勝呂とは研究室で顔を合わせても視線をそらせてしまう。二人でかわす うず 毒話題もその渦に巻きこまれようとすると、どちらかが急に話を変えてしまった。なぜ自分が こわば 助教授の申し出を承知したのかも互いに打明けなかった。話題がっきると彼等は強張った顔 で黙々と仕事にとりかかった。 海 解剖予定の紙が前日になって、ひそかに浅井助手から、二人に渡された。実験は捕虜を三 名、使う。この解剖を第一外科が担当することになっていた 解剖と実験の過程は次の通りである。 一、第一捕虜に対しては血液に生理的食塩水を注入し、その死亡までの極限可能量を調 査す。 二、第二捕虜に対しては血管に空気を注入し、その死亡までの空気量を調査す。
わけ、なん、やと語尾に力を入れてゆっくりと発音すると、戸田は煙草の煙を得意そうに プウッと吐きだした。 」み′べ 神戸のある医者の息子として生れた戸田は学生の頃から、田舎者の勝呂にこうした医学部 けむ 内の複雑な人事関係や学閥の秘密をよく教えては煙にまくのだった。「医者には甘っちょろ うれ いセンチなど禁物やぜー勝呂が眼をしばたたいて悲しそうな顔をすればするほど、戸田は嬉 しそうな顔をする。「医者かて聖人やないぜ。出世もしたい。、教授にもなりたいんや。新し い方法を実験するのに猿や犬ばかり使っておられんよ。そういう世界をお前、もう少しハッ 薬 キリ眺めてみいや」 毒「それでお前、その手術の検査、命ぜられたんか」勝呂は椅子に腰をおろして眼をつむった。 先ほど廊下で感じた疲れがまた出てきた。「どうもよう、わからん」 「なにが ? 」 アスプ朝 海 「おばはんは柴田助教授の実験台やし、田部夫人はおやじの出世の手段や」 「あたり前やないか。それがなぜ悪いねん。第一、お前、なんでおばはんばかりに執着する ねん」戸田は当惑した勝呂の顔を嬉しそうに眺めた。「え、なぜ悪いねん」 「俺には都合よう言えんけど : : : 」 「患者を殺すなんて厳粛なことやないよ。医者の世界は昔からそんなものや。それで進歩し たんやろ。それに今は街でもごろごろ空襲で死んでいくから誰ももう人が死ぬぐらい驚かん のや。おばはんなぞ、空襲でなくなるより、病院で殺された方が意味があるやないか」 さる
136 「今日は何か , 横あいから何時ぞや研究室にほまれを持ってきた丸く肥った軍医が指で自分 の坊主頭を指さして「ここを切るんか」 「脳の摘出はやりません。明日、権藤教授と新島助手とが別の捕虜に実験なさるそうです , 「すると、君らは肺だけか」 「はあ。軍医殿には申し上げるまでもありませんがね、他の将校の方たちには御参考までに 御説明しておきましよう。本日の捕虜にたいする実験は簡単に申しますと : : : 肺外科に必要 な肺の切除がどの程度まで可能か、どうかを調べることにあります。つまりですねえ。人間 薬 の肺はどれだけを切りとれば死んでしまうか、この問題は結核治療にも戦争医学にとっても 毒長年の宿題ですから、捕虜の片肺の全部と他の肺の上葉を一応、切りとってみるつもりです。 要するにです : 浅井助手の甘ったるい声が手術室の壁に反響してキンキンと響いている間、おやじは背を 海 まげてじっと床を流れる水を見おろしていた。その落ちた肩が妙にうすくわびしかった。 からだ 大場看護婦長だけが無表情な顔でマーキュロ・クロームを手術台に横たわった捕虜の驅に ぬりつづけている。薬液が太い首や、栗色の毛の密生した厚い胸や乳首の上を赤く染めてい くにつれ、まだぬられていない、 少し凹んだ腹部の白さがうかび上ってくる。戸田は今はじ めてのようにこの捕虜が白人であったこと、日本軍に捕えられた米国の兵士であったことを、 今はじめて、その金色のうぶ毛のはえた白い広い腹を見ながら考えていた。 「よか気持で寝とりますやなあ。奴さん」緊張した空気をほぐすためか、背後の将校の一人 ごんどう やっこ にいじま ほか
おも のだなと考えた。頬肉のおちた助教授の顔を彼は眼をしばたたきながら想いうかべた。 明日、実験が行われるという日の夜がきた。勝呂はなぜと言うこともなく、抽出しを整理 し、机の上を片づけた。戸田は煙草をのみながら、それをジッと見詰めていた。 「俺もう、帰るさかい と勝呂は言った。 「ああ」 と戸田はうつろな声で答えた。 薬 「さよなら 毒「待てや : : : 」 突然、戸田が戸口の方に歩いていく勝呂をよびとめた。 「なんやー 海 「坐れよ、まあ」 あざけ 勝呂は坐ったが何も言う一一一一口葉はなかった。言えばすべてウソになり、戸田に嘲り笑われる ような気がする。 「た、ば、こ」 セルロイドのケースを差しだして戸田は彼が巻いた不細工な煙草を勝呂にすすめた。その ほくち 一本をとって勝呂はともすれば消えがちな火口を眺め、眺め、黙っていた。 「お前も、阿呆ゃなあ」 アスプロ ひきだ
「実は本人も納得しているのですが、どうせ死ぬのでしたら手術をやってみたいと思います 「ああ」 ふめいりよう おやじは不明瞭な声でふりかえった。彼の顔には別にこの事について関心も好奇心もない ようだった。 「ちょうど良い機会です。左肺に二つカベルネが、右肺に浸潤部がありますから両肺オペの 実験にはもってこいです おび 毛布の端で胸を包むようにしておばはんは勝呂の強張った顔を怯えたように見あげた。電 燈の光はそこまで届かなかったので、彼女はできるだけ暗い片隅にかくれるように小さく身 をちぢめていた。眼の前にいる偉い先生たちが自分のことを話しているのだと知って息を詰 め、申しわけなさそうに頭を幾度も下げた。 しばた 「柴田助教授が是非、やってみたいと言われるので」 「ああ」 「じゃ、予備検査を勝呂君にやらしておきます。その上で御決定ください」 浅井助手はこちらをふりむいて、 「いいだろ」と促した。勝呂は救いを求めるように大場看護婦長と戸田の顔を探し求めたが、 看護婦長は能面のような表情をつくっていたし、戸田は戸田で顔をそむけていた。 「勝呂君、やってくれるだろう」 が」 こわば
午後三時、白い手術着を着こんで顔の半ばをマスクで覆ったおやじと柴田助教授が、将校 しきい 薬 たちにとり囲まれながら姿をあらわした。閾のところでおやじは一瞬たちどまり、壁にぐっ すぐろ もた 毒たりと靠れていた勝呂の今にも泣きだしそうな顔にチラッと眼をやって、急に視線をそらせ なだ とた。そのうしろから勢いよく雪崩れこんで来た将校たちは手術台に仰むけに寝かせられた捕 虜を見ると一斉に足をとめた。 海 「もう少し前に集まって下さい。前に」彼等のうしろから浅井助手がすこし皮肉な微笑をう かべて、 ライへ 「死体には馴れていられるんでしよう、軍人の方たちですからね」 ひげ すると、その助手をふりむいて、チョビ髭をはやした中尉がこびるように、「君い、手術 しいとかね」 中、写真をとってもゝ 「どうぞ、どうぞ。そりや、もう我々の方も第二外科の者が八ミリを持ってきますよ。何し ろ貴重な実験でしてね」 第三章夜のあけるまで かれら おお
て黙っているより仕方なかった。 「心兎に角、弱っとりますから」彼は浅井助手の所に報告にでかけた。助手はその時、 柴田助教授と薬用葡萄酒を飲んでいた。 「オペは少し無理じゃと思いますが」 「無理はわかっているさ」一、二杯の葡萄酒で顔を真赤にした助教授は勝呂のもってきた検 査表をパラバラとめくりながら答えた。 しいよ。今度の執刀はばくがするからな。第一あれは施療患者じゃな 「君は心配しなくてもゝ 薬 いか」 クランケ 毒「勝呂君はこの患者の担当なので心配なのでしよう」例のあまい優しい声で浅井助手は微笑 した。「私も昔はそうでしたよ」 「今度の施療患者でばくが実験してみたいのはね」 海アスプロ 柴田助教授は少しよろめきながら黒板に近づくと、診察着のポケットから白墨をだした。 「従来のシュミット式成形手術じゃないんだ。君、コリロスの論文読んだ ? 「はあ ? 」 リッペ 。まず上部肋骨の下をひろく割く。第四肋骨から 「あれの変形方法だよ。まあ、聞きなさい カベルネ はじめて、第二、第三、第一と切る。これがコリロス法だろう。ばくのはねえ、空洞の形と かんちゅう 灌注気管支の方向に注意してーーー」 勝呂は礼をして部屋を出た。廊下の窓にしばらく顔をあてていた。なぜだか非常にくたび かく バウブト まっか せりよう
裸電球の暗い影がそこらに散らばっているセメントの袋やこわれた実験用の机や藁のはみ 車輪がものうい単調な音をたててきしんだ。 出た椅子の集積に落ちていた。 「看護婦長さん」ノブはわざと大場さんとは言わず、看護婦長さんと呼びかけた。「だれか ら今日のことば相談されましたと ? だが相手の痩せた背中はこちらをふり向こうともしなかった。彼女はかたくなに車の柄を 握ったまま前へ進んでいた。それを見るとノブの唇に思わず皮肉な微笑がうかんだ。 「浅井先生ですの ? あたし浅井先生に打ちあけられましたとよ。浅井先生たら、三日前の 薬 晩、ひょっくり、うちのアパートに来られるんですもん。ほんとに驚いたわ。だってえ、浅 あたしに : 毒井先生たらお酒ば飲んで : と 「うるさいわ」突然、大場看護婦長は担架車から手を離した。「車をとめなさい」 「ここに置いて : : : ええんですの」 海 「だれがこの車ば受けとりに来るとですの」 「上田さん、看護婦たちはだまって先生の御命令通りにすればいいんです」 死体にかぶせた白布が闇の中に浮んでいる。二人の女はしばらくの間、担架車を真中には にら さんで、眼を光らせながら睨みあっていた。 「上田さん」大場看護婦長は細い眼でじっとノブを見つめながら「あんた。今日、もう家に 帰っていいよ。いうまでもないけど、今日のことば誰にもしゃべるんじゃないよ。もし、あ わら