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検索対象: 淑女失格 : 私の履歴書
86件見つかりました。

1. 淑女失格 : 私の履歴書

舅のあんまは揉み上手の看護婦がした。 世間には人任せの暮しほどらくなものはないと考える人がいるかもしれないが、自 分の意志を持たない生活は人間をフヌケにする。 戦況が不利になっていることも、日本の都市が爆撃を受けていることも、私には遠 い国の出来ごとのようだった。 今思うと夫の両親はそんな私によく我慢してくれたものと思う。いや、我慢してい るわけではなかったのに、私が感しなかっただけかもしれない。私はのらくらしなが きうつ ら、気鬱症のようだった。 だらけているうちに終戦の日が来た。天皇陛下の終戦の詔勅をラジオで聞いたが、 どういうことなのかよくわからなかった。 舅に訊くと、 「耐え難きを耐えて、いっそう頑張れということやろう」 といわれたのでそうか、と思っていたが、夜になって日本は負けたということがわ カた 「愛子さん、あんたらや孫のために用意しておいてやったものがあったが、これでな

2. 淑女失格 : 私の履歴書

戦いの日々 気がつくとあっちの借金、こっちの借金、細かいの、大きいの、いろいろとり混ぜ て三千万余りの借金が私の肩にかかっていた。離婚しなければ債権者が襲ってくると 夫にいわれて離婚したのだったが、その夫自身が恰も債権者の手化のごとくやって来 て私に借金の肩代りをさせていくのである。実際、アレョアレョという間にそれは膨 らんだ。佐藤さんから五百万円を借りられたと喜んでいたが、よくよく考えてみると、 書 歴更に五百万円の私の借金が増えていたということになる。 の 私の父は正直を何よりの美徳とした人間である。損得を考えて行動する奴は人間の 部クズだといった父の声は、今でも私の耳の底にこびりついている。おそらくそれがい 第 けなかったのだ。私は懐に原稿料があるのに「お金はもうない」といえないのだった。 いくらあるかと訊かれれば、ありのままをいってしまう。

3. 淑女失格 : 私の履歴書

可愛い可愛いで育っ 私は大正十二年十一月五日、大阪市住吉公園の近くで生れた。しかし私の戸籍上の 生年月日はなぜか大正十二年十一月二十五日になっている。印鑑証明書交附の申請書 などで、ついうつかり十一月五日と書くと訂正を要求される。真実は十一月五日生れ なんですといくらいっても、お役所は聞き入れてくれないのである。 私の母は憤慨して、産んだこの私が一番よく知ってるんです ! と何度もいったが 歴駄目だった。仕方なく、 公の文書には十一月二十五日とウソの日附を書くが、その者 履 S, 度私は不愉快である。もしかしたら私の人生が波瀾に満ちているのは、このあたりに 部原因があるのかもしれない 第 私は母違いの四人の兄と、母を同しくする一人の姉との末ッ子である。よく泣く赤 ン坊だったのか、私の赤ン坊の頃をよく知っている人からこういわれたことがあった。 はらん

4. 淑女失格 : 私の履歴書

111 第一部私の履歴書 私で必死で原稿を書いていたのである。 だが私は「シームレス」という渾名を聞いて、「それはうま ) し ! 」と笑った。「ね、 うまいだろ」と夫も笑っていた。私たちは妙なところで気の合う夫婦だったのだ。ど ちらかが常識的だったら、どこかで転落をまぬがれたと思う。だが私たちは一一人揃っ て、どこか世間並でない楽天的なところがあって、二人ともそれが気に入っていたの 悲痛な事態の中でも私たちは朗らかにしていた。この悲痛な事態は今だけのことで あって、そのうちにいい方に向っていくだろうと根拠もなく思っていた。多分夫がそ 、フ限っているから、私もそう限ったのだろ、つ。ここまできた以上、そう思うしかなか

5. 淑女失格 : 私の履歴書

152 この時、ばあや ( 右端 ) は幾つだったのか知らない。私は六歳である。 私は母よりもばあやが好きだった。表から帰ると「お母ちゃんは ? 」といわす」 「ばあやは ? 」と訊 = = いた。ばあやの身の上がどんなで、なぜ私の乳母になったのか。 私は知らない。ばあやのおつばいは長くて柔らかで、 いくらでもお乳が出た。たっ り出たところをみると、私の家へ来たのは赤ン坊を産んだ後だったにちがいない。 世話をした人が「子育て地蔵」といわれてるお人でっせ、と太鼓判を押したとい、 話を母から聞いたことだけ億えている。 ばあやは私が何をしてもらなかった。 「そんなことしたらいかん ! これッ ! 」 しり という尻から目が笑っていた。鼻が低くて鼻筋がなかった。私も鼻が低かったの ( 母はよく、「ばあやのお乳を飲んだからやろか」と私をからかった。

6. 淑女失格 : 私の履歴書

ッケ文 超過保護のために私をがんじがらめにしていたひ弱さ、怖がり、恥かしがりやの下 から、まるで凍土を破って顔を出す雑草のように本来の私ーー父の激しい血を受けて 生れてきた私が出てきた。 友達が怖がることでも私は怖くなく、以前は人前でしゃべることも出来なかった恥 かしがりやが、何かというとしやしやり出て演説をぶつ女学生になっていた。甲南と 歴いう品位を重んじる学校の、自由な校風のおかげである。甲南では生徒を「淑女」と 履 しっせき 見なして教育しているので、教師が叱責するよりも、示唆して淑女の自覚を待っとい 部うのが教育方針だと聞いたことがある。 第しかし私にはその示唆が利かなかったので、私のためにクラス全員が先生から叱ら れるということが何度かあった。その一回は裁縫室の掃除当番をサポったことであり、

7. 淑女失格 : 私の履歴書

祖父・弥六 私の祖父佐藤弥六は津軽藩の微禄な藩士だ 0 たが、膳行の兵学を修め、その後 藩命によって上京、勝安房塾に入塾した後、更に洋学を学べという命令で福沢諭吉の 英学塾で学んだという人である。 ひろさき 維新後は弘前市で西洋小間物の店を開いたりしていたが、客が来て値段を聞くと、 、つるさ い、はしければ勝手に持っていけ、と怒鳴ったりしたので経営が成り立つわけ がなく、晩年は郷土史研究や農業改善に力を尽して八十一歳で亡くなった。 祖父は弘前では知らぬ者はいないといわれたはどのロやかましい頑固者で、生涯妥 協というものを知らすに過した。人に向ってことごとに馬鹿者呼ばわりをしたので、 祖父が死んだ時、弘前の人たちは「これで弘前から馬鹿者がいなくなった」といった レ J い、つ 0

8. 淑女失格 : 私の履歴書

生町の長兄の家に寄寓していた。夫を病院へ見舞った日、私は父母に鶏卵を届けに行 った。その帰り上野駅まで送ってきた母は私にいった。 「いつまでもこんなことをくり返しててもしようがないやないの ? 」 やみいち 季節はいつだったか憶えていないが、闇市の雑踏に近く、晴れた日だったことだけ 記億に残っている。私は一一人目の子供をおんぶしていた。 「さん ( 夫の名 ) は病院から出てきてもまた始めるやろうからねえ」 母よいっこ。 「いろんな人に聞いたけど、アレはなかなか治らんというからねえ : : : 」 私は夫を監視することに一所懸命になっていて「治らないかもしれない」と思った ことはなかったので少しムッとした。 そろそろ先のことを考えた方がいいと母はいった。母はいつも冷静で感情に惑わさ れることなく現実を直視し、見透す人だった。 母のいうことはわかる。 けれどこの先、子供を連れてどうして生きて行けばいいのか ?

9. 淑女失格 : 私の履歴書

174 漸く借金を返し終った時、預金通帳に若干の金があるのを見て、私は北海道浦河町 の丘の上に坪二千円の土地を五百坪買って家を建てた。隣家は七〇〇メートルも離れ ていて、そこから電気を引くのに電柱を十本立てねばならなかったという、問題の家 がこの写真の家である。 こんな所に一人でいて、よく寂しくありませんね、と訪ねて来る人はみないう。し かしこの広い空の下で、ワーグナーやべー ーベンのレコードをポリュームいつばい にして聞いていると、寂しいどころか、私には「至福」とはこういうものではないか と思えたのである。 しかし至福感は束の間、 ( ああ、なんと私には次々とことが起きてくることか ! ) 私はこの地で超常現象というものに遭遇し、その時から神と霊魂の存在を信じるよう になった。そして、不幸も幸福もすべての現実を抵抗せすに受け容れて、あるがまま に生きよ、つと思えるよ、フになったのである。

10. 淑女失格 : 私の履歴書

い」ただ一人の先生だ。正木先生のおかげで私は学校での緊張が解け、リラックスし て自分を出せるようになったのだったから。 正木先生は師範学校を出たばかりの、若々しく明るい先生だった。穏やかで素直な 人柄は、私のような厄介な感受性を持っている子供にも、あたたかなお湯のように染 み込んだ。先生は教育熱心の権化ではなかった。おそらく子供が好きだったのだと思 う。授業中に習いたてのマンドリンを弾いて聞かせるといった稚気があった。 きまま 私は緊張を解き、先生に甘え、家にいる時のように気儘を出すようになっていった。 学校も先生ももう怖い人ではなくなった。もし二年の時に正木先生に担任になられな かったら、私はもう少し違った少女になっていたかもしれない。正木先生は今は田中 すもと という姓になり、淡路島洲本で悠々自適の日を送っておられる。 歴私の成績がよかったのは、低学年時代だけである。高学年になるに従って、私はだ 履 のんだん落ちていった。 一年から三年あたりまではたいして勉強をしなくても、ある程 部度の成績はとれた。だが四年生になると勉強をしなくては出来なくなる。 こと 第 私は勉強が嫌いだった。殊に算術に分数が出てくると俄然わけがわからなくなった。 「うん、うん、わかった」といいながら母の 母は躍起になって私に算術を教えたが、