ら、余計にムッとした。 かのじよ 彼女の姿は見 その午後、大部屋全部の血沈検査があった。検査場にミツはあらわれたが、 , えない。 「おばさんは ? 」 「あの人は気分の悪か、と言いよります」 勝呂はがらんとした大部屋に出かけた。布団が散乱していて、おばはんが独りだけべッド すわ の上にだらしなく坐っていた。こちらに背をむけて葡萄糖を両手にかかえてネズミのように 薬かじ 齧っている。その卑屈な姿や黄色い乱れた髪をみると勝呂は言いようのない、あさましさを 毒感じた。 「なぜ来ん」 「へえー」おばはんは両手でロを押えたまま返事をしなかった。 海 「来いと言うとるのに」 おび 勝呂が思わず彼女の手を荒々しく引くと、おばはんは垢じみた布団の上に倒れた。その怯 えた顔を彼は平手で撲った。 おやじは近頃、ほとんど研究室に来なくなった。週二回の回診は彼に代って柴田助教授が やるようになった。田部夫人がこの前まで寝ていた病室ではべッドからマットがはずされて どろぐっあと 床の上に投げだされている。泥靴の痕のついた新聞紙が二、三枚、散らばっていた。 オペには失敗したとはいえ、おやじが姿を見せなくなると、研究室も看護婦室も病棟も、 ふとん あか
アスプロ ただ柴田助教授はーー・これも戸田の解釈なのだがーーーおやじの出世を妬んでいるらしかっ かきした た。彼はおやじによって育てられたのではなく、その前の第一外科部長、垣下教授の弟子だ ったからである。 主任教授の回診は週に二度ときまっていたのだが、手術前のこの一週間、おやじはほとん ど毎日、田部夫人を診察した。 なが 「秋には退院ですよ。浅井助手の手渡す胸部断層写真を窓の方にむけて眺めながら彼はこの うなず 患者に肯いてみせる。「あとは半年、田舎で寝ていられればいい。来年の正月にはもうすっ 薬 かり健康になりますな」 毒四月の選挙にたいする希望が湧いてきたのか、この所、おやじはふたたび、あの自信に充 とちた姿をとり戻しはじめた。真白な診察着のポケットに両手を入れ、ロに煙草をくゆらせな めいそう びようとう おおまた しく。その少し前かがみの、いかにも瞑想的 がら、一同を従えて病棟の廊下を大股に歩いて ) 海 な姿勢は、田舎者の勝呂にプロフェッサーという言葉のイメージをそのまま与えてくれるよ うだ。大場看護婦長と戸田の背後で兵隊靴を引きずりながら勝呂はおやじにたいして昔のよ あこが うな憬れと神秘的な尊敬をふたたび感じたのだった。 「先生、この娘の手術、大丈夫でございましようか」 ごろ この頃は黒いモンべをはいた上品な母親がいつも田部夫人の病室につきそっている。べッ ドの上に上体だけ起して、若い人妻は右手で寝巻の襟をつまみながら、頬に落ちた髪をかき ほほえ あげて微笑む。 えり ねた ほお み
「先生が」と母親はまた叫んだ。「ちゃんとして下さるから。先生が」 大場看護婦長はその時、既にアルコールで手を洗ったおやじの背中にまわって手術衣の紐 を結んでやっていた。それから母親が自分より背の高い長男の世話をするようにトルコ帽に 似た白い手術帽を彼の頭にかぶせた。リ 男の看護婦がゴム引とメリャスの二つの手袋のはいっ た金属の箱を差しだした。これで、おやじは能面のような顔と不気味な性格とをもった真白 な人形になったのである。 手術中は二十度の温度を保っていなければならないので、部屋は既にむんむんとしている。 ほこり 床には埃と手術中の血をたえず洗い落す水が軽い細かな音をたてて流れている。その水が、 むえいとう 毒天井につるした大きな無影燈の光に反射して、手術室全体を燃えた白金の炎のように輝かせ ていた。その中で浅井助手も看護婦たちもまるで水の中の海草のようにゆらゆらと動いてい けんこうこっ る。戸田は患者の肩胛骨をこじり上げるレトラクターを確かめていた。 二人の看護婦が田部夫人の裸体を折りまげるように持ち上げて手術台の上に乗せる。その 手術台のかたわらで、硝子のテープルに乗せたニッケルの箱から、おやじは馴れた手つきで ろっこっとう 手術道具を並べはじめた。骨膜を剥がすエレバトリウムや肋骨刀やピンセットなどが互いに 触れあってガチャッガチャッと音をたてる。田部夫人はその鋭い音をきくと一瞬、ピクッと 躰を震わせたが、再び、ぐったりと眼をつむった。 「痛くありませんよ。奥さんー浅井助手があの甘い調子で声をかけた。「麻酔をどんどん、 うちますからねえ」 からだ ガラス ひも
くちびる んやあらへん」そして戸田は唇のまわりに学生時代から勝呂に何かを教えてやる時の癖で、 相手をみくだしたような微笑をうかべ、声をひそめた。「誰やと思う ? お前」 「わからんなあ。俺。勝呂は眼をしばたたいた。 プレさん 「個室に寝とる田部夫人や。看護婦たちが大杉部長の親類やと一一一一口うているやろう。あの奥さ んや」 そう言われるまでもなく、勝呂はその田部とよぶ若い、うつくしい患者を見知っていた。 平生、回診は大部屋から始まり、二階の二等室がすむと最後は個室で終る。個室では、おや 薬 じの態度も診断も丁寧になってくるが、特にその若い人妻にたいしては細心をきわめた。勝 毒呂も看護婦もカルテの端に「大杉医学部長、御親類」と書きこんだ浅井助手の筆跡を読んで といたのである。 くうどう アメムネーゼ 病歴から言うと若かった。右肺上葉に大豆ほどの空洞と幾つもの小さな浸潤部がある。 まくら ろくまく ゅちゃく 海 ただ、肋膜が癒着しているので気胸はできない。黒い長い髪を清潔な枕カバーの上に思い切 りといて、何時も仰むけにジッと寝ている女性だった。読書好きらしく陽のよくあたる大き な窓の下には勝呂の読んだことのない文学書などが並べてあった。 胸もとを拡げる彼女は病人とはとても思われぬ程美しい皮膚を持っていた。主人は海軍で 遠い所に行っているそうである。そのためか、むっちりと膨らんだ乳房の先も娘のように小 さく赤かった。一日に一度は女中と母親らしい人が風呂敷に食事を入れて運んでくる。すべ てがあの大部屋の患者たちの世界とはちがっていた。 たべ
海と毒薬 は静かな手術室の中でいつまでも続いた。おやじの額に汗が更にながれはじめ、看護婦長が 幾度も背伸びをしてそれを拭う。 「輸血は ? 「異常ありません」 「脈は ? 血圧は ? 」 「大丈夫です」 「第一肋骨にかかる」とおやじは呟いた。 成形手術のうちで最も危険な箇所にきたのである。 田部夫人の血液が突然、黒ずんだのに勝呂は気がついた。瞬間、なにか不吉な予感が胸に こみ上げてきた。だがおやじは黙々と僧帽筋を切っている。血圧を調べている看護婦も何も 言わない。浅井助手も無言である。 せつじよせん 「切除剪」 おやじは叫んだがその時、彼の体が少し震えたような気がした。 「イルリガートルは大丈夫か ? 」 彼は気がついたのである。血が黒ずみ始めたことは患者の状態がおかしくなって来た証拠 ろう なのだ。出血が多量なのだろうか。勝呂はおやじの顔が汗で蠑をぬたくったように光ってい るのを見た。
「血圧は ? 「大丈夫ですー看護婦が応じた。 長い時間がたった。 うめ 突然、田部夫人は呻きはじめた。麻酔はパンスコのほかにプロカインがうたれていたのだ が、まだ半ば意識が残っているらしかった。 「苦しい。母さま。息が苦しい おやじの額に汗がにじみはじめる。それを大場看護婦長が伸びあがるようにしてガーゼで ぬぐ 拭う。 「息が苦しい。母さま。息が苦しい」 「エレバトリウムすみ。肋骨刀」 はなばさみ 骨膜が剥がされると白い肋骨が何本も浮き出てくる。それを花鋏に似た肋骨刀でおやじは しつかりと挟んだ。 マスクの下で力をこめた声が洩れた。ボキンという鈍い音がして鹿の角に似た第四肋骨が うけざら もぎとられ、受皿の中にかるい乾いた響きをたてて落ちた。 その時、胸壁や内胸をかくした組織が下の肺の圧力で赤い風船のようにもり上ってきた。 ムッと力をこめるおやじの声、骨の折れる鈍い音、そしてそれが受皿に落ちる乾いた響き しか
病室の戸は開いたままだった。たった今、血圧計を計っていた若い看護婦が泣きだしそう な顔で走ってくる。この娘は浅井助手に命ぜられた演技をどうやって演じてよいのか、わか らないらしかった。 戸口で大場看護婦長が注射箱を受けとる。彼女だけが能面のように無表情だった。長い経 験から、こんな時、何をどうすればよいか心得ているのは彼女だけである。浅井助手は既に 病室の中で待っている。 「君、ここで秘密の洩れぬように見張 勝呂は廊下の窓に顔をあてながら茫然としていた。 薬 って下さい、と助手に命ぜられたからだ。田部夫人の家族がこちらに来ようとするのを廊下 毒の曲り角で戸田が押しとめていた。 「でもーー」 「奥さん」 海 戸田の叫ぶ声がきこえた。 「どうなの ? 顔をあげると診察着に両手を入れて、柴田助教授が彼の顔をみつめた。 「オペは成功したの ? 」 勝呂が首をふると、一瞬、助教授の肉のおちた頬にゆっくりとうすい嗤いがうかんだ。 「死なしちゃったか。仕方がねえなあ。いつだね」 あえ 「第一肋骨ー勝呂は喘ぎながら答えた。 アスプロ わら
「患者の体は病室に運ぶ。家族には手術の経過を一切、言わぬこと」 おび 浅井助手はかすれた声でそう言うと、一同を見まわした。その一同は怯えたように背を壁 にむけてたっていた。 「病室に帰ると、すぐリンゲルをうつ。その他、術後の手当はみんなする。患者は死んでは いない。明朝、死ぬことになるんだ」 その声は、既に研究室の浅井助手がいつも響かせる、あの甘い高い声ではなかった。汗に ぬれた彼の鼻に縁なしの眼鏡がずり落ちていた。 かのじよ 薬 運搬車に死体を乗せて白布をかぶせると、若い看護婦がよろめきながら車を押した。彼女 毒には押す力もなくなったようだった。 そうはく 廊下で田部夫人の母親や姉らしい人が蒼白な顔をして駈けよってきた。 「手術は無事に終りましたよ」浅井助手はっとめて平静を装おうとして苦しそうに微笑した さえぎ 海 が、声はかすれていた。大場看護婦長が家族たちの体を運搬車からできるだけ遮ろうと中に ゝっこ 0 「しかし、今晩が山ですね。油断は禁物ですから明後日まで面会は禁止ですー 「あたしたちもですか ? 」と姉らしい人がとがめるように叫んだ。 「お気の毒ですけれどねえ。今日は看護婦長もばくも徹夜で看病しますよ。安心して下さい よ
「そちらの用意はできたかーおやじの声は低かったが、手術室の壁に反響した。 「はあい 「血圧計、イルリガートル、すべて完了」と助手は応じた。 「では始めますー 一同は患者とおやじの方にむかってしずかに頭をさげた。沈黙が部屋に拡がった。その間、 大場看護婦長だけがヨードチンキを浸した綿をピンセットでつまんで夫人の白い背中にぬっ ていた。 「メス」 わし 毒差しだされた電気メスを手袋をはめた右手で鷲づかみにすると、おやじは少し前にかがん とだ。ジュウッという音が勝呂の耳にきこえた。筋肉が電気にはじけて焼ける音なのだ。 一瞬、白い脂肪の線がばあっと浮きでたような感じがする。次の瞬間、どす黒い血が吹き 海 だすように眼にはいってきた。浅井助手がコツへルをパチ、パチ鳴らしながら素早く血管を とめる。勝呂が更にその血管を一本ずつ絹糸で結ぶ。 は′、りと、つ 「骨膜剥離刀」おやじは叫んだ。「輸血は ? 」 田部夫人の白い足にイルリガートルの針は差しこまれていた。勝呂は瓶の中の強心剤やビ ぶどうとう タミンや葡萄糖液やアドレナリンをまぜた液体がゴム管を走り患者の体に流れ込むのを確か めて答えた。 「異常ありません」 びん ひろ
にはなぜかその時権藤教授の顔がいつになく汚れ、暗い孤独な影にふちどられているような 気がした。 ( おやじは勝つだろうな ) 彼は自分には関係のないこれら教授たちの暗闘が明日は一つの峠にかかるのだと考えて、 いつにない興奮さえ感じたのだった。 金曜日の午前十時、ゴムの前掛の上に白衣を着こみ、サンダルをつつかけた浅井助手、戸 薬 田、勝呂は手術室の外で患者が運ばれてくるのを待機していた。 毒空は曇っていた。手術室は病棟の二階のはずれにあったからここを歩く外来患者も看護婦 もいない。廊下が一直線にむこうまでにぶく光っているだけである。 きし やがてその廊下の奥で車輪の軋むかすかな音が伝わってきた。田部夫人を乗せた運搬車が 海 看護婦と母親に押されてゆっくりと進んでくる。 病室で注射されたパンスコの麻酔薬と手術の恐怖とのため、車に仰むけになった夫人の顔 は血の気もなく、髪も乱れていた。 「しつかりするのよ」母親は次第に速く進みはじめた車にそって走りだした。 「母さま、ここにいますからね。姉さんもすぐ来るのよ。手はすぐ終るんだからね」 と、ぐったりとした患者は鳥のように白く眼をあけて何か呟いたがその声は聴きとれなか っ一」 0