便所にたった。何かがぶつかったような鈍い物音を耳にして人々が駈けつけた時、老人は水 洗便所の鎖を握ったまま、仰むけに壁に靠れていた。 勝呂はそれから一週間たったある日、校庭で開かれた医学部葬のことを覚えている。それ たつまき っちぼこり は曇った寒い午後だった。海から吹いてくる風が校庭の黒い土埃や新聞紙を小さな竜巻のよ うに巻きあげながら、天幕をバタ、バタとならした。その天幕の前に白い手袋をはめて軍刀 つか 彼等の横になら の柄を押えている西部軍の高級将校が両脚をひろげて椅子に腰かけていた。 , ぶかっこう んだ教授たちは不恰好な国民服を着ているためか、どれも、にがい疲れた表情をみせ、痩せ 薬 こけてみすばらしかった。一人の将校が故人の写真の前で長い長い演説をやり、医学徒の臣 毒道実践を述べはじめた。 いらだ たんなる医局の研究生にすぎない勝呂にも毎日、おやじの橋本教授の苛立った表情をみる たびに部長の椅子をめぐって医学部の教授たちが動揺していることが薄々と感ぜられる。こ しか 海 の頃、回診の時など、おやじは妙に医局員に当ったり、施療患者を叱りつけたりするのだ。 戸田の表現によると教授たちの大半は権藤第二外科部長の勢力に、「丸めこまれた」のだ そうである。実際の所、年齢から言っても、部内の経歴から言っても、戸田や勝呂のおやじ くつがえ である橋本教授が医学部長を継ぐのは至極当然の話に思われた。その当然の話が覆りはじめ たのは権藤派が市の西部軍と結びついて足がためを前からしていたからだ。これも戸田の しようい 話だが、権藤教授は自分が医学部長になれば大学の二病棟に傷痍軍人だけを収容するという 内約を軍に与えたと言うことだ。そして彼と軍との間をたえず連絡しているのは第二外科の もた
アスプロ ただ柴田助教授はーー・これも戸田の解釈なのだがーーーおやじの出世を妬んでいるらしかっ かきした た。彼はおやじによって育てられたのではなく、その前の第一外科部長、垣下教授の弟子だ ったからである。 主任教授の回診は週に二度ときまっていたのだが、手術前のこの一週間、おやじはほとん ど毎日、田部夫人を診察した。 なが 「秋には退院ですよ。浅井助手の手渡す胸部断層写真を窓の方にむけて眺めながら彼はこの うなず 患者に肯いてみせる。「あとは半年、田舎で寝ていられればいい。来年の正月にはもうすっ 薬 かり健康になりますな」 毒四月の選挙にたいする希望が湧いてきたのか、この所、おやじはふたたび、あの自信に充 とちた姿をとり戻しはじめた。真白な診察着のポケットに両手を入れ、ロに煙草をくゆらせな めいそう びようとう おおまた しく。その少し前かがみの、いかにも瞑想的 がら、一同を従えて病棟の廊下を大股に歩いて ) 海 な姿勢は、田舎者の勝呂にプロフェッサーという言葉のイメージをそのまま与えてくれるよ うだ。大場看護婦長と戸田の背後で兵隊靴を引きずりながら勝呂はおやじにたいして昔のよ あこが うな憬れと神秘的な尊敬をふたたび感じたのだった。 「先生、この娘の手術、大丈夫でございましようか」 ごろ この頃は黒いモンべをはいた上品な母親がいつも田部夫人の病室につきそっている。べッ ドの上に上体だけ起して、若い人妻は右手で寝巻の襟をつまみながら、頬に落ちた髪をかき ほほえ あげて微笑む。 えり ねた ほお み
許しをえて雑種の雌犬を拾ってきました。食糧事情が切迫している時、犬を飼うことがどん ぜいたく なに贅沢かはわかっていましたが、犬でもいし 生きたものと一緒に居なければこのポッカ な リとした生活は慰めようがなかったのです。マスという名をその犬につけたのも大連で亡く すみ おび なった赤ん坊、満洲夫の思い出です。叱るとすぐ怯えて粗相をし部屋の隅にいくこの犬だけ はけぐち が当時のわたしの愛情の疏通ロでした。けれども夜なんかふと眼のさめる時、アパートから 海が遠くないので波のざわめきが聞え、闇の中でその海鳴りをじっと耳にしていると、わた しは言いようのない寂しさにおそわれました。知らないうちに布団の外に手を伸ばして何か はず 薬 を探ろうとしていました。忘れ切った筈の彼の体をまだ探しているのかと気がつくと我なが 毒ら情けなく涙がながれました。だれか一緒に住んでくれる人がほしい、と真実、そんな時思 といました。 海 今更、この手記で弁解がましいことを書くのは嫌ですが、たしかにあの頃、橋本部長はわ たしにとって職業的な先生という以外、なんの関心もない老人でした。一人の看護婦にすぎ ぬわたしから見ますと教授や助教授という偉い先生たちは階級だけでなく、生れまでもちが う別世界の人のような感じがするものです。そして看護婦とよばれるわたしたちは下女のよ うな役目をするのですし、そんな看護婦の一人にすぎぬわたしを橋本部長に結びつけるのは 皮肉なことに彼の妻ヒルダさんでした。 ヒルダさんは橋本部長が独逸の大学に留学していた頃、やはり看護婦をしていた女です。 しか ふとん
100 しいことでした。 しまいか、どうでも ) 「部長先生はそのこと、ヒルダさんに打明けたかしら」 「冗談じゃないよ。君も誰にもしゃべっちゃ、いけないよ あの夕暮、看護婦室で神さまがこわくないかと叫んだヒルダさんの言葉を思いだして、わ たしは微笑しました。それは少し勝利の快感に似ていました。自分の夫がやがてなにをする ゝ。けれども、わたしは知っています。 かヒルダさんは知らなし 「そうね。聖女みたいなヒルダさんではまさか、部長も打明けられないわね」 薬 その夜、浅井さんにだかれながら、わたしは眼をあけて太鼓の音のような暗い海鳴りを聞 よみがえ 毒いていました。ヒルダさんの石鹸の香りがまた蘇ってきました。彼女の右手、うぶ毛のはえ はだ とた西洋人の女の肌、あれと同じ白人の肌にやがてメスを入れるのだなとわたしは考えました。 「白人の肌って切りにくいかしら , 海 「馬鹿な。毛唐だって日本人だって同じだよ」寝がえりをうって浅井さんは呟きました。 わたしはもし、自分があの大連で赤ん坊を生んでいたならば、夫とも別れなかったろうし、 自分の人生もこれとはちがったことになっただろうと、ばんやり考えたのです。 医学生 なだ 昭和十年ごろ、神戸市灘区の東はずれにある六甲小学校で髪の毛を長く伸ばしている男の
て働かされています。もう二度とこの景色も街の姿も見ることはないと思うとわたしの気持 はかえって、さつばりとしました。 市に戻ると、戦争はすっかり南の方まで拡がっていて、街は軍人や職工であふれていま したが、生活はくるしくなる一方で大連を思いだすと、まるで天と地のような違いです。兄 も義姉も出戻りのわたしを見ていい顔をしませんし、わたしもわたしで勝気なものですから カッとして大学病院に看護婦として働くことがきまると、彼等の家を飛び出しました。医学 薬 部に近いささやかなアパートに部屋を借りたのです。 毒わたしがこの病院で主人と知りあった四年前に比べると、医局の人も看護婦の顔ぶれもす と つかり変っていました。むかし研究員だった医者たちは軍医となって出征していましたし、 同僚だった人たちも従軍看護婦として戦地に召集されています。戦争の影響がこんなにまで 海 病院にきているとは大連にいたわたしには夢にも想像できないことでした。第一外科部長だ かきした った垣下先生がなくなられ、その代りに橋本副部長先生があとを継いだことも勤めてみて始 めてわかりました。 夫と別れた以上、どんなことにも我慢して生きていくつもりだったのですが再度の病院勤 めはあまりわたしにはたのしいものではありませんでした。看護婦学校時代のずっと後輩が 今は病院内をわがもの顔に歩き廻り、何かとわたしに指図をするのです。出戻りのわたしの うわさばなし ことは宿直室での噂話にもなっているぐらい知っていました。わたしはアパートの管理人の まわ ひろ
あろう、病室の窓からだれかがよびかけている。消毒室の煙突から乳色の煙がゆっくり空に ながれていく。 ポプラの樹の下で、また、あの老人がシャベルを動かしている。それら毎日 と変らないタ暮の風景をみて、勝呂は突然嗤いだしたくなった。何が可笑しいのか自分でも わからなかった : びようとう 薬 手術の失敗は当事者たちの沈黙にもかかわらず、地面にしみる汚水のように教室にも病棟 ひろ 毒にも拡がっていた。看護婦室でも研究室でも、二、三人が集まると当分、この噂でもちきり さすが とだった。田部家では大杉部長の親類の手前、流石に表だっては抗議してこなかったが、故部 長に育てられた内科系の教授連は、第一外科が内科の意見を押しきって強引に手術を早めた 海 ) 0 ゝヾ からだと、非難しているらしし しすれにせよ部長選挙でおやじが推薦される望みは、これ ほとん で殆どなくなったようである。 ごろ すぐろ そうした事はすべて今の勝呂にはどうでもよかった。この頃は、いも紙のようにしらじらと して、体もひどく重い。仕事にも臨床にも病院にも熱意と関心とを持てなくなってきた。 アスプロ 柴田助教授が思いだしたように、おばはんの手術を二、三カ月延期すると告げたのは、田 部夫人が死んでから三日目のことである。「手術死を二度、重ねりや、第一外科の面目も丸 ほおゆが つぶ 潰れだからなあ」と助教授は肉の落ちた頬を歪ませて笑ったが、勝呂はそれを遠い世界のこ たべ おか うわさ まる
「治りますよ奥さん」おやじはいつも聴診器をしまう時、元気づけるのである。「私が必ず 治してみせますよ。いや、私など大杉先生への御恩返しですな」 いずれはオペをしなければならぬだろうが、その時期は秋と予定されていた。それを急に この前の回診の時だって、おやじ この二月に変更したことが、勝呂にはまた、わからない。 は何かに気を奪われていたためか一言もそれには触れなかったのである。 「なぜ、急に変ったのやろうなあ」 「そこやて問題は。おやじ、この頃回診中、ばんやりしてるやろ。このオペはな」 薬 戸田は椅子から伸び上るようにして窓の外を眺めた。第二外科の入口の前を二人の兵士が おり 毒両手をうしろに組んで檻の中の動物のように往復していた。ポプラの樹の根の下で、長靴を はいた老人が相変らずシャベルを動かしている。 「このオペはおやじの部長選挙と関係あり、と俺は睨んどるんやでー すわ 海 ふたたび椅子に坐ると彼はふるい小型和独辞典の頁を破って、配給煙草の葉を机上の缶か ら掴みだした。 「おやじはできることなら、四月までにあのフラウの手術成績で点数をあげとく必要がある びようそう のや。 いいか、四月には医学部長の選挙があるやろ。患者は大杉一家の親類や。病巣は片肺 の上葉やし、体力も弱っていない。秋まで待つより今月、オペをやって四月には動けるよう にする。そうすれば、大杉門下の内科系教授たちはおやじ側に好意をよせるやろ。第二外科 ならびに権藤教授を選挙前に威圧できるというわけ、なん、や」 つか にら
くちびる んやあらへん」そして戸田は唇のまわりに学生時代から勝呂に何かを教えてやる時の癖で、 相手をみくだしたような微笑をうかべ、声をひそめた。「誰やと思う ? お前」 「わからんなあ。俺。勝呂は眼をしばたたいた。 プレさん 「個室に寝とる田部夫人や。看護婦たちが大杉部長の親類やと一一一一口うているやろう。あの奥さ んや」 そう言われるまでもなく、勝呂はその田部とよぶ若い、うつくしい患者を見知っていた。 平生、回診は大部屋から始まり、二階の二等室がすむと最後は個室で終る。個室では、おや 薬 じの態度も診断も丁寧になってくるが、特にその若い人妻にたいしては細心をきわめた。勝 毒呂も看護婦もカルテの端に「大杉医学部長、御親類」と書きこんだ浅井助手の筆跡を読んで といたのである。 くうどう アメムネーゼ 病歴から言うと若かった。右肺上葉に大豆ほどの空洞と幾つもの小さな浸潤部がある。 まくら ろくまく ゅちゃく 海 ただ、肋膜が癒着しているので気胸はできない。黒い長い髪を清潔な枕カバーの上に思い切 りといて、何時も仰むけにジッと寝ている女性だった。読書好きらしく陽のよくあたる大き な窓の下には勝呂の読んだことのない文学書などが並べてあった。 胸もとを拡げる彼女は病人とはとても思われぬ程美しい皮膚を持っていた。主人は海軍で 遠い所に行っているそうである。そのためか、むっちりと膨らんだ乳房の先も娘のように小 さく赤かった。一日に一度は女中と母親らしい人が風呂敷に食事を入れて運んでくる。すべ てがあの大部屋の患者たちの世界とはちがっていた。 たべ
子供を死なせてしまったことなどが繰りかえし繰りかえし心に浮んできます。別れたあの男 もう一度、会ってみたいとさえ考えることもありました。 そんなある夜、浅井さんがまた、たずねてきました。 「話があるんだがね」 「もう、クビでしょ 「いや」浅井さんは強張った顔をして畳の上にあぐらをかいて、「もっと真面目な話なんだ」 「クビにさせられてまで今更、真面目な話もないわ」 薬 「それなんだが : : : 病院に戻ってもらいたいのさ」 毒「あたしでも手伝うことが、あるんですかねえ。患者を殺そうとした看護婦よ、あたしは 米国の捕虜を手術するという話をきいたのはその夜です。第一外科では部長も柴田先生も 研究生の戸田さん、勝呂さんもたち会うのだが、手伝う看護婦がいないと言うのです。 海 「だから、わたしの所に来たというのね」わたしは引きつった声で笑いました。 「そうじゃないさ。国のためだからな。どうせ死刑にきまっていた連中だもの。医学の進歩 にも役だつわけだよ」浅井さんは自分でも信じていない理由をあげて、照れ臭そうに、「手 伝ってくれるだろう」 「わたしはなにも国のために承知するんじゃなくってよ。先生たちの研究のためでもなくっ てよ」 しいことでした。医学が進歩しようが 四日本が勝とうが、負けようが、わたしにはどうでもゝ まじめ
「おやじの回診は何時に変ったんやー 「三時半やろ」 「また会議かー 「うん」 「あさましい世の中や。そんなにみんな、医学部長になりたいものかな」 まどガラス 毒一月の風が破れた窓をならしていた。窓硝子にはりつけた爆風よけの紙がその風に少し剥 とがれて、カサ、カサと音をたてている。第三研究室はこの病棟の北側にあったから、まだ午 後二時半すぎたばかりだというのにタ暮のように暗く冷え冷えとしていた。 ぶどうとう 海 机の上に新聞紙をひろげて戸田は薬用葡萄糖をふるいメスで削っていた。少し削り終るた てのひら びに、彼は掌にその白い粉をつけて如何にも借しそうに舐めるのである。病棟は静まりかえ っている。一階の大部屋患者も二階の個室患者も三時までは絶対安静なのだ。 黄色い痰の塊を白金線でガラス板に引き伸ばしていた勝呂はそれを青いガス火の上で乾か した。痰の焼けるイヤな臭いが鼻についた。 「ちえつ、ガべット液が足りん」 「なに ? 」 たん にお すぐろ