たちはヒルダさんの口紅が濃すぎること、あんなことは日本人の女にはとてもできないと悪 つぶや 口をしゃべり合ったのです。「いい気なもんね」とだれかが呟きました。「ビスケットをふる せんたく まったり、大部屋の患者のパンツを洗濯したり、彼女、得意なのよ」 あとでわかったのですが、それはヒルダさんが病院にくるたびに大部屋の患者を見舞うこ とを非難していたのです。毎月三回、彼女は定期的に病院にやってきます。バスケットをか せりよう かえて大部屋にはいります。施療患者たちの汚れた下着を集め、その汚れものを次に来る時、 すっかり洗濯して手渡すのです。それがヒルダさんの献身的な仕事でした。 薬 本当をいえば、こうしたヒルダさんの慈善はわたしたち看護婦には有難いことではなかっ 毒たのです。大部屋の患者たちだって迷惑なことだったでしよう。大部屋には空襲で家族を失 ろうば った身よりのない老人や老婆が多いのですが、彼等はこの西洋人の婦人が自分に話しかけて くれるだけでも固くなってしまいます。その上古びた行李や信玄袋から、ヒルダさんが汚れ 海 た腰巻などを引きずりだすと、あわててべッドから這いおりるのでした。 まま 「この儘でようござす。この儘にしてつかあさい」 こつけい 滑稽なことにはヒルダさんは病人の恥ずかしさや気づまりに気がっかないようでした。男 の子のように大股で病院を歩き、ビスケットをくばり、患者をせきたてて汚れ物をバスケッ トに入れて歩くのです。 こう意地のわるい書き方をしたからと言ってわたしはあの頃、ヒルダさんの慈善行為に決 して反感をもってはいませんでした。「実際、頭がさがるねえ「今日も奥さんは施療患者の
たた を叩いたヒルダの掌のことだった。そのヒルダの掌とおなじように今日の捕虜の肌も金色の うぶ毛が生えていたのである。 ( 橋本先生、ヒルダさんに今日のこと言うだろうか。言えないだろうな ) ノブはヒルダに勝 った决感をむりやりにむに作りあげようとする。 ( ヒルダさんがどんなに幸福で聖女やかて、 自分の夫が今日、何をしたか知らないんだわ。だけど、あたしはちゃんと知ってるんだから。 橋本先生が今日、何をしたかはあたししか知らないんだから ) 薬 アパートに帰ると部屋は真暗だった。上り口に腰をかけると急に疲労がこみあげてきた。 ひざ 毒彼女はしばらくの間、靴もぬがず、膝を両手でかかえてじっとしていた。 「上田さあん。配給の石鹸半分、窓ん所においといたよ。あとで金を払ってつかあさい」 管理人の声が廊下の奥からさむざむと聞え、それからバタンと戸がしまるたかい音がきこ ふとん 海 えた。闇の中で部屋に敷きつばなした布団や食卓が白く浮んでいる。隣家のラジオが金属を 引っかくような警戒警報のブザーをたてていた。 ( どうなるんかしらん、これから ) 何時もと同じことだが、病院からこのひえきった部屋に せきりようかん 戻るとノブは胸のしめつけられるような寂寥感と孤独な気持に捉えられる。 ( 今日もこれで 終ったけど : : : 終ったけど : : : ) 本当に今日もこれで終った。彼女が今、考えているのは、それだけだった。随分、長い尸 病院に行かなかったので特別に身も心もくたびれたような気がする。明日からまた、大部屋 160 せつけん とら
送られてから第三病棟の大部屋で寝たきりなのである。両肺がもう、半ば侵されているから 手の施しようもない。おやじの橋本教授はとっくに匙を投げていた。 「ひょっとしたら助かるかと思うてな」 「助かるもんか」戸田は突然、やりきれないと言ったように声をあげた。「変な感傷はよせ ゃ。一人だけ助けても、どうなるねん。大部屋にも個室にもダメな奴はごろごろしているや ないか。なぜ、おばはんだけに執着するのや」 「執着してるんや、ないよ」 「おばはん、お前のお袋にでも似てますか」 毒「まさか」 つまでそんな女子学生みたいなこと考えてるのや」 「甘いねえ、お前。い そう言われれば勝呂は一方ではムッとしながらも、自分の秘密でも見つけられたように思 海 わず顔をあかくして硝子板を棚のうしろに投げこんだ。 おれ 彼は自分の気持をどう、戸田に説明していいのかわからなかった。 ( 俺、あの患者が俺の 最初の患者やと思うとるのや ) と言うのが恥ずかしかった。 ( 俺、毎朝、大部屋であの髪の 黄色くなったおばはんの頭をみるのがタマらんのや。鶏の足みたいな手をみるの苦しゅうな るんや ) と打明けるのが恥ずかしかった。そう言えば戸田はきっと皮肉な刺のある一一一口葉をぶ れんびん つけてくるだろう。そんな隣憫は今の世の中にとっても医者にとっても何の役にたたぬ所か、 四害のあるものだと一一一一口うだろう。 たな やっ
: 」勝呂は眼をしばたたきながら、か細い声で答えた。 「はい・ ためいき くたびれたようにおやじが廊下に出た時、大部屋の壁にもたれて彼はふかい溜息をついた。 おばはんは毛布で体を包んだままべッドの隅から、まだ、彼を見あげている。その困ったよ うな視線から彼はくるしそうに眼をそらした。手術をやればこの患者は百のうち五十は死ぬ にきまっている。まして、まだこの医学部でも二例しかない両肺成形を行えば九十五パーセ ントは殺してしまうだろう。だがオペをしなくても、彼女は半年以内に衰弱死するだろう。 ( みんな死んでいく時代やぜ。病院で死なん奴は毎晩、空襲で死ぬんや ) 戸田が今日の午後、 怒ったように呟いた言葉を勝呂は思いだす。回診が終ったあとの大部屋ではひとしきり空咳 こうもり 毒がひびき、患者たちが蝙蝠のようにべッドから這いおりたり、這いのばったりしていた。勝 呂はこの暗い部屋の臭気は、もし人間の死に臭いがあるならばこれなのだろうなあ、とばん やり考えた。 海 本当にみんなが死んでいく世の中だった。病院で息を引きとらぬ者は、夜ごとの空襲で死 んでい 医学部と病院とは街から二里ほど離れた田舎に建てられていたから、まだ敵機の直接攻撃 ゝ。うけてはいないが何時やられるか、わからなかった。病院でも木造の古 はうけてはいなし つぶや
新参のわたしは大部屋患者の係りでしたけれども、ここに寝ている人たちをヒルダさんの ように助けようという気持にはなれませんでした。義務だけの仕事はやりましたが、それ以 上は手をださなかったのです。どうせ何をしたってあの暗い海のなかに誰もがひきすりこま れる時代だという諦めがわたしの心を支配していたのかもしれません。ヒルダさんとの間に ちょっと ふたたび一寸した事件を起したのもそんな気持のためでした。 その日は二階の個室にいる若い人妻が手術をするというので看護婦室はガラ空きでした。 ヒルダさんが病院に来た時もいつもと違って誰も迎えにいかなかったほどです。わたし独り 薬 だけが宿直部屋で血沈表の整理をしていたのです。二寸、来てつかあさい」その時、大部 毒屋に寝ている老人がポロポロの寝まきを着たまま顔をのぞかせました。「前橋さんが苦しん どりますけん」 「どうしたの」 海 「前橋さんが苦しんどりますけん 大部屋へ行くと五、六人の患者にかこまれた中で、前橋という女は眼をひきつらせ、胸を ききよう かきむしって苦しんでいました。看護婦のわたしが見ても自然気胸をおこしたことはハッキ リしていました。胸膜腔に空気が流れこんで放っておくと危ないのです。 研究室に走っていきましたが助手の浅井さんも戸田さんも勝呂さんもみんな手術にたち会 っています。手のあいているのは助教授の柴田先生だけですが、その柴田先生もどこにも見 当らなく、早く空気を抜かねば病人は窒息してしまいますからわたしは手術室に電話をかけ きようまくこう アス。フロ
海と毒薬 「尊敬なんかしてるものか。一度あんな白人の女と寝てみたいとは思っているがね」 「橋本先生と、どのように寝るのかしら」 「ヒルダが、か。彼女なんか、かえってスゴいんたぜ。聖女づらした女はね。あの体格をみ なさいよ。君ひとつ、部長を誘惑してみない ? ヒルダの鼻をあかしてやれよ」 よろこ だが浅井さんに体をいじられても、わたしにはなんの悦びも感覚もありません。わたしは 眼をとじ橋本先生が今日手術で患者を殺したことをヒルダさんにどう話しているかと考えま した。ヒルダさんの白い手やそのプラウスから漂う石鹸の香りを思いだし、その香りに反抗 するためだけに浅井さんにだかれました。 翌日、病院に行きますと、その浅井さんが昨夜とはうって変ったような冷たい表情でわた しを呼びとめました。 「君、大部屋の患者をどうしたの」 「大部屋の患者ですって」 「自然気胸をおこした女だよ。ヒルダさんから電話があったぜ。君をやめさせろと一一一一口うん 「わたしは先生がおっしやったように ゞゝ。ばくは何も一一一口いはしない」 「先生 ? ばく わたしは浅井さんを見つめますと、縁のない眼鏡をキラリと反射させながら彼はわたしか
たのです。 「浅井先生いる ? 」 受話器に出た河野看護婦にわたしは早口にたずねました。「病人が一人、自然気胸おこし たんよ 受話器の奥でなぜか知らないがサンダルの駈けまわる音がきこえました。わたしはふしぎ な気がしましたが、それは普通の時は手術室は気味のわるいほど静かだからです。 「何なの、君」突然、怒ったような浅井さんの声が耳もとに響いてきました。ひどく動揺し 薬 ているような声です。 毒「大部屋の前橋トキが自然気胸を起したんですけれど」 と「そんなの、知らんよ。忙しいんだぜ、こちらは。ほっときなさいよ」 「でも、ひどく苦しんでいますけれど」 海 「どうせ助からん患者だろ。麻酔薬をうって : : : 」 あとが聴きとれぬうちに、浅井さんが受話器をガチャッと切ってしまいました。 ( 麻酔薬 をうって : : : ) とわたしは考えました。 ( 麻酔薬をうって : : : ) どうせ死ぬ患者だろ、という彼の声が心に浮びます。夕暮の陽が研究室の窓からはいって ほこりたま びん 机の上に白い埃が溜っていました。わたしは麻酔用のプロカイン液のはいった瓶と注射針と もど を持って大部屋に戻ったのですがその時病人のべッドの金具をズボンをはいたヒルダさんが 握りしめているのを見ました。
君たちがイヤなら仕方がないが権藤教授の所も五人、参加するらしいし、こちらもおやじと 俺と浅井君と君たち二人で五人になることだから」 「オペですか」と戸田がたずねた。「先生が我々に加われと言われるのは」 「強制しているんじゃない。ただ、承諾しなくても、これは絶対、秘密にしてもらわねば困 るぜ」 「何です。それは」 「アメリカの捕虜を生体解剖することなんだ。君」 薬 毒闇の中で眼をあけていると、海鳴りの音が遠く聞えてくる。その海は黒くうねりながら浜 とに押し寄せ、また黒くうねりながら退いていくようだ。 俺は何故、この解剖にたちあうことを言いふくめられたのだろうと勝呂は眼がさめた時、 アスプロ 海 考える。言いふくめられたというのは間違いだ。たしかにあの午後、柴田助教授の部屋で断 ろうと思えば俺は断れたのだ。それを黙って承諾してしまったのは戸田に引きずられたため だろうか。それともあの日の頭痛と吐き気のためだろうか。炭火が青白く燃え、戸田の吸う 煙草の臭いのために頭はばんやりとしていた。「どうする。勝呂君」浅井助手が縁なしの眼 鏡を光らせながら顔を近づけてきた。「君の自由なんだよ。本当に」あとから部屋に戻って 来たあの小太りの医官が笑っていた。 やつら 「奴等、無差別爆撃をした連中ですよ。西部軍では銃殺ときめていたんだから、何処で殺さ やみ なぜ
「入れて下さい浅井助手はかすれた声で答えた。「何人ですか」 「一人です」 勝呂は壁に靠れて、押しこまれるようにはいって来た背の高い痩せた捕虜を見た。それは 彼がいっか、あの第二外科の入口であった十数人の米兵と同じように草色の身に合わぬ作業 服を着た男だった。 彼は手術着を着た勝呂たちを見ると困ったように微笑をうかべた。そして白い壁や部屋の 隅を眺めまわした。 薬 Sit down here. ひざ 毒浅井助手が椅子を指さすと、男は長い膝をいかにも不器用にかかえて、素直に腰をおろし とた。勝呂は昔ゲイリイ・クーパアという俳優の映画をみたことがある。この痩せた米人の顔 にも動作にもどことなくクーパアに似ているところがあった。 海 大場看護婦長が彼の上衣をぬがすと破れた日本製のメリャス・シャツを着ている。その破 ′、り・いろ・ れ目から密生した栗色の胸毛が見える。浅井助手が聴診器を当てると、捕虜は迷惑そうに眼 にお をつむったが、突然、部屋に漂った臭いを感じたのか、 Ah! Ether, isn't it? ( エーテルだな ) と、叫んだ。 Right, it's for your cure. ( そうだ、お前の治療のためだ ) さすが 浅井助手の声も聴診器を持った手も流石に震えていた。 130 すみなが
らあわてて眼をそらしました。昨夜、この男がしつこいほどわたしの体をいじったのです。 「わたし、やめるんですか」 「やめろと言ってはいないさ。君」 くちびる 浅井さんは唇に例のつくり笑いをうかべて、 「ただ、フラウ・ヒルダが病院に来ると、うるさいからな。一カ月ほど休んでくれよ。あと は、ばくがうまく処理しておくからね」 その夕暮、アパートに帰るとマスの姿が見えません。管理人にきいても首をふるだけです。 薬 この頃は犬さえ殺して食べねばならぬようになったのですから、わたしの留守中、だれかが 毒連れていったのかもしれないのです。部屋の上り口に腰をかけてわたしはしばらくじっとし ていました。もう、どうにでもなれ、という気持でした。浅井さんも浅井さんだが、電話を かけてわたしをやめさせようとしたヒルダさんが憎かった。自分一人が聖女づらをするため こうむ 海 に病院の患者や看護婦がどんなに迷惑を蒙っているのか、あの女は気づかないのです。彼女 が母親であり聖女ならば、女の生理を根こそぎえぐりとられたわたしは浅井さんと寝る淫「冗 になってもかまわないと思いました。マスまでがわたしを捨ててどこかに行ってしまったの です。 一カ月の間、病院にも行かずアパートのガランとした部屋にいるのは辛かった。仕事をし ていれば、むかしのこと、大連のこと、お産の思い出など忘れることができます。けれども 何もするわけでもなく敷きつばなしにした寝床で寝そべっていますと、夫に捨てられた日や つら