捕虜 - みる会図書館


検索対象: 海と毒薬
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1. 海と毒薬

ハンドで捕虜の足と体とを縛った。 「第一期」 戸田は時計を見つめたまま呟いた。第一期は患者が麻酔のため失われていく意識と本能 的に闘おうとしている時である。 「エーテルの点滴を絶やすなよ」助手は捕虜の手を押えながら注意した。マスクの下から低 グラード うめ い動物的な呻き声が洩れはじめた。エーテル麻酔の第二期にかかったのだ。この時、患者 とおぼ の中には怒鳴ったり、歌を歌うものもいる。けれどもこの捕虜は犬の遠吠えに似た声で、長 薬 、途切れ途切れに呻くだけであった。 ステト 毒「上田君、聴診器を持ってきてくれ」 と 上田看護婦からステトを引ったくると、浅井助手は急いでそれを捕虜の毛むくじゃらな胸 に当てた。 海 「戸田君。点滴を続けてくれ」 「大丈夫です。 「脈が遅くなってきたぞー 助手が押えていた捕虜の両手を離すと、それはだらんと手術台の両側に落ちた。戸田は看 どうこう 護婦長から受けとった懐中電燈でその瞳孔を調べはじめた。 「角膜反射もなくなりました」 「これでようし、効いたなあ。ばくはおやじと柴田さんを呼んでくる」浅井助手は聴診器を 132 グラード グラ 1 ド

2. 海と毒薬

136 「今日は何か , 横あいから何時ぞや研究室にほまれを持ってきた丸く肥った軍医が指で自分 の坊主頭を指さして「ここを切るんか」 「脳の摘出はやりません。明日、権藤教授と新島助手とが別の捕虜に実験なさるそうです , 「すると、君らは肺だけか」 「はあ。軍医殿には申し上げるまでもありませんがね、他の将校の方たちには御参考までに 御説明しておきましよう。本日の捕虜にたいする実験は簡単に申しますと : : : 肺外科に必要 な肺の切除がどの程度まで可能か、どうかを調べることにあります。つまりですねえ。人間 薬 の肺はどれだけを切りとれば死んでしまうか、この問題は結核治療にも戦争医学にとっても 毒長年の宿題ですから、捕虜の片肺の全部と他の肺の上葉を一応、切りとってみるつもりです。 要するにです : 浅井助手の甘ったるい声が手術室の壁に反響してキンキンと響いている間、おやじは背を 海 まげてじっと床を流れる水を見おろしていた。その落ちた肩が妙にうすくわびしかった。 からだ 大場看護婦長だけが無表情な顔でマーキュロ・クロームを手術台に横たわった捕虜の驅に ぬりつづけている。薬液が太い首や、栗色の毛の密生した厚い胸や乳首の上を赤く染めてい くにつれ、まだぬられていない、 少し凹んだ腹部の白さがうかび上ってくる。戸田は今はじ めてのようにこの捕虜が白人であったこと、日本軍に捕えられた米国の兵士であったことを、 今はじめて、その金色のうぶ毛のはえた白い広い腹を見ながら考えていた。 「よか気持で寝とりますやなあ。奴さん」緊張した空気をほぐすためか、背後の将校の一人 ごんどう やっこ にいじま ほか

3. 海と毒薬

あお 診察が進むにつれて捕虜は落着きはじめたのか、指図通りに従った。そのやわらかな碧い ′」う ひとなっ 眼や時々うかべる人懐っこい微笑から彼が勝呂たちを毫も疑っていないことがわかった。医 者という職業にたいする信頼がこの捕虜をすっかり安心させているらしい。心臓を調べると ; 明しながら助手が手術台を指さすと、素直に横になった。 「バンドは」戸田がロ早にたずねると、 「あとで、あとでーと浅井助手は小声で制した。「今、やると怪しむぞ。麻酔が第二期に けいれん 薬 きて痙攣でもはじまったら、その時、すぐ縛るんだ」 毒「軍医さんたちが入ってもよいかと訊ねています」大場看護婦長が準備室から顔をだした。 と 「まだだ。あとで僕が合図する。勝呂君、麻酔マスクを用意してくれ」 この部亠から 「俺あ駄目だ。浅井さん」勝呂は泣きそうな声で言った。「出して下さい 海 縁のない眼鏡の上から浅井助手は勝呂をじろっと見上げた。けれども彼はなにも言わなかっ 「ばくがやります。浅井さん」戸田が勝呂に代って十文字の針金を渡した、マスクに綿と油 紙とを重ねた。それを見て捕虜がなにかをたずねたが浅井助手はつくり笑いを急いで頬にう かべると手をふった。マスクを顔の上にのせる。エーテルの液体をたらす。捕虜が左右に首 をふってマスクをはずそうとした。 「バンドをしめるんだ。バンドを」大場看護婦長と上田看護婦がのしかかるようにして手術 131 グラード

4. 海と毒薬

三、第三捕虜に対しては肺を切除し、その死亡までの気管支断端の限界を調査す。 執刀、橋本教授柴田助教授 第一助手浅井宏 第二助手戸田剛 第三助手勝呂二郎 薬 第一捕虜にたいして行う実験は戦争医学にどうしても欠くべからざる要請だった。普通、 じようりゅうすい 毒血液に代用される生理的食塩水は蒸溜水一〇〇に対して食塩を〇・八五 % 混合したもので ある。この代用血液を輸血を必要とする患者にどの程度まで注入することができるか、これ ふめいりよう は人体を対象とした場合、まだ不明瞭なのである。大体二リットルや三リットルは大丈夫と 海 言われているがそれ以上はわかっていない。 うさぎ 第二捕虜にたいして行う実験は空気を血管に注人するものなのだが、兎の場合は五 o o の 空気を人れただけで即死してしまう。しかし人体にたいしてはどうか。 第三捕虜にたいする実験こそ肺の外科医がどうしても知りたい門 ロ題である。成形手術より 更に望ましい肺の切除療法は東北大の関口博士や大阪帝大の小沢教授によって行われたこと があるが、問題の一つは気管支の端をどの程度まで切ってよいかと言うことである。 勝呂はこの予定表を見ながら第一実験と第二実験はおやじではなく、柴田助教授の提案な

5. 海と毒薬

159 だが今、暗い灯の洩れているのは病院の受附と事務所だけだった。軍歌を合唱する男たち さえぎ の大声が聞えてくる。それは第一外科の二階にある会議室からだった。その窓も黒い幕に遮 すきま られているがその隙間からほのかな電気の光がチラついていた。 ( 今日、手術室に出た軍人たちだわ ) とノブは考えた。 ( いい気なもんね。こちらが大豆し か食べられない時でも、あいっ等、たつぶり飲み食いできるんだから。なにを食べてるのか しら ) すると、ノブの記憶のなかで今日、解剖が終った手術室で浅井助手の耳に一人の肥った軍 ささや 薬 人が口をよせて小声で囁いていた言葉がゆっくりと浮び上ってきた。「おい、捕虜の肝臓を 毒切りとってくれんかね」「どうするんです」浅井助手が縁なし眼鏡をキラリと光らせると、 わら と その小ぶとりに肥った軍医はニャニヤと嗤った。「軍医殿、まさか、若い将校たちに試食さ くちびる せるんじゃ、ないでしようねえ」あの時、浅井助手も相手の心を読みとるように唇にうすい 海 嗤いをうかべたのである。 けんおかん ノブはその会話を思いだして本能的に嫌悪感を感じた。しかしその嫌悪感をのぞくと彼女 は、軍人たちが捕虜の肝臓を食べようが食べまいがどうでもゝ しいことだった。看護婦である 彼女は患者の手術や人間の血は見馴れていたから、今日、手術台に運ばれた男が米国の捕虜 であったにせよ、特に恐怖感も起きようがない。橋本教授が一直線に電気メスをあの捕虜の 皮膚に走らせた時、上田ノブの連想したことはヒルダの白い肌のことだけである。彼女が自 ききよう 然気胸をおこした大部屋の患者にプロカイン液を注射しようとした時、烈しく声をあげて机 みな はだ

6. 海と毒薬

せ ぶんびつぶつ 手術台の捕虜が烈しく咳きこみはじめる。気管支の中に分泌物が流れこんだのである。戸 田は浅井助手がマスクを通しておやじにたずねる含み声を聞いた。 「コカインを使いましようか」 「使わんでいい」おやじは手術台から体を起し、突然怒りのこもった声で怒鳴った。「こい つは患者じゃない 手術室の一同は、このおやじの烈しい怒声に急に静まりかえった。八ミリ撮影機のまわる 音だけが、にぶく長く続いた。 壁に靠れた勝呂の眼の前には将校たちの背がある。彼等は時々、かるい咳ばらいをしたり、 疲れた足を動かす。すると、そんな時、その肩と肩との間から前かがみになったおやじと柴 田助教授の白い手術着や、手術台にバンドで縛りつけられた捕虜の草色の作業ズボンの色が チラッとのぞき見えるのだった。 「メス , 「ガーゼ」 「メスー アスプロ しわが 助教授がひくい嗄れた声で大場看護婦長に指図している。 ( この次は切除剪ば使うて肋骨を切りとる時じゃ ) 医学生の勝呂には、助教授の声だけで、おやじが捕虜の体のどこを切っているか、これか せつじよせん ろっこっ

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れようが同じことですな。エーテルはかけてもらえるんだから眠っている間に死ぬようなも んだ」 どうでもいい。俺が解剖を引きうけたのはあの青白い炭火のためかもしれない。戸田の煙 草のためかもしれない、あれでもそれでも、どうでもゝ しいことだ、考えぬこと。眠ること。 考えても仕方のないこと。俺一人ではどうにもならぬ世の中なのだ。 眠っては眼があき、眼があくとまたうとうとと勝呂は眠った。夢の中で彼は黒い海に破片 のように押し流される自分の姿を見た。 薬 あの日から戸田と勝呂とは研究室で顔を合わせても視線をそらせてしまう。二人でかわす うず 毒話題もその渦に巻きこまれようとすると、どちらかが急に話を変えてしまった。なぜ自分が こわば 助教授の申し出を承知したのかも互いに打明けなかった。話題がっきると彼等は強張った顔 で黙々と仕事にとりかかった。 海 解剖予定の紙が前日になって、ひそかに浅井助手から、二人に渡された。実験は捕虜を三 名、使う。この解剖を第一外科が担当することになっていた 解剖と実験の過程は次の通りである。 一、第一捕虜に対しては血液に生理的食塩水を注入し、その死亡までの極限可能量を調 査す。 二、第二捕虜に対しては血管に空気を注入し、その死亡までの空気量を調査す。

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ゞおどけた声をあげた。「もう、あと半時間もすりや、こいっ殺されるとも知らん : : : 」 殺されるというその一一一一口葉が戸田の胸にうつろに響いてはねかえった。殺すという行為は、 まだ実感として心にのばってはいなかった。人間を裸にする。手術台の上にのせる。麻酔を かける。そうしたことは学生のころから今まで、幾度となく患者にやってきたことである。 つぶや 今日だって同じこと。やがておやじが「礼」とひくい声で呟き、解剖の開始をつげるだろう。 はじ はさみ 鋏やピンセットがカチ、カチと響き、電気メスが乾いた弾けるような音をたててこの栗色の だえんけい 毛に覆われた乳首のあたりを楕円形に切りはじめるだろう。だが、いつもの手術や解剖とそ 薬 れは何処がちがうのだ。無影燈のまぶしい青白い光も、海草のようにゆっくり動いている白 毒い手術着をきた人間たちの姿も自分には長年、見馴れてきたものである。天井をむいてじっ と横たわっているこの捕虜の姿勢だって普通の患者たちと少しも変りはしない。殺すという せんりつ 戦慄は戸田の心にすこしも湧いてはこなかった。すべてが事務的に機械的に終ってしまうよ 海 うな気がしてならなかった。彼はのろのろとカテーテルの細い管を捕虜の鼻孔にさしこんだ。 先端の赤らんだ高い白人の鼻である。これに酸素吸入器をつければ準備は終るのだ。エーテ いびき ルの麻酔はもうすっかり効いたのであろう、捕虜は管の間から小さな鼾をかいて眠っていた。 草色の作業ズボンに包まれた脚と両手を厚い皮帯でしつかりと縛られて、彼は周りの者の視 くちびる 線を受けながら天井をむいている。唇のまわりにはかすかな微笑さえ漂っているように思わ れるほどうっとりとしたその表青だった。 「はじめますかな」 137

9. 海と毒薬

この重くるしかった気持は二人がやがて二階の手術室にのばっていった時、思いがけなく 崩れてしまった。実際、廊下には明るい笑い声がひびいていたからだ。戸田も勝呂も見知ら ぬ四、五人の将校たちが窓際によりかかり、煙草をふかしながら大声で談笑していたのであ る。それはまるで将校集会所で会食の席でも待っているような様子だった。 「二時半すぎたが、捕虜はまだ来んのか」 アスプロ この間、柴田助教授の部屋に来ていた小太りの軍医が肩にかけたカメラのケースを開きな がら舌打ちをすると、 「三十分ほど前に拘禁所は出たと報告がありましたから、おつつけ到着しますでしよう」 ひげ チョビ髭をはやした将校が腕時計を見て答えた。 つば 「今日は貴重な写真、是非ともとろうと思うてな」軍医は床に唾を吐き、長靴でそれを踏み 消した。 「腕には自信がおありですかな。いい写真機ですなあ」チョビ髭をはやしたその将校がこび るようにたずねた。 「まあ機械だけは独逸製じやから : : : それより今日の小森少尉の送別会はこの病院の会議室 で開くことになったのかな」 「解剖が五時には終ると思いますから、五時半から始めることにいたしました」 「料理は用意してあるのか」 いきぎも 「いざとなれば本日の捕虜の生胆でも食べて頂きます」 ちょうか

10. 海と毒薬

「入れて下さい浅井助手はかすれた声で答えた。「何人ですか」 「一人です」 勝呂は壁に靠れて、押しこまれるようにはいって来た背の高い痩せた捕虜を見た。それは 彼がいっか、あの第二外科の入口であった十数人の米兵と同じように草色の身に合わぬ作業 服を着た男だった。 彼は手術着を着た勝呂たちを見ると困ったように微笑をうかべた。そして白い壁や部屋の 隅を眺めまわした。 薬 Sit down here. ひざ 毒浅井助手が椅子を指さすと、男は長い膝をいかにも不器用にかかえて、素直に腰をおろし とた。勝呂は昔ゲイリイ・クーパアという俳優の映画をみたことがある。この痩せた米人の顔 にも動作にもどことなくクーパアに似ているところがあった。 海 大場看護婦長が彼の上衣をぬがすと破れた日本製のメリャス・シャツを着ている。その破 ′、り・いろ・ れ目から密生した栗色の胸毛が見える。浅井助手が聴診器を当てると、捕虜は迷惑そうに眼 にお をつむったが、突然、部屋に漂った臭いを感じたのか、 Ah! Ether, isn't it? ( エーテルだな ) と、叫んだ。 Right, it's for your cure. ( そうだ、お前の治療のためだ ) さすが 浅井助手の声も聴診器を持った手も流石に震えていた。 130 すみなが